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<写真はドイツの美しい中世の町並みで有名なローテンブルグ>
血と憎しみでドロドロの中世ヨーロッパの歴史を解説
【前回までのあらすじ】(5)ローマ世界の終焉
今回は、古代ローマの分裂のきっかけの一因でもあるゲルマン人大移動の解説から始めます。
古代ローマの解説の後、キリスト教・イスラム教の成立について解説してきました。その後の解説は、中世ヨーロッパに入ります。なるべくブログは西洋中心で、西洋に東洋・イスラムが絡んでくる都度、場所を移していきたいと思います!
ゲルマン人大移動はアジア民族の西進から始まる
中世ヨーロッパは375年のゲルマン人大移動から始まります。そしてそのゲルマン人大移動は、なんとゲルマン人が起こしたのではありません
375年 フン人の西進&東ゴート族の征服
ゲルマン大移動を引き起こしたのは、4〜5cにヨーロッパに侵入したアジア系騎馬民族のフン人でした。なんと当時のヨーロッパに混沌をもたらしたゲルマン人大移動は、アジアの民族が起こしていたのです。
そんなフン人は、375年に黒海北岸に居住していた東ゴート族を征服します。
375年 西ゴート族がドナウ川を越える
フン人の西進を恐れた西ゴート族は、375年にドナウ川を越えて南下(イタリア半島へ)を始めました。それまでゲルマン人とローマ人はライン川・ドナウ川を隔てて住み分けていたので、これは決定的なことでした
既に衰退期に入っていたローマ帝国は、西ゴート族の侵入を止めることができず410年にローマを荒らしていきます。一通り荒らし終わった後、西ゴート族はイベリア半島へと向かい415年に西ゴート王国を建国しました
406年 ヴァンダル族が移動開始
次に移動を開始したのはヴァンダル族。彼らは現在のドイツ・ポーランドなどの北方地域に住んでいましたがフン人の西進を恐れ406年に移動を開始しました。最も移動距離が長いゲルマン人で、イベリア半島にようやくたどり着いたのに後から入ってきた西ゴート族に追われて北アフリカにようやくヴァンダル王国を429年に建国しました
443年 ブルグンド族が東ガリアへ移動
ヴァンダル人と同年移動を開始したのが、ブルグンド族。ライン川を越えて東ガリア(東フランス)にブルグンド王国を443年に建国しました。
449年 アングロサクソン人がブリタニアへ移動
次に移動をしたのは、アングロサクソン人。お分かりのように、5c頃デンマーク地域からアングロサクソン人が北海を越えてブリタニアに進出しました。そこで449年に地元のケルト人を征服してアングロサクソン七王国を建国しました。
481年 フランク人が西ガリアへ移動
同じ5c、フランク人がライン川を越えて481年に西ガリアにフランク王国を建国します。これが後に大帝国になるんで覚えておいてくださいね。
493年 東ゴート族がイタリア半島へ
次は、先ほどフン人に征服されたはずの東ゴート族。
東ゴート族の前にフン人の話をします。フン人は既にアッティラ大王を下に大帝国を建国していました。が、451年にカタラウヌムの戦いでローマ帝国とゲルマン人の連合軍に滅ぼされます。
さてフン人の支配から解放され自由になった東ゴート族ですが、476年にオドアケルが西ローマ帝国を征服したことを受けて東ゴート族のテオドリックは東ローマ帝国からの要請を受けて、その西ローマ帝国を征服しにイタリア半島へ。そこで493年に東ゴート王国を建国しました。
が、555年にその東ローマ帝国のユスティニアヌス帝によって滅ぼされました。更に北アフリカのヴァンダル族をも征服してしまいます。
568年 ランゴバルド族がイタリア半島へ
さて東ゴート族がいなくなったイタリア半島をどこが征服したかというと、ユスティニアヌス帝に協力したランゴバルド族。568年には東ローマの勢力を追い出し、イタリア半島にランゴバルド王国を建国しました。
これにてゲルマン民族大移動は終了します。これ全て、センターに出てもおかしくないので覚えるようにして下さい!
図にしてまとめると、以下のような感じですね。
ゲルマン人生き残りレースから脱した、フランク王国!
さて、ゲルマン人国家が同じ時代に7ヶ国も出揃ってしまった西ヨーロッパ
この時代、ゲルマン人国家同士は互いに小競り合いをしていました。このゲルマン人レースから大きく抜けだしたのがフランク王国です!
