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漢王朝の通史を見ていく
【前回までのあらすじ】(1)秦王朝の中華統一への道
戦国時代を見事勝ち抜き、天下統一を果たした秦王国でしたが、急激に法治国家による統一を進めたためわずか16年で王朝は滅んでしまいました。
その後、陳勝・呉広の乱など農民反乱が発生し、秦の各地で乱そうが起きます。そんな中、頭角を現したのが劉邦でした。劉邦は、中国を見事統一し漢王朝を建国しました。
前漢(紀元前202年〜8年) 首都:長安
秦王朝が16年しかもたなかったのに対して、次の漢王朝は200年以上も続きました。(ややこしいことに前漢があれば、後漢もあります。理由は後ほど)
秦王朝での反省を踏まえて、劉邦(高祖とも呼ばれる)は統治政策を行いました。
郡国制の実施
秦王朝で行われたのは郡県制でしたが、劉邦が行ったのは郡国制です。
郡国制とは、周王朝の封建制度と、秦王朝の郡県制をMixしたものと思ってください。地方の権力者たちである諸侯たちには周王朝のように一定の権力を与えて統治させる一方で、長安の都周辺の都市は郡県制のように直轄領として支配したのです。
そして劉邦が頭が良かったのは、徐々に統治体制を郡県制に近づけていったことです。地方の諸侯の土地を徐々に奪い、最終的に中央政府が全土を支配する郡県制を完成させました。
紀元前154年には、呉楚七国の乱という地方諸侯たちが反旗を翻した事件がありましたが、これを前漢は鎮圧して、どんどん地方諸侯の力を削いでいきました。
法律をシンプルに簡素化
法治国家であった秦王朝とはうってかわり、劉邦は法三章というたった3行の短い文で法律を規定しました。
「盗まない、傷つけない、殺さない」 以上です。笑
それまでガチガチに文書で規定されていた法律を撤廃して、みんなにわかりやすいシンプルなメッセージ。民衆からしたら、今度の王様は話がわかる相手じゃないかとなったことでしょう。
前漢王朝 最盛期 七代目 武帝
劉邦の時代から60年以上経ち、中央集権制として郡県制も確立してきた頃、七代目の王である武帝の時代に前漢は最盛期を迎えます。武帝という名の通り、積極的に対外政策を行い支配地域を外へと広げて行きました。
武帝の政策1. 東西南への対外政策
まずは対 匈奴です。かつて始皇帝が万里の長城を築いて抵抗していた北方遊牧民族ですね。
彼らは北方でさらに力をつけてきており、前漢王朝にとって脅威となりつつありました。劉邦(高祖)の時代には、冒頓単于という匈奴の長が勢いをつけて前漢には屈辱的な公約を交わさせました。
武帝は匈奴討伐のために何度も軍を派遣しました。衛青、霍去病など活躍した武人はいたものの、覚えるべき人物は張騫です。
匈奴よりも更に西(現在の中東地域)に大月氏という国があり、そこに張騫を派遣して軍を起こし、匈奴を挟み撃ちにしようという作戦でした。
が、張騫が途中で匈奴に捕まってしまい彼は10年もの間、匈奴で捕虜として過ごします。10年たってすっかり匈奴での生活も慣れてきた中、張騫は監視の目をかいくぐり匈奴脱出に成功します。
そしてその足で前漢へ戻るのではなく、なんとさらに西の大月氏へと本来の目的を果たそうと向かったのです。結果として大月氏との交渉はうまく行かず、挟撃作戦は失敗に終わるのですが、張騫の10年にも渡る大冒険は、前漢に多くの西域情報をもたらしました。
それまで謎に包まれていた国々の事情が明らかになることで、武帝は西方へと領域拡大をスムーズに進めることができました。大月氏とは同盟を結び、西方には河西四郡を設置していくことで、中国と中央アジア間での東西交易の地盤が出来上がっていくのです。
また武帝は西方だけでなく、南方のベトナム・東方の朝鮮半島へも出兵。それぞれベトナム地域の南越を滅ぼして南海郡を、朝鮮地域の衛氏朝鮮を滅ぼして朝鮮4郡を設置しました。
このように武帝時代に一気に東西南へと領域を広げることに成功しました。
武帝の政策2. 経済政策
