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市民による革命の始まり-アメリカ独立革命-
【前回までのあらすじ】近世ヨーロッパ(14)ヨーロッパの海外進出
Histraceでの「近代」は、アメリカ独立革命から始まります。
Histraceの「近世」は大航海時代から始まり、1492年にコロンブスが発見したアメリカ大陸は、ヨーロッパ各諸国によって開拓され、新たな海外市場として発展しました。
イギリスもアメリカを開拓した国の1つです。
1607年のイギリス最初のアメリカ大陸植民地ヴァージニアの獲得から始まり、続いて北アメリカ大陸の東部に進出したピルグリム・ファーザーズがニューイングランドを獲得し、そこから広がり18世紀前半には13植民地をイギリスが支配することになります。
さらにイギリスは、フレンチ=インディアン戦争の終結後(1763年)、ミシシッピ川以東をイギリス、ミシシッピ川以西をスペインが支配することになりました。
しかしイギリスはフレンチ=インディアン戦争に多額の戦費を使ってしまったため、財政難となります。戦争でお金が無いイギリスは、アメリカなどの植民地への課税を強めていくことになりますが、植民地側からの反発が大きくなっていくのが、アメリカ独立革命の始まりです。
北アメリカ植民地での独立意識の高まり
イギリスが獲得したヴァージニアでは、早くから近代化が進んでおり、1619年にはイギリス議会を参考に植民地議会が開かれます。自分たちの植民地のことをしっかりと考える土壌が生まれ、自主独立の意識が形成されます。
大学の創設や新聞の発行も行われ、知識豊かな市民層も存在しました。
特にピューリタンが多かったニューイングランドでは、歴史的な背景(ジェームズ1世からの弾圧から逃れた)からもイギリス本国への批判傾向が強かったようです。
こうしてアメリカ大陸の13植民地は、イギリス本国への独立意識を形成していきました。
1765年 印紙法の施行
1763年、フレンチ=インディアン戦争が終結してからは、イギリスは財政難から植民地への課税を強めます。
特に1765年にイギリス植民地へ施行された印紙法は多くの反発を集めました。印紙法は、植民地で発行される印刷物全てに対して課税するという乱暴な税金です。市民たちの言論の自由の場である新聞にも課税されたため、市民意識が形成された植民地で大きな反発を招きました。
印紙法を決定したイギリス本国議会に対して、植民地側は代表議員を送り込むことができなかったため、「植民地側の代表の意思が盛り込まれてないこの決定は無効だ!」という主張が広まり、「代表なくして課税なし」というスローガンが生まれました。
あまりに植民地の反発が大きかったので、イギリス本国は印紙法を翌年廃止します。印紙法は廃止されたものの、以降ガラスや紙・茶などの輸入へと次々と課税が行われ、植民地側の不満は募るばかりでした。
1773年 ボストン茶会事件
植民地側の不満が頂点に達したのが1773年のボストン茶会事件です。これがアメリカ独立革命の発端となります。
イギリス本国からの茶の輸入にも多額の課税が行われていたアメリカなどの植民地側は、対抗策としてオランダから茶を密輸入していました。これによってイギリス東インド会社は、茶の輸出量が減って大打撃を受けます。
そこでイギリスは1773年に茶法を制定し、貿易会社であるイギリス東インド会社が13植民地で販売する茶を免税として、さらに安い茶をアメリカ植民地に流すことにしたのです。
イギリス本国の勝手な決定によって安価な茶が流れ込み、植民地の商人たちは儲からなくなって大激怒。茶法への反対派たちが、ボストンに停泊していた東インド会社の船を襲い、積荷であった茶を全て海に投げ捨てました。
これにイギリス本国が激怒して、イギリスと植民地側の対立が明確になります。
アメリカ独立戦争の始まり 1775-83年
ボストン茶会事件によってイギリスとの対立が決定的となった13植民地側は、独立戦争を行います。
1774年 大陸会議を開く
1774年に植民地側は大陸会議をフィラデルフィアで開き、イギリス本国への対応について議論し合いました。この時点では、イギリス本国との戦争を行おうと決議されたわけではありません。
1775年 レキシントンの戦い(アメリカ独立戦争の始まり)
イギリス軍がボストン郊外の倉庫に貯められた軍事物資を押収しようとして、植民地側の兵士が抵抗。いつの間にか銃撃戦が始まってしまい、これがアメリカ独立戦争の最初の戦いとなりました。
開戦がいつの間にか始まってしまったため、再度大陸会議が開かれ、ワシントン司令官の下、明確にイギリスvsアメリカの戦争が始まりました。
1776年1月 トマス=ペイン「コモン=センス」の発行
