ページ内Index
フランス革命
【前回までのあらすじ】
フランスに焦点を当てた解説記事は(11)フランス王権の衰退で終わっていました。その後もちょこちょこ他の国と付随して登場しているのですが、今回は再度フランスの視点でおさらいしておきましょう。
ルイ14世(王位1643-1715)は宮廷での豪華な生活を推奨し、しかも戦争で領土を拡大できずに終わるという最悪の王様でした。(彼の在位中の最後の戦争はスペイン継承戦争で、戦争に負けてイギリスとオーストリアに領土を奪われました)
その後、王位は甥であるルイ15世(王位1715-74年)へと移ります。ルイ15世は、オーストリア継承戦争にプロイセン側として参戦しましたが何も得られず終わってしまいます。
8年後の七年戦争では、仇敵であったオーストリア=ハプスブルク家と組んで(外交革命)参戦しましたが、敗北してしまいます。(同時期にアメリカ新大陸でもイギリスとフレンチ・インディアン戦争を行いますが敗北します)その後の講和条約であるパリ条約では、新大陸の領土をほとんど失います。
このようにフランスがこれまで解説記事に大きく登場しなかったのは、良いところが全く無かったからなのです。(笑)
一方で、啓蒙思想は普及しました。デカルト・モンテスキュー・ヴォルテール・ルソーなど名だたる思想家たちはフランス出身です。
その後ルイ16世(王位1774-92年)が即位します。ちょうど即位の前年はボストン茶会事件で、アメリカでは独立気運が高まっていました。フランスのラファイエットも独立軍に参戦し、1778年にはアメリカと同盟して独立を支援しました。
このアメリカ独立戦争に触発されて、フランスでもいよいよ革命が起きることになります!
旧制度(アンシャン・レジーム)への反発とフランス革命の始まり
フランス革命(1789-99年)とは、「強力な絶対王政が敷かれていたフランスでの特権制度(旧制度)を打破しようとした、ブルジョワ階層主導の革命」です。わかりやすく説明していきます。
旧制度(アンシャン・レジーム)とは?
<平民を踏みつける、聖職者と貴族>
まずフランスは絶対王政の国です。フランスの王政は遡れば、フランク王国のクローヴィス王(481年)です。それだけ長い間王政が敷かれていたからこそ、フランスでは身分制度の差が激しく矛盾と不満を抱えた社会となっていました。この革命前のフランスの社会体制のことを旧制度(アンシャン・レジーム)と呼びます。
その代表が身分制度。フランス国民は3つの身分に分類され、さらにその身分間でも格差が生まれていました。
●第一身分は聖職者。さすがはカトリック教国です。総人口2500万人の内の0.5%の特権階級です。聖職者の中でも高いレベルにいる人は、貴族出身者ばかりで領土も持っていました。
●第二身分は貴族。総人口の内の1.5%で構成され、フランスの国土の20%は貴族たちが所有していました。
●第三身分は、平民です。一口に平民といっても、その富裕度は様々でした。農民と市民で大きく分けられ、市民の中でも特に商工業に従事した市民たちは重商主義の波に乗って富を蓄えていきました。ただし平民である限り、政治への参加は一切認められませんでした。
お金を持った市民はブルジョワ(有産市民)と呼ばれ、フランス革命を主導する存在となります。
ブルジョワ層と啓蒙思想
ブルジョワ層が経済力をつけていく中で、彼らの政治への不満は高まるばかりでした。貴族たちが政治権力で自分たちの経済活動を妨げてくるのに、ブルジョワ層たちは一切、政治に参加できないからです。
さらに理性的な考え方を推奨する啓蒙思想が広がり、そこにアメリカ独立革命が重なりました。啓蒙思想で社会は・国家は変えられるということをフランス国民が実感した瞬間でした。
1789年にはアベ=シェイエスの「第三身分とは何か」が大きな反響を呼びました。アベ=シェイエスは、「第三身分はフランスのほとんどを構成する存在でありながら権利は一切所有していないため、不満を持った第三身分は変化を求めている」と主張しました。
このようなブルジョワ層・第三身分たちの不満は、絶対王政下での戦争や宮廷生活での浪費へと向けられ、フランス革命が起きます。
フランス革命はアメリカ独立革命に比べて複雑です。アメリカの場合は、イギリスVSアメリカという構図でしたが、フランスでは王権に対して貴族・ブルジョワ・都市民衆・農民という4つの社会階層の思惑が複雑に絡み合います。
