ルイ14世の栄枯盛衰の時代
【前回までのあらすじ】(8)イギリス・フランスの絶対王政
そしてフランスの絶対王政の象徴とも言える、ルイ14世が登場するのです。わずか5歳で即位したルイ14世は、1661年に宰相のマザランが亡くなって以降、初めて自ら政治を動かし始めることを宣言します。
1661年から自ら政治を始めたルイ14世。彼は「朕は国家なり」という言葉を残したとされるほど、強大な権力を振るいました。
財務長官コルベールの重商主義
彼の政治を支えたのが財務長官のコルベールです。コルベールは、重商主義政策を展開します。
その方針は、貿易重視です。フランス産の絹織物や毛織物を海外貿易で売ったり、アメリカのミシシッピ川流域を植民地ルイジアナとして開発しました。
フランス文化の奨励
一方で、ルイ14世はフランス文化の発展を大きく奨励しました。
宮廷には貴族・芸術家・音楽家が集められてパーティが行われ、宮廷生活は儀式のように様々な決め事が行われました。全ては、国王の権威を高めるためのものです。
フランスを代表する絢爛豪華な宮殿、ヴェルサイユ宮殿も建造されました。
ルイ14世の戦争と内政の失敗
さらにルイ14世は熱心に海外領土の獲得につとめましたが、そのほとんどが失敗に終わっています。
南ネーデルラント継承戦争(1667〜68年)、オランダ戦争(1672〜78年)、ファルツ戦争(1689〜97年)などを行いますが、ほとんど領土を獲得することができずに終わってしまします。
ナントの勅令を廃止して、新教信仰を禁止
さらにルイ14世は、1685年に絶対王政を強化するためにと、ナントの勅令を廃止してフランスでの新教(ユグノー)の信仰を禁止してしまいます。
(前々回の記事で、ブルボン朝の初代王であるアンリ4世がかつてユグノー戦争後の混乱を鎮めるために出したのがナントの勅令でした。)
これに対して20万人以上のユグノーたちがイギリスやオランダに亡命しました。ユグノーの大部分がお金持ちの商工業者であったため、ナントの勅令廃止によってフランスの経済は停滞することになってしまいました。
1701〜14年 スペイン継承戦争
そしてルイ14世の最後の戦争が、スペイン継承戦争(1701〜14年)でした。
1700年にスペイン=ハプスブルク家が断絶したことを受けてルイ14世の妃(妻)がスペイン王家の出身であったことを理由に、スペイン王位を自分の孫フェリペ5世が引き継ぐと主張したのです。
これに反対したのがイギリス・オランダ・オーストリアです。
スペイン&フランス VS イギリス・オランダ・オーストリアですね。
このスペイン継承戦争は、1713年のユトレヒト条約にてイギリス優位で終結します。以下、内容です。
1.フェリペ5世のスペイン王位は認められたため、以降スペインはフランスのブルボン朝の支配下に置かれます。スペイン=ブルボン朝の成立です。ただし将来のスペイン・フランス合併は阻止されました。
2. イギリスは、スペインからジブラルタル・ミノルカ島を獲得。フランスから北アメリカのニューファンドランド島・アカディア・ハドソン湾地方を獲得。
またフランスはオーストリア(ハプスブルク家)と個別にラシュタット条約も締結しました。以下、内容です。
1. かつてのスペイン=ハプスブルク家の領土である、南ネーデルラント(ベルギー)・ミラノ・ナポリ王国・サルデーニャをオーストリア=ハプスブルク家に譲渡
ルイ14世の死後、ルイ15世が王位(1715~74年)につきますが、これまた戦争の連続&失敗で多くの植民地を失うことになります。
こうしてフランス政治は混乱して、フランス革命へと向かうことになります。