レキシントンの戦いで開戦したものの、13植民地側の世論はバラバラで、開戦派・独立派は多数派ではありませんでした。(民衆としては自分の知らないところで、いつの間にか戦争が始まっていたということで困惑したことでしょう。)
そんな世論を「独立・開戦」へと動かしたのが、トマス=ペインの「コモン=センス」で、大ベストセラーとなりました。コモン=センスとは「常識」という意味です。我々の権利・自由を侵害するイギリスからの独立は当然であり、常識だ、として独立戦争への気運を高めました。
1776年7月4日 アメリカ独立宣言
1776年7月4日、大陸会議で宣言されたアメリカの独立。この日をアメリカ人は今でも大切に祝い、祝日としています。
トマス=ジェファーソンが原案を起草した独立宣言では、イギリスの政治を糾弾し、自由・平等・幸福追求など基本的人権とイギリスに抵抗する革命権を認めることを宣言しました。
ロックの「市民政府二論」の思想を参考にしていることが伺えますね。
このように自由・平等を人間の当然の権利(=基本的人権)とする考え方は、フランスの人権宣言と同様に近代民主政治の基礎となっています。
独立軍の苦戦と、ヨーロッパ各国の支援
アメリカ独立宣言が意気揚々と叫ばれたものの、この時期の独立軍は苦戦していました。独立軍といっても普通の農民を徴兵した集団なので、イギリスのプロ軍人たちにかなうはずがありません。
そんな独立軍を助けたのはヨーロッパ各国でした。外交家のフランクリンの活躍もあって1778年フランス・1779年スペイン・1780年オランダからの支援を取り付けました。ポーランドのコシューシコや、フランスのラファイエットはこの独立戦争で名を上げた英雄たちです。
他にもロシアのエカチェリーナ2世を中心に武装中立同盟が結成されました。イギリスはアメリカの物資を困窮させるために、あらゆる国の商業船が貿易を行わせない海上封鎖を行っていたため、これに対立した中立国たちの同盟です。
この独立戦争に中立である国のアメリカへの交易を主張して、物資の面で独立戦争を支援しました。
こうしてヨーロッパ各国の支援を受けながら、1781年のヨークタウンの戦いに勝利した独立軍は、イギリス軍を降伏させました。
1783年 パリ条約でアメリカ独立戦争の終結
1783年のパリ条約で、イギリスはアメリカと講和条約を結び、13植民地をアメリカ合衆国として正式に認め、ミシシッピ川以東のルイジアナをアメリカへと割譲しました。
アメリカ合衆国憲法の制定
独立戦争を行うということは、新しい国を作る!ということです。そのためには様々な手続きが必要で、中央政府の樹立と憲法の制定もその1つです。中央政府が各州の反乱を諌め、憲法が中央政府の暴走を諌めるという相互補助関係にあります。
アメリカ合衆国がイギリスから独立したものの、独立直後はかつて13植民地であった13の州から成るゆるやかな連合国でした。強い力を持った中央政府が存在しないため、地方各地で小さな反乱が続きます。
そこで、アメリカ合衆国に強い中央政府を樹立しようという動きが生まれます。
1787年 アメリカ合衆国憲法の制定
1787年にフィラデルフィアで開かれた憲法制定会議でアメリカ合衆国憲法が定められました。
合衆国憲法の特徴は、人民主権・連邦主義・三権分立の3つ。
人民主権とは、アメリカ合衆国憲法の前文が「合衆国の人民は、より完全な連邦を形成し、・・・われらとわれらの子孫の上に自由の祝福のつづくことを確保する目的をもって、アメリカ合衆国のために、この憲法を制定する」と始まるように、主権は人民にあるという考え方です。
連邦主義とは、各州に大幅な自治権を与える一方で、強い中央政府の存在もまた認めるということ。この連邦主義を巡って、中央政府の力をより強くすべきだと考える人達と、中央政府の力はより制限すべきだと考える人達でアメリカは非常に揉めて、連邦派と反連邦派で政党が別れることになります。
三権分立とは、国家権力を司法・行政・立法の3つに分けることで、権力の暴走を防ごうという考え方です。モンテスキューが「法の精神」にて主張し、アメリカ合衆国憲法に取り込まれました。
1789年に、アメリカ合衆国憲法を下に連邦政府が発足し、ワシントンがアメリカ初代大統領に就任します。
アメリカ独立戦争の意義と問題点
アメリカという新しい国、しかも共和政という王がいない国家体制の登場はヨーロッパに大きな衝撃をもたらしました。
絶対王政が当たり前のヨーロッパにとって、市民が自由を求めて革命を起こすことが明確に意識されるようになり、直近ではフランス革命へと繋がります。
ただ、問題点としては黒人奴隷・インディアンの基本的人権は無視されたままなので、今後はそこに焦点が当てられていくことになります。