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女真族による王朝の復活 -清-
【前回までのあらすじ】(8) 明と北虜南倭
約270年続いてきた漢民族の国、明王朝も17世紀には財政難により政治混乱が起き、1644年に李自成の乱で滅亡しました。
明の財政難の主要因は、北虜南倭による戦費調達のためでしたが、その北方地域にて明を苦しめた民族の1つが女真族でした。かつて1234年にオゴタイ・ハン率いるモンゴル帝国に滅ぼされた女真族の国、金がありましたが、女真族たちは元・明に服属する形で民族を保っていたのです。
そして明末に、女真族のヌルハチという人物が1616年に北方にて後金を建国し、明に侵攻して圧力をかけていきます。
清王朝(1616〜1912年)
1616〜26年 ヌルハチ
女真族のヌルハチは、後金建国以降、明に対して徹底抗戦し、八旗という軍事組織制度や、満州文字を作ります。
1626〜43年 ホンタイジ
ヌルハチが後金の建国者ですが、国号を20世紀まで続く”清“としたのは1636年のホンタイジです。しかしこの時点ではまだ明は滅んでいません。山海関という北京を守る東北の関所にて、女真族の侵攻は何度も阻まれていたからです。(上の画像で場所を確認してみてくださいね。)
1643〜61 順治帝
女真族が北京を攻め込む前に、1644年に李自成の乱という女真族からしてみれば明の内乱にて、首都北京が陥落します。
李自成は当然、次の中国の新皇帝になる準備を進めていましたが、ここで思わぬ落とし穴。山海関を守っていた明の武将、呉三桂が清王朝に勝手に降伏して寝返り、清朝軍とともに北京へと侵攻し始めたのです。
すぐに清によって北京は陥落され、わずか40日で李自成の天下は終わりました。
清朝の中国支配に協力した呉三桂は当然、清の中でしかるべき立場が約束された上での裏切りでした。三藩と呼ばれた呉三桂を含む3人の将軍が、漢民族ながらも中国各地の支配権を認められ、呉三桂は雲南地方を支配しました。
この時代の清皇帝である順治帝は、まだ5歳。当然、政治は叔父のドルゴンが実権を握りました。ドルゴンは女真族の風習である辮髪を漢民族にも強制して、逆らう漢民族は殺されたので中国全土に風習として普及していきました。
辮髪といえば、キン肉マンの”ラーメンマン”です。中国人といえば、この辮髪が思い浮かんでしまうのも清朝の制度が影響しています。
1661〜1722年 康煕帝
順治帝はわずか23歳にて天然痘にて亡くなってしまい、その子の康煕帝が4代目清王となります。
康煕帝は中央の権力を強めようと、地方の支配権を認められた三藩を廃止しようと動きます。これに反対した呉三桂をはじめとする三藩は反乱を起こします(三藩の乱)が、1673〜81年の戦乱の中で鎮圧されます。
三藩以外にも、清王朝への対抗勢力がありました。かつての明の将軍で海の向こうの台湾を支配していた鄭成功です。かつて1624年よりオランダによって支配されていた台湾を、1661年に鄭成功が追い出して支配していたのです。
鄭成功は、明の復興を願って反清活動を行いましたが、清朝の海禁政策で貿易網を失い、1683年に清に降伏します。
三藩の乱の鎮圧、鄭氏台湾の支配を経て、清王朝/康煕帝による中国統一支配はより強固となっていきます。
康煕帝の死後は、雍正帝(1722〜35年)、乾隆帝(1735〜95)と18世紀の清は3人の強い権力者による支配が続きます。
清王朝の外交政策
内部の反乱勢力を抑えて安定した支配基盤ができたことで、清朝は対外政策も活発に行いました。
ロシアとの戦いの後、ネルチンスク条約(1689年)やキャフタ条約(1727年)によって国境線を明確に定めたり、モンゴル、チベットへと支配地域を広げていきます。
乾隆帝の時代には、モンゴル系ジュンガル人、ウイグル人を征服して東トルキスタン地域を新疆と呼びました。18世紀後半の乾隆帝の時代が、清王朝の最大領域となり、現在の中国領土の原型となります。
清王朝は広大な地域を支配していましたが、全て直接支配していたわけではありません。内陸部、東北地方、台湾のみが直轄領です。他のモンゴル、チベット、新疆、青海といった地域は藩部と呼ばれ、各民族に統治を任せる間接統治が行われました。とはいえ野放しにはできないので藩部の統治を監視する、理藩院という組織ができます。
清朝は基本的に藩部の文化、宗教には干渉せずに間接統治を行いました。
清王朝の貿易政策
鄭氏台湾を支配した後の清朝は、海禁政策を行う必要性が無くなったため廃止しました。
18世紀は全世界的に貿易が栄えた時代です。乾隆帝の時代にはヨーロッパ船の来航を、広州1港に限定します。そして公行という、清朝に認められた商人組合のみが貿易の管理を許されました。