1789-91年 フランス革命の展開 -国民議会-
1789年5月 三部会が開かれる
最初に述べた通りフランスは戦争をしすぎ&戦争の見返りがほとんどなかったため財政難です。そこでルイ16世はテュルゴーを財政総監に命じて財政改革を行わせますが、尽く失敗し辞職します。
続いてルイ16世はネッケルを財政改革担当に任命しました。ネッケルは特権身分への課税を提案したことで民衆から大変な人気を獲得しました。
ネッケルの特権身分への課税案を進めるためにルイ16世は、1614-15年にリシュリュー(ルイ13世の宰相)が三部会を開いて以来、174年ぶりにフランスで三部会が開かれます。
久しぶりに開かれた三部会ですが、身分制議会であるがゆえに特権階級と第三身分が投票の方式で対立しました。結局お互いの溝は広がる一方で意見がまとまらずに終わります。
1789年6月 国民議会の成立と「球戯場の誓い」
三部会という身分制議会が許せない第三身分議員たちは、三部会を抜けて国民議会という新たな議会を作ってしまいました。
そして本当に国民を代表するのは国民議会だとして、憲法制定までは決して解散しないと宣言しました。これが、球戯場の誓い(テニスコートの誓い)です。
国王側・貴族たちは国民議会を武力で弾圧しようとし、第三身分に人気が高かったネッケルも罷免、つまりは辞職させられます。
1789年7月 バスティーユ牢獄襲撃事件
国民議会の弾圧や、ネッケルの罷免に対して反発したパリの民衆たちは、終結して市民軍を組織して武器を求めてバスティーユ牢獄を襲撃しました。
この事件をきっかけに農民たちの暴動が全国へと広がり、貴族たちの館が次々と襲撃されました。
他にもバスティーユ牢獄襲撃を受けたルイ16世が側近に「暴動か?」と問い、「いいえ陛下、これは暴動ではありません、革命でございます」と答えた逸話は有名です。
1789年8月 封建的特権の廃止
農民たちの暴動はとどまることを知らず、社会恐怖が生まれつつありました。
そこで、農民の暴動を抑えるために国民議会は封建的特権の廃止を決議しました。具体的には、農奴制・領主裁判権・十分の一税などの無償廃止です。こうして、農民の人格的自由が認められることになります。
この決議によって農民の暴動は収まり、社会不安はとりあえず収束します。
1789年8月 フランス人権宣言を採択
1789年8月、国民議会はラファイエットらが起草したフランス人権宣言を採択します。(アメリカ独立戦争に参加したラファイエットが関わっているのは注目です。)
フランス人権宣言では、全ての人間の自由・平等・抵抗権などを認め、主権在民、言論の自由、私有財産の不可侵が定められました。
フランス人権宣言は、アメリカ独立宣言の影響はもちろんのこと、ルソーの思想の影響も受けています。
1789年10月 ヴェルサイユ行進
1789年にはパンの値上げに苦しむパリの女性たち7000人が、ヴェルサイユで行進し、宮殿の中へと乱入しました。
その結果、ルイ16世ら一家はパリのテュイルリー宮殿へと移され、革命派の監視下に置かれることになります。この事件をきっかけに、ルイ16世はフランス人権宣言を承認しました。
1790年にはギルドの廃止・教会財産の没収・メートル法の統一など改革が行われます。
1791年9月 1791年憲法の制定
1791年9月、国民議会は一院制の立憲君主制・納税額による制限選挙を定めた憲法を発布します。
フランス初の憲法が無事定められたので、国民議会はテニスコートの誓い通り解散します。
1791年 ヴァレンヌ逃亡事件
<逃亡中に発見されるルイ16世一家>
フランス初の憲法が定められた年、テュイルリー宮殿で監視されていたルイ16世は王妃マリー・アントワネットの故国オーストリアへ逃亡を企てます。これがヴァレンヌ逃亡事件です。結局、ヴァレンヌで捕まり失敗してしまいますが。
この事件後、国民のルイ16世への信頼は地に落ちます。
1791-92年 フランス革命の展開 -立法議会-
国民議会が制定した1791年憲法に基づいて、財産に基づく制限選挙が行われ、立法議会が成立します。
しかしこの立法議会では、2つの勢力が対立し合うことになります。立憲君主派とジロンド派です。
立憲君主派は、これ以上の革命を望まず立憲君主政の維持を求めた自由主義貴族と一部のブルジョワ層です。(フイヤン派とも呼ばれる)
ジロンド派は、共和政を求める穏健派で、商工業に従事するブルジョワ層で構成されていました。
