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中国の歴史は周辺異民族との戦いの歴史
中国の歴史は、大陸の国家であるがゆえに周辺民族に脅かされ続けた歴史があります。
例えば、遼/金/元/清の4国が、異民族が中国本土を支配した征服王朝と呼ばれています。(かつて鮮卑族の北魏も華北地域を支配していましたが、孝文帝によって漢化したので征服王朝とは呼びません)
唐、五代十国時代の後には宋の時代が来るのですが、宋は異民族にしばしば侵攻され悩み続けた時代です。
なのでいきなり宋の時代に入るのではなく、宋までの中国の周辺異民族たちの歴史についてまとめていきたいと思います。
中国周辺地域の歴史(騎馬民族)
中国の西域から北方にかけては、長らく騎馬民族たちの土地でした。たくさんの騎馬民族たちが興亡する中で、彼らが栄えた場所は草原の道とよばれました。(上記、南ロシア〜カザフスタン〜モンゴル高原)
紀元前6c〜 スキタイ
文献上の最初の騎馬民族は、紀元前6世紀に南ロシアの草原地帯を支配したスキタイ人だと言われています。
時代的には、古代ギリシャや春秋戦国時代ですね。
紀元前3c〜紀元前1c 匈奴
中国では秦の始皇帝が中国の統一をなしとげた時代の紀元前3世紀頃には、モンゴル高原の匈奴が強大な帝国を築き上げていました。
特に匈奴を強くしたのが、冒頓単于という統率者。彼が活躍した紀元前3世紀末は、ちょうど漢王朝が建国したばかりの頃です。漢の創始者、高租(劉邦)は匈奴と戦って敗北し、彼らと屈辱的な講和を結ばされます。
それに対抗して、漢の武帝の時代には匈奴討伐作戦にうって出て、霍去病、張騫などを送りました。このため匈奴は次第に力を失っていき、紀元前1世紀には東西に分裂してしまいました。
分裂したものの匈奴人たちはそれぞれ存在しており、3世紀には三国時代を勝ち抜いた晋王国を滅ぼしています。
4世紀〜 鮮卑
晋が滅びた後の中国は、南北朝時代に入りました。北朝は異民族たちが入り乱れる、五胡十六国時代に入ります。
五胡とは、匈奴・鮮卑・羌・氐・羯のことです。5つの異民族たちが華北地域を巡って争い、見事勝ち抜いたのが、鮮卑族の拓跋氏が建国した北魏です。華北統一したのは、439年のことです。
この時も匈奴たちはいましたが、次第に鮮卑族に同化していきます。また鮮卑族たちも、孝文帝の時代に自ら漢化政策を進めて次第に漢民族へと同化していったため、異民族ではなくなっていきます。
6世紀〜 突厥
6世紀に建国されたトルコ系の突厥は、モンゴル高原にて柔然という民族を滅ぼして建国されました。
支配領域も広大で、西は現カザフスタンのあるアラル海から、東はモンゴル高原までありました。
ササン朝ペルシアと共同で、エフタルを挟撃して滅ぼしています。
ただ隋が力をつけてくる中で、東西に分裂。東突厥は、唐の李世民に服従させられます。(羈縻政策下におかれました。)
その後、744年にウイグルによって突厥は滅ぼされます。
8世紀〜 ウイグル
突厥に代わって744年に、トルコ系のウイグルは建国されました。建国後すぐに、唐の玄宗からの要請により安史の乱に介入して鎮圧しています。
唐が国際色豊かな貿易都市であることは以前説明しましたが、8〜9世紀に市舶司の置かれた広州などの海上貿易が盛んになる前の7〜8世紀では、絹の道(シルクロード)を通じての陸上貿易が貿易ルートでした。
イスラムと唐を結んだのは、イラン系商人のソグド人です。いわゆる、中継貿易ですね。西方からはガラス製品がもたらされ、東方からはその名の通り絹が運ばれました。
ソグド商人たちは、ウイグルによって保護され、ウイグルもまた東西貿易で繁栄しました。ちなみに840年にウイグルはキルギスによって滅ぼされます。
トルキスタン地域の出現
キルギスによって滅ぼされたウイグル人たちの一部は、現タジキスタン/ウズベキスタンあたり(中央アジア地域)の西方へと移住して西ウイグル王国を建国してそこに住み着きました。元々中央アジアにいたイラン人たちも次第にトルコ化(トルコ語を話します)していき、この周辺地域はトルキスタンと呼ばれるようになります。これが、中央アジア地域のトルコ化です。