481年、フランク王国を建てたメロヴィング家のクローヴィス王
いかにしてフランク王国がゲルマン人レースから抜け出すことができたのか!?そのポイントは統治される側の視点に立ってみることです。
もともとフランク王国が支配する西ガリアを支配していたのはローマ帝国です。たとえローマ帝国が滅びようとも、そこに住む人は当然ローマ人のままで、フランク王国の市民の8割がローマ人でした。そして彼らは既にアタナシウス派のキリスト教徒です
しかし、ゲルマン人たちはローマ帝国時代は325年、ニケーア公会議で異端とされ追放されたアリウス派を信じていました。
ローマ人の信じるアタナシウス派と、ゲルマン人の信じるアリウス派。果たして、統治者であるゲルマン人王クローヴィスは多数派ローマ人と、少数派ゲルマン人どちらに寄り添ったのでしょうか?
みなさんが、王ならどうしますかね?
統治される側に寄り添うことが、安定した統治をする上で必要です。
ゆえに496年、クローヴィス王はアタナシウス派のキリスト教に改宗することで安定した統治を達成しました!
支配者側ではなく、多数の市民に寄り添った政治戦略を行ったことでクローヴィスはフランク王国を安定した国家にすることに成功したのです。(妻がもともと、アタナシウス派であったからという説もある)
安定した国は当然繁栄していきます。フランク王国はキリスト教への改宗によってゲルマン人レースから抜け出すことに成功したのです!
フランク王国でのクーデター、カロリング家の逆襲
宗教改革で成功を修めたメロヴィング家の治めるフランク王国は長期的に安定した国でした
ゆえに宗教改革から約200年、世界史上何か特別なことは起こりません(笑)平和って勉強にも優しいですね
安定した国家フランク王国は、外からの新興勢力によってその存在を脅かされ始めました。イスラム王国の台頭です。
630年にムハンマドがジハード(聖戦)を成功させメッカを手にして以降、イスラム教は爆発的な広がりを見せました。
661年には、スンナ派のウマイヤ朝が成立して、積極的に外の国を征服していきます。
西インドから、北アフリカ・イベリア半島までという広大な勢力を、新興国であるウマイヤ朝は征服してしまったのです。恐ろしい征服力です
そして、ウマイヤ朝の次なる標的は当時のヨーロッパ代表国、フランク王国です
732年、イベリア半島の大山脈、ピレネーを越えてガリアに侵入しフランク王国と対立しました。
これが、トゥール・ポワティエ間の戦いです。イスラムに対するは、カロリング家のカール・マルテル!
彼は見事にイスラム軍を撃退して、フランク王国を守りぬいたのです。フランク王国での名声はうなぎのぼりで、英雄とたたえられました。
カール・マルテルらカロリング家はメロヴィング家の宮宰(きゅうさい)、つまりは王の側近です
英雄カール・マルテルの息子、ピピンは名声を得たカロリング家こそが王に相応しいと思いクーデターを画策します。
当時のメロヴィング家が王位に座していたのは、彼らの先祖が神だと伝えられてきたからです。「先祖が神であるからこそ我らは王位に相応しい」というのがメロヴィング家の理屈です
ですが、ピピンは考えました。
「今フランク王国で主に崇められている神はキリスト教の神であり、決してメロヴィング家の先祖の神ではない」
そこでピピンはキリスト教の長、ローマ教皇に書簡を送り自分の王位を認めてもらうことで自身の正当性を証明しました
これによって751年、ピピンは王位をメロヴィング家から奪い、カロリング朝が始まります
が、ここでローマ教皇に大きな借りを作ってしまいましたよね・・・これが後に尾をひきます
ピピンの恩返し〜初のローマ教皇領〜
ピピンの王位の正当性を認めたきっかけとなった、ローマ教皇
そんなローマ教皇に危機が訪れていました。ゲルマン人国家、ランゴバルド王国です
ランゴバルド王国は、上記でも説明した通りイタリア半島を征服していました。
ローマ教皇にとって、すぐ側にランゴバルド王国という新興国がいるのは非常に危険です。そこでローマ教皇はフランク王国のピピンに先日の借りのぶんとしてランゴバルド王国が支配するラヴェンナ地域を征服するように要求しました
ピピンはわざわざ、ガリアからアルプス山脈を越えてランゴバルド族を蹴散らし、ラヴェンナ地域を征服。さらには、ラヴェンナ地域をローマ教皇に寄進しました。
