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何かとテロ事件で話題なイスラム教の歴史を解説していきます
キリスト教の成立話の次は、イスラム教の成立の過程について見ていきましょう(本当は西洋から場所を移したくなかったのですが、イスラム教徒抜きにヨーロッパは語れないのです)
さて、何かと最近話題のイスラム教徒についてです。ここ最近のニュースによって、日本、いや世界におけるイスラム教へのイメージは地に落ちてしまっているかと思います
ですが、イスラム教徒のほとんどは善良な神に祈りを捧げ、神の教えを守ろうとする普通の人々なのです。一部の、イスラム原理主義者という過激派が暴れているだけなのだということを、理解しておきましょう
さて、そんなイスラム教はどのようにして成立したのか?その歴史を見ていきましょう!
イスラム教の聖地、アラビア半島のメッカ
イスラム教徒の最大の聖地は、アラビア半島のメッカです
7c当時のアラビア半島ではアラブ人というセム系アラビア語族の民族が、ラクダや羊を飼って遊牧をしつつ交易業を行っていました
アラビア半島の砂漠地域を越えるのは大変なので、その通商の役割を果たしていたのがアラブ人ということです
が、6c後半に東西交易ルートを巡って地中海沿岸のビザンツ帝国とイランのササン朝ペルシャ間の抗争が激しくなり、大陸経由で西洋とアジアを繋ぐことが難しくなってしまいました
そこでアジアと西洋を繋ぐ新ルートとして、アラビア半島を経由する道が開拓されその道の経由地として栄えたのがメッカです。
ムハンマドとイスラム教の誕生!
そんなアラビア半島の商人の町メッカで産まれたのが、ムハンマドです
彼は610年、大天使ガブリエルからのお告げを受けます。最初は、何のことだかわからず戸惑っていたものの次第に、ムハンマドは自分が神の言葉を預かる預言者なのだと自覚します
そして預言者として唯一神アッラーの言葉を布教しなければとムハンマドは行動を起こします
しかし、いつの世も新興宗教ほど胡散臭いものはありません。当時のメッカは多神教の聖地でもあったため、商人たちからの迫害を受けました
ムハンマドはメッカでの布教の限界を感じ、622年メッカ北西部にあるメディナへ、ムスリム(イスラム教徒)たちと共に聖遷(ヒジュラ)しました。既に暗殺の刺客が迫っていたためギリギリのメッカからの脱出でした
さてメディナに遷都したムハンマドはイスラム信者を爆発的に増やしました。ここからイスラム教徒という宗教で人が繋がっている共同体のことをウンマと呼ぶようになりました
こうして、イスラム教徒は巨大化していき、次第にムハンマドは指導者として強力な力を手にしていきました
そして630年に遂に、かつて追放されたメッカに対して聖戦(ジハード)をしかけ征服します
メッカはかつて多神教の聖地で、カーバ神殿には多くの聖像が飾ってありましたが全てムハンマドの手で壊されていきました
イスラム教の特徴
ここで、受験に出ると思われるイスラム教の特徴について理解しておきましょう!