さて東西南へと軍勢を派遣するには金がかかります。戦争と金は、世界史ではセットなのです。政府は、商人の世界に介入することで、財源を増やそうと考えたわけです。
まずは物価安定のために均輸法・平準法の2法律を制定します。
均輸法は、ある地方で特産物が豊作で、ある都市部で特産物が不足している場合に、モノ不足で物価が高騰しそうな都市部に、政府がモノ余り状態の地方から転売する制度のことです。
平準法は、物価が低いときに穀物などを買い占め、物価が高いときに政府が販売する制度のことです。
均輸法は場所to場所でモノを移動させるのに対して、平準法は時to時でモノを移動させているということです。そしてどちらも政府が商売に介入しているのがポイントです。この法律は中央政府が物価をコントロールしようとしているという、郡県制が普及した漢王朝らしい経済政策なのです。
漢王朝 政府は、物価をコントロールするだけでなく、酒・塩・鉄の専売も行いました。当時の人々に必要とされていた酒・塩・鉄を政府だけが販売することを許されたわけです。これも漢王朝の貴重な財源となりました。
また経済を安定させるためにも、漢王朝の統一通貨を五珠銭に統一しました。秦王朝が作った半両銭は、不安定な通貨であったため武帝は新しい通貨を普及させることにしました。
ポイントは、漢王朝 政府のみが通貨を発行する権限を持ったことです。今の日本銀行のように、中央政府から発行された通貨のみを正式とすることで、偽物通貨の流通を防ぐことができるようになり通貨への信頼度は上がり、貨幣価値も安定しました。
この通貨に関してのみ言えば、政府が介入することが貨幣の安定流通に貢献している面があります。おかげでこの五珠銭は唐の開元通宝まで700年以上も流通することになります。
武帝の政策3. 官吏登用制度
戦争、金に続く武帝の次なる政策は、人材でした。官吏登用制度とは簡単に言えば中央政府の役人をどう選ぶかということです。現代の日本では国家試験が行われて、役人・官僚になるのが一般ルートですが、武帝以前の時代は、役人の子供、お金持ちの子供が登用されるのが一般的でした。
しかし漢王朝が大きくなるにつれて、役人の子どもだけでは人が足りなくなったため、武帝は地方の優秀な人材が中央の役人になる制度を望みました。それが郷挙里選でした。
この郷挙里選で推薦されたのは、地方の豪族たちです。豪族とは、地方の農村地域一帯を仕切る富裕農民のことです。漢王朝以降、中国では豪族が徐々に力をつけていきます。
例えば先に出た楽浪郡が土地の大きなくくりであれば、その下には多数の県があり、無数の郷があり、幾重もの里があります。お気づきの方はその通り。郷挙里選とは、細かく土地を区分する各”里”から人材を選び抜いて、”郷”の役人がその中の何人かを厳選して中央政府に推薦する制度なのです。
武帝の政策4. 儒学の官学化
儒学を前漢の官学として採用したことは、武帝が現代のアジア地域に最も強烈に影響を与えたことの1つです。
秦王朝では法家の教えを良しとしましたが、武帝以降では孔子を祖とする儒家の教えを良しとしました。人を思いやる、目上の人を敬う、親には考を尽くすなどといった我々にも馴染み深い考え方は、すべて儒教の教えです。この儒教思想は前漢以降に中国の基本思想として深く根付き、日本・韓国を始めとする東南アジア地域に広く普及しました。
もし儒教がここで官学化されなければ、日本はまた変わった文化を育んでいたかもしれないほどの大きな分かれ道でした。
儒学の官学化を武帝に進言したのは、董仲舒という儒家でした。儒学の教えは、五経と呼ばれる5つの経典を基礎に型作られていきました。
8年 前漢王朝の滅亡
<アニメ、コードギアスにも宦官は腐った政治の象徴として登場します>
西でキリストが生まれた頃、東の中国では前漢王朝が滅びます。武帝の時代に皇帝の権力は最高潮になりましたが、以降は皇帝の力は弱まり宮廷内でのドロドロの権力争いが起きます。
男性器を去勢された後宮の世話係から力をつけていった宦官と、皇后(皇帝の妻)の親類である外戚との権力争いです。結果として外戚である王莽が、権力を勝ち取り新王朝を建国します。