唐の時代に広州に市舶司が置かれたように、広州は海外貿易で大きく発展した都市です。(すぐ近くには香港/マカオがあります。)
<マカートニーの乾隆帝への謁見の様子。一行がイギリスを出発した際に描かれており、あくまで様子は想像。>
ヨーロッパ諸国は、非常に制限された中国の貿易体制を嫌い、1792年にイギリスのマカートニーが派遣して、広州以外の港を開放し、公行以外の商人とも取引できる自由貿易を求めました。
しかし乾隆帝は、これを拒否。理由は、これまで東アジア圏では当然であった朝貢貿易的な考え方を重視して、あくまで下の身分であるイギリス側が中華の貿易体制に文句をつけることを許さなかったためです。
(朝貢貿易とは、周辺諸国が、礼をもって頂点である中華帝国に訪問して、商取引を行うという上下関係が明確な隋・唐時代から行われている東アジアの貿易体制です。)
18世紀以降のイギリスは、国内での紅茶需要の急増に伴い、広州から中国茶を大量に輸入していました。しかしイギリス産業革命の産物である綿製品は中国では全く売れませんでした。すでに中国の南京では綿織物産業が発達しており、国内の安価な綿製品が売れていたからです。
イギリスは一方的な貿易赤字に悩まされ、かの有名な極悪アヘン戦争に手を染めることになります。
清朝でのキリスト教の宣教師たち
<円明園の跡地。アロー戦争でボロボロに破壊されましたが、かつては豪華な西洋風の建物でした>
明朝にイエズス会のマテオ・リッチが重用されたように、清朝でもイエズス会の宣教師が西洋から持ち込んだ技術を重宝しました。
例えば、皇輿全覧図に協力したブーヴェ、円明園の設計に関わったカスティリオーネ。
イエズス宣教師はキリスト教の布教にあたり、中国文化を尊重して孔子の崇拝など認めつつキリスト教を説いていましたが、他のキリスト教宗派の宣教師たちがイエズス会の方法は神の冒涜とローマ教皇に訴えました。これを典礼問題といいます。
最終的にローマ教皇がイエズス会の布教スタイルを否定したため、逆に雍正帝はキリスト教の布教を禁止しました。
<1742年、当時のフランス画家ブーシェの描いた、想像上の中国のお庭の様子>
雍正帝の時代にキリスト教の布教は禁止されたものの、宣教師たちが持ち込んだ中国文化がヨーロッパでは流行り、シノワズリ(中国趣味)が18世紀ヨーロッパで流行しました。
清王朝の各種制度
清朝の軍事制度
清王朝は、女真族(満州族)による征服王朝です。辮髪など、異民族の文化を漢民族に強要しましたが、明朝からの漢民族の制度は引き継ぎました。例えば科挙や一条鞭法、儒学の振興などです。
一方で、清から始まった制度もあります。緑営という軍事組織です。満州人で構成された八旗という軍事組織に対して、漢民族を主体で作った軍事組織が緑営です。
他にも軍事組織として、雍正帝の時代に軍機処を設置します。軍機処とは最初は軍事に関わる事項を、迅速に決定するための機関だったのですが、次第に軍事に関わる最高機関となり清末まで続きます。
言論統制 -文字の獄-
中国の歴史を振り返ると、秦王朝で焚書坑儒が行われたりと、言論統制はたびたび行われてきました。
清朝の言論統制は特に厳しく、清朝・満州人に反発的な内容の文章を書いた人間を次々に処刑していきました。これを文字の獄と呼びます。
税制 -地丁銀制-
明時代の一条鞭法がしばらく続いたものの、康煕帝の時代には人頭税を無くして、土地税に一本化する地丁銀制が定められます。税金の支払い方法がシンプルになったのと、人に対する税金が無くなったので人口が爆発的に増えます。
地丁銀制がはじまった康煕帝の時代には1億人だった人口が、18世紀末には3億人にまで爆像したのです。もちろん人口増加の理由はそれだけではなく、新大陸からトウモロコシ・さつまいもなど育てるにあたり、水が豊富でない山地でも栽培可能な作物が輸入されるようになったことも挙げられます。(土地開拓が進み、農民が増えたのです)
清 前半時代の文化史
「康煕字典」の編纂
康煕字典とは、康煕帝が6年かけて編纂させた漢字辞典で、4万9000もの漢字を手書きで収録させている。
「古今図書集成」の編纂
古今図書集成とは、康煕帝が命じて編纂させた百科事典です。
「四庫全書」の編纂
四庫全書とは、乾隆帝が編纂させた、中国の過去の書物を4つに分類して、まとめあげた書物です。
当然、言論統制を行っていたので、反清的な内容を含んでいると収録されませんでした。
顧炎武 “考証学”
明の時代に儒学の一派として、陽明学が流行しましたが明の衰退とともに落ち着きました。
変わって清の時代の儒学は、顧炎武などの考証学が一般化します。古典を徹底的に研究して、一語一句の解釈を細かく行う学問でした。
小説 「紅楼夢」
明の時代から、小説は相変わらず人気で出版され続けました。特に有名なのは、「紅楼夢」という恋愛小説です。