これが756年のピピンの寄進です
このラヴェンナ地域こそ、最初のローマ教皇領となりました。それまで教皇はあくまでも宗教上の権威というだけでしたが、これによって領地の支配者の顔ももちました
カール大帝への戴冠式
ピピンの次は、カール大帝が王位に就きます
「大帝」と名がつくだけあって、彼の業績は偉大です
✔ 対外侵攻戦略
まず、先のゲルマン人国家の1つ、ランゴバルド王国を滅ぼします。
続いてザクセン人というドイツにいたゲルマン人をフランク王国に取り込みます。
そしてアヴァール人という東方から来たモンゴル系遊牧民を撃退しました。強いですカール大帝
✔ 内政戦略
カロリング・ルネサンスと呼ばれる、カール大帝主導による文化復興運動をアーヘンの宮廷で行う。アルクインという神学者が招かれ、学校を建設したのが有名
✔ カールの戴冠で皇帝に
あるクリスマス、カール大帝はレオ3世というローマ教皇にミサの参列におよばれします。カロリング朝の成立はローマ教皇あってのものですから、カール大帝は当然参列します。
そこで、レオ3世は突然カール大帝の頭に冠を授けます。そして「ここに西ローマ帝国の復活」を唱えました。これが800年のカールの戴冠です
???意味分かんないですよね(笑)フランク王国のカール大帝に既に滅んだ西ローマ帝国の復活?どういうことでしょう?
つまり、ローマ教皇は東ローマビザンツ帝国に対抗する新勢力としてフランク王国に目をつけたのです。
東西教会の分裂が起き、ローマ教皇は東ローマに嫌われていました。
そこでローマ教皇は自分を守ってくれる巨大な帝国を欲していたのです。かつての西ローマ帝国のような。白羽の矢が立ったのがフランク王国です。
そしてローマ教皇レオ3世はカール大帝に冠を授け、「神の代理人である、私、ローマ教皇が直々に君を皇帝として認めよう」と叫んだわけです
カール大帝からすると、王であろうと皇帝であろうと、どちらでもいいし、何で教皇に認められないと皇帝になれないのか?と不満しかありませんが、神の代理人の言葉にはとても逆らえません
こうしてカール大帝は、少数の民族を支配する王様から、民族に縛られない世界という広大な地域を支配する皇帝へと昇格されたのです。神の代理人であるローマ教皇の力によって。
この戴冠式は16cまで続くことになるので、非常に重要な儀式の第一回目ということになりますね
これによって後々、教皇>皇帝という構図が産まれ、問題を引き起こします・・・
フランク王国の分裂〜現ヨーロッパ国境線の成立へ〜
皇帝にまで昇格したカール大帝ですが、彼の死後、3人の息子たちによって巨大国家は3つに分裂してしまいます
843年のヴェルダン条約で、フランク王国は以下の3つの領域に分けられます
・西フランク王国:後のフランス
・中部フランク王国:後のイタリア
・東フランク王国:後のドイツ
さらに870年のメルセン条約で、兄弟げんかに負けた中部フランク王国を支配していた長男の領地が、小さくなりました
このフランク王国が分裂した3ヶ国が後の、フランス・ドイツ・イタリアの国境線と似通っていくのは偶然ではありません。
それぞれの条約後の領土を地図でも確認しておきましょう!
分裂した後のカロリング家の支配は、3ヶ国全てでうまく行きませんでした。それぞれの国のその後を見ていきましょう。
西フランク王国のその後(フランス)
西フランク王国では、10c後半にカロリング家の支配が終了。ノルマン人勢力を撃退したパリ伯ユーグ・カペーがフランス王としてカペー朝を成立させます。
が、王権は非常に弱くユーグ・カペーが実質的に支配していたのはパリ地域だけでした。他の地域は、有力諸侯が支配しています
中部フランク王国のその後(イタリア)
中部フランク王国でも、カロリング家の支配は終わり、有力諸侯や都市がそれぞれ独立して立ち並ぶ群雄割拠の状態に。イタリアという、統一国家ができる19cまでこの地域は、国という体裁は保てませんでした
東フランク王国のその後(ドイツ)
東フランク王国では、10cはじめにカロリング家の支配が終わります。ちょうど、マジャール人が東方から侵入してくる中、オットー1世がこれを撃退。ヨーロッパ世界を守った功績を讃えられ、962年にローマ教皇からの戴冠を得て神聖ローマ皇帝となります。ドイツの巨大帝国の誕生ですね