8-23年 新王朝の滅亡
王莽が苦労して手に入れた権力は、すぐに彼の手を離れます。王莽は周王朝の時代をよきものとし、古い周の制度を復活させようと急激に改革を行いました。
しかし案の定急な改革はうまく行かず、農民たちの反乱を引き起こします。大きな農民反乱である赤眉の乱で新王朝は滅びます。
25-220年 後漢王朝 首都: 洛陽
一度漢王朝は滅びたにも関わらず、後漢王朝と”漢”が冠する理由は簡単で、初代王である劉秀(光武帝)が前漢皇帝の親類だからです。
91年~ 班超による西域経営
前漢の武帝の時代に西域の事情が深く知られ、後漢の班超が武力にて50もの国を服属させます。
また中央アジアよりも西に使者を送り交流も行いました。班超の部下である、甘英は大秦国(ローマ帝国)に向けて出発しましたが、途中の航路上たどり着けず、安息国(パルティア)やシリア地域で引返しています。
同時代の西の大帝国ローマにも、東の後漢王朝のことは知られており166年にはマルクス=アウレリウス=アントニヌス(大秦国安敦)の使者が日南郡(現ベトナム中部)に派遣されました。
184年 黄巾の乱→220年 後漢王朝 滅亡
前漢と同様、再び宦官と外戚の争いが始まり、国家経営が不安定となり農民の不満が高まります。宗教結社であった太平道の指導者、張角が黄巾の乱を起こします。後漢王朝の中央政府はこの反乱を鎮圧できるほどの力はなく、各地の豪族たちも反乱を起こして群雄割拠の状態となります。
こうなったらもう誰にも止められません。ここから三国志の戦国時代に入っていきます。
漢王朝の文化
最後に途中の新王朝を除けば400年も続いた、漢王朝の文化について解説していきます。
司馬遷 「史記」
中国史を語る上で最も有名な歴史家であるのが、司馬遷です。前漢の武帝の時代に宮廷の史官と呼ばれる、歴史を記録していく仕事の家系に生まれました。
彼が綴った「史記」は、古くは伝説上の王朝である夏から、殷、周、秦といった紀元前の王朝時代の歴史上の出来事を紀伝体という書き方で全130巻でまとめたものです。
紀伝体とは、司馬遷が発明した歴史書の書き方で、皇帝の業績や、歴史の中心人物に焦点を当てて当時の出来事/文化/制度などを記していく方法のことです。簡単に言うと、人物を中心に描いた伝記のような書き方のことですね。春秋戦国時代の、武士たちも司馬遷によって表情豊かに描かれています。
班固 「漢書」
後漢の時代の有名な歴史家は、班固です。(なんと西域経営を行った班超の兄です。)
前漢の祖である劉邦(高祖)から、王莽の新王朝の滅亡までの歴史を綴った書です。こちらも紀伝体で描かれています。前の中国王朝のことについて、次の王朝が歴史を記すということがこの「漢書」から当たり前になっていきます。
鄭玄 訓詁学の発展
後漢の鄭玄は、儒教の基本経典である五経を正しく理解するために、経典の解釈を重んじる訓詁学を大成しました。訓詁学は、のちの唐の時代に科挙の科目の整備の際に最重要視されます。
蔡倫 製紙法の改良
世界史としてもかなり重要な出来事である、紙は、後漢の時代の蔡倫によって大改良されて普及していきました。
紙は前漢の時代から存在していましたが、絹で作られていました。ただし絹は高価なので文字を書くのにはあまり一般化しておらず、竹簡と呼ばれる竹に文字を書くのが一般的でした。
しかし蔡倫が紙の作り方を改良して安価に製造できるようになったことで、紙は広く一般に普及していきました。紙を安く作れるようになることで、文字や本を書くことがより簡単にできるようになり、結果として自身の考えを広く世界に伝えることができるようになったのです。
この製糸法の技術は、後の唐の時代にイスラム王朝と戦った751年のタラス河畔の戦いによって西方へと伝わっていきました。イスラーム世界で紙が作られるようになるのが8世紀、ヨーロッパ世界では12〜13世紀からと、中国に比べると非常に遅れた形で紙は普及していったのです。