✔まず、イスラム教の神(アッラー)は唯一神であり、元はキリスト教・ユダヤ教の神ヤハウェです。何故かと言うと、ムハンマドはもともとキリスト教徒であり、彼はキリスト教を変えるためにイスラム教を布教したのです
ゆえに、元となる神は3つの宗教全て同じで神なのです。更にムハンマドはキリスト教徒、ユダヤ教徒を啓典の民として尊重しました。彼らは同じ神を信じる仲間ではあるが、神からのお告げの内容を歪曲しているので、最後の預言者であるムハンマドの教えが書かれた「コーラン」を信じるべきと主張します
✔この「コーラン」には宗教上のことだけではなく、イスラム教徒としてどのように行動すべきか、についても書いてあります。例えば断食などがよい例ですね。他にも酒や豚は食べてはいけない、など聞いたことがあると思います。
このように宗教があまりにも生活に密着しているため、コーランに基づいた法律であるイスラム法が制定されています。イスラム法に精通した知識人のことをウラマーと呼び、彼らの指導のもとイスラム教徒たちは規律を守り生活してきました
✔次にイスラム教では、偶像崇拝が厳密に禁止されています。ゆえに、神殿には一体の像も飾られていませんし、ムハンマドの絵を書くことも古来から禁止されています。
ゆえに、イスラム教の地域ではアラベスクという、具体的な絵ではなく美しい模様で芸術表現する文化が発展しました
✔イスラム教では政教一致の原則が昔から存在しました。つまりイスラム教の宗教指導者と、イスラム国家の政治指導者は同一人物でなければならないという考え方です。
これは、古代の国家には多数見られる政治形態ですが、次第に宗教と政治の間で対立が起き分離します。が、イスラム教ではこの政教一致の原則が原初からありました。
選挙でカリフを選んだ正統カリフ時代(632~661年)
さて、630年にメッカを征服したムハンマドでしたが、632年にムハンマドは亡くなります
ムハンマドには息子がおらず、仕方なく信者の中から選挙で新しい指導者を選ぶことにしました。こうして選ばれた指導者をカリフと呼びます。カリフとは預言者の代理人という意味です。このように正当な選挙でカリフが選ばれた時代を正統カリフ時代(632~661年)と呼びます
神の言葉を預かる人の代理人って、もう仲介業者を挟みすぎてよくわからない状況ですが、このカリフ選びにイスラム世界ではかなり苦労させられます。
一人目のカリフは、アブー・バクルと言います。二代目、三代目のカリフの名前は覚えなくてもいいですが、この間にニハーヴァンドの戦いが起きイラン人国家ササン朝ペルシャは滅亡しました。
あの巨大帝国が滅亡したのは、ビザンツ帝国との長年の戦いで疲弊していたからです。両帝国の戦いが産んだメッカの繁栄によるイスラム教国家に滅ぼされるとは皮肉なものですね
これによってイラン人はイスラム共同体に引きこまれ、イスラム教国家は巨大帝国へと変化していくことになります
そして正統カリフ時代の最後のカリフ、4代目アリーが就任します。彼がカリフに就任した頃、イスラム指導権を巡る争いは強まり、そのうちの一人シリア総督のムアーウィヤと争うことになります
ムアーウィヤは、メッカの大商人ウマイヤ家出身で、正統カリフ時代の3代目ウスマーンもまたウマイヤ家出身でした。しかし3代目ウスマーンは暗殺され4代目アリーがカリフに就任した。同じウマイヤ家出身のムアーウィヤからすると、アリーのカリフを認めるわけには行かないということですね
アリーとムアーウィヤとの間の戦いに決着はつきませんでしたが、アリーが暗殺されたことでムアーウィヤはウマイヤ朝というイスラム王国を建国し、カリフを自称するようになります
イスラム教の分裂〜スンナ派とシーア派〜
ムアーウィヤは選挙ではなく、力でカリフ(ムハンマドの後継者としての権利)を得たので正統カリフ時代にはなりません
この事実はイスラム教徒に衝撃を与え、イスラム教は大きく2つの宗派に分裂します
スンナ派とシーア派です。現在のイスラム世界では、スンナ派が多数派で9割、シーア派は少数派で1割とかなり少ないです。しかし、シーア派が大多数を占めるイランのような国もあります
スンナ派は、ウマイヤ家ムアーウィヤによるカリフを認めた宗派であくまでも従来のスンナ(慣行)に従うことでイスラム共同体を維持しようと言う考え方に基づかれています
一方のシーア派は、4代目カリフのアリーの子孫こそ正当な指導者であり、アリーの血を引いた子孫こそが指導者に相応しいという考え方です。というのもアリーはムハンマドの従兄弟であるためムハンマドの血に近いので、かなり神格化されているのです
このスンナ派、シーア派の争いは現代まで続く根が深い問題なのでしっかり覚えておいてください。この後のイスラム国家でもスンナ派なのかシーア派なのかは重要な問題として出てきます。