上の画像の赤い部分がトルキスタン地域です。
8世紀以降〜 トルコのイスラム化
642年のニハーヴァンドの戦いで、大国ササン朝ペルシアができたばかりのイスラーム教団によって敗北しました。イスラム勢力はさらに西進し、751年にはアッバース朝がタラス河畔の戦いで唐を破りました。
タラス河畔はまさに、トルキスタン地域なわけで、これ以降、トルコ人とイスラム教徒たちが積極的に交流することになりトルコのイスラム化が進みました。
決定的なのは9世紀末にトルキスタン地域に建国されたイラン系イスラム国家のサーマン朝です。この地域に住んでいたトルコ人たちは、イスラム教への改宗を余儀なくされます。
その後、10世紀末には初のトルコ系イスラム国家のカラハン朝が、サーマン朝を滅ぼして建国されます。
10世紀〜 モンゴル系 契丹人 (国名:遼)
さてウイグル人が滅びて、トルコ系民族がモンゴル高原から中央アジア地域へと西進したことで、中国北方地域はモンゴル系の契丹人が支配しました。契丹人たちをまとめあげたのは耶律阿保機です。東は朝鮮半島の北方にあった渤海を滅ぼし、西はモンゴル高原を支配しました。(国名は遼です。以降、遼と説明します)
907年に朱全忠によって唐が滅亡したことで、契丹人は北方から中国へと圧力を強めていきます。
936年には五代十国時代の後晋という国の建国を支援した代わりに、燕雲十六州の領土をもらい華北への支配を広げていきます。
960年に趙匡胤によって宋が建国されて、中国統一がなされた後も遼は宋を圧迫し、1004年には澶淵の盟という和議を結びます。これは宋が遼に毎年銀と絹布を納めるというかなり屈辱的なものです。
華北地域に支配領域を広げた遼は、北方領域(モンゴル高原)と、南方地域(華北)とで支配体系を分けることで、それぞれの民族に合わせた統治をしようと試みました。これを二重統治体制と呼び、北方では北面官による昔からの部族制、南方では南面官による州県制を敷きました。
また遼は契丹文字という独自の言語を用いたことも頭に置いておいてください。
11世紀 チベット系 タングート族 (国名:西夏)
モンゴル高原の遼の力が強大になっていく11世紀の1038年、チベット系タングート族の李元昊が西夏という国家を建国します。(遼の位置がちょうど宋の北、西夏は北西方向です。)
西夏は、宋にとってのシルクロードの入り口を塞ぐように立ちふさがっていたため、中継地貿易でかなり繁栄しました。宋にも度々侵攻しており、1044年には遼と同様、慶暦の和約を宋と結び毎年銀と絹を納めさせました。
チベット仏教を保護しており、文字は西夏文字を使いました。
12世紀〜 ツングース系女真族(国名;金)
続く周辺民族国家は、ツングース系女真族の完顔阿骨打が建国した金です。
12世紀までは現中国の東北地方にて遼に服属していましたが、1115年に完顔阿骨打が金を建国します。そこに目をつけた宋が、1125年に金と手を結び遼を挟撃によって滅ぼします。遼の皇族であった耶律大石は中央アジアへと逃げ出し西遼を建国して契丹民族を維持します。
まさに目の上のたんこぶだった遼をなんとか追いやった宋でしたが、今度は金が華北地域へと度々侵攻してきます。
1126-27年には宋の都の開封を陥落させて、皇帝と上皇を捕らえました。靖康の変と呼ばれています。宋はここで一度滅亡します。
が、宋の皇帝の弟が江南へと逃げ出すことができたため、1127年そこで南宋を建国します。南宋の中では、ここから金と再度戦うのか、お金を払って平和を選ぶのか、官僚たちが揉めに揉めました。
和平派と主戦派に分かれて、最終的には和平派が多数となり、金に対しては臣下の礼をとり、毎年大量の銀と絹を納めました。
金の支配体制としては、女真族たちに対しては部族時代からの猛安・謀克制、華北の漢民族に対しては州県制を敷くという、遼を見習っての二重統治体制を取りました。
文字は独自の女真文字が使われました。
ちなみに西夏も金も宋も、13世紀に強大なモンゴル帝国の力によって次々と滅びていくことになります。恐ろしいぜモンゴル。