1792年に立法議会では、ジロンド派が勢力を握りました。
1792年 オーストリア宣戦
<フランス凱旋門に掘られた彫刻「1792年義勇兵の出陣」>
立法議会のジロンド派は、まずはフランスに敵対的な王妃の故国オーストリアに宣戦します。
しかしオーストリア・プロイセン連合軍に攻め込まれ苦戦します。
そこに現れたのが義勇軍です。祖国の危機に応じた全国の民衆がパリへと終結し義勇軍を組織して、オーストリア・プロイセン連合軍と戦いました。
1792年 八月十日事件(王権停止)
オーストリアに宣戦したものの負けまくりの立法議会に対し、民衆の不満は高まり続けます。
そんな中1792年8月10日、義勇軍はパリの民衆とともに国王が監視されていたテュイルリー宮殿を襲います。
これを受けて立法議会は、王権を停止させ、立法議会を解散。次の国民公会の招集を決めます。
1793-94年 フランス革命の展開 -国民公会-
新しく男子普通選挙によって成立した国民公会では、王政を廃止し、フランス初めての共和政の樹立が宣言されます。(フランス第一共和政)
ジャコバン派の急進的な改革
国民公会で主力の勢力となったのは、急進的な共和派のジャコバン派です。ジャコバン派は共和政を急ぐあまり、共和政には不要な国王ルイ16世を処刑します。
これに対してイギリスの首相ピットは第一回対仏大同盟をヨーロッパ各国と結び、フランスの暴走を警戒しました。(要するにヨーロッパ中が軍事同盟を組んでフランスと対立したということ)
こうしてフランスはヨーロッパ中を敵に回したため、フランス内部で農民反乱が相次ぎました。(ヴァンデー反乱など)
ジャコバン派は、フランス内外で起きる混乱に迅速に対処しようと独裁政治を行うようになります。
まずは対立派のジロンド派を国民公会から追放します。
次に国民公会の委員会の1つ、公安委員会の指導権を握ったロベスピエールが頭角を表し、強力な行政権を握るようになります。ジャコバン派のロベスピエールによる独裁政治の始まりです。公安委員会主導で、徴兵制や革命歴・理性崇拝によるキリスト教の否定など過激な政策を施行していきました。反対する勢力は次々と処刑していく、恐怖政治を行ったのです。
1794年 テルミオドール9日のクーデター
しかしジャコバン派の恐怖政治は長くは続きません。過激な政策を行いすぎたジャコバン派は、テルミオドール9日のクーデターで失脚します。独裁政治を行ったロベスピエールは処刑され、穏健共和派が国民公会の主導権を握ります。
1795-99年 フランス革命の展開 -総裁政府と統領政府(ナポレオンの登場)-
1795年 総裁政府の樹立とナポレオンの登場
1795年、国民公会は新憲法である1795年憲法を制定して国民公会は解散。新たな政治体制として総裁政府が始まります。
しかし1796年のバブーフの私有財産の所有を否定する社会主義運動など、社会不安が続きました。
そんな中で、ナポレオン=ボナパルトという1人の軍事指導者に注目が集まり始めます。ナポレオンは国内の反乱を鎮圧したり、イタリア遠征などで名を上げます。
1799年 ブリュメール18日のクーデターと統領政府の樹立
1799年エジプト遠征先のイギリス軍に苦戦していたナポレオンは、こっそりフランスに戻ります。というのも1799年に第二回対仏大同盟がヨーロッパ各国で結ばれたことで、フランスが軍事的に危機的な状況にあったからです。
総裁政府はこのヨーロッパ各国の軍事同盟に対処しきれずに、国民の信頼を失います。今この時、フランス人が求めたのは強い軍事的な指導力を持ってこの危機的状況を救ってくれる人物。そうナポレオンです。
エジプト遠征から戻ったナポレオンは、ブリュメール18日のクーデターで総裁政府を倒して統領政府を樹立します。
統領政府ではナポレオンの実質独裁体制だったため、これにて市民層によるフランス革命は終了です。今後はナポレオン=ボナパルトという強い権力を持った男を中心に歴史が動いていきます。
1つの国家に属しているという意識を強く持った国民で構成された国家を国民国家と呼びます。フランス国に属する意識を高めたフランス人は1つにまとまったからこそ、義勇軍も強さを発揮したのです。
そしてこの国民国家の考えはヨーロッパ中に普及して、これからのナポレオン支配に抵抗する理由ともなります。我々イギリス人がなぜ、フランス人に支配されなければならないのか?ということですね。