10分でわかる世界史Bの流れ!古代中国史(1)〜秦王朝の中華統一への道〜

中国4000年の歴史を古代史から紐解いていく

これまでのHistraceはヨーロッパの歴史を中心的に見ていきましたが、ここからは中国史に入っていきます!古代殷王朝から、近代の清王朝まで一気に駆け上がりたいと思います。

さていきなり古代中国史に入る前に、現代の中国の基礎知識について簡単に触れておきましょう。

現在の中国の人口は2017年1月時点で約13億8000万人。日本の人口の10倍以上です!もちろん国家面積も広く、日本の25倍あるので密集率は日本ほどではありませんが、それでも中国東岸の経済発展地域は人口密集度が恐ろしいことになっています。

北方エリアに位置する首都北京は-2℃が平均気温と極寒、かと思えば夏は30℃を当たり前のように超えるため寒暖の差が日本よりも激しいです。

GDP(国家が産み出すお金の総量)は世界第2位の11兆ドル(2016年)!(日本も5兆ドルで第3位ですが、2倍以上開きがあります。ちなみに日本は長年GDP第2位でしたが、2010年に中国に抜かれています。結構最近の話なんです)

また中国は多民族国家です。日本は日本人、日本民族だという意識を持っていますが、中国には色んな民族が合わさって1国家を形成しています。ほとんどは漢民族が91%ですが、他55の少民族が9%います。

例えば西方にはウイグル族、チベット族、モンゴル族などが広大な領土に広がって居住しています。よく中国政府へのデモが行われる地域は西方ですね。また中国は西側と東側での経済格差が激しいです。東海岸沿岸の上海や香港などは高層ビルが並び立つ都市ですが、西方はいまだに民族的な暮らしをしている人もいます。

それと皆さんあまり知らないですが、中国は北と南で言語が全く違います。方言・・・というレベルではないです。北京で話される言葉が中国の標準語ですが、南の広東地方で話される言葉は広東語です。特に香港では、ほとんどの人が広東語を話します。理由は簡単で1841-1997年まで香港はイギリス支配の地域でした。なので文化も言語も大陸中国とは大きく異なるのです。(上の動画がわかりやすいです)

それと中国と台湾も、色々と複雑です。中国と香港は、文化は違えど同じ中国です。しかし、台湾は現在の中国の中には含まれません。完全に台湾(中華民国)という独立国です。

まず台湾は1895-1945年まで日本の領土でした。日清戦争によって、その支配権を手に入れたのです。しかし第二次世界大戦に敗れた日本は台湾を手放させられます。

WW2直後の中華民国では、国民党と共産党という2つの政党間での争いで内部分裂していました。この争いに勝ったのがご存知共産党で、中華人民共和国を新たに立ち上げ、今でも一党独裁を敷いています。

一方争いに敗れた国民党は、台湾へと逃げてそこを中華民国としました。それが現在まで続いています。なので中国と台湾はそれぞれ別の国で、お互いがお互いのことを認めてきませんでした。(2015年に初めて両国のトップが会談をしました。それぐらい長い間お互いを牽制し続けてきたのです。)

ただし!国際的には、中国本土(中華人民共和国)の方が認められており、台湾の中華民国は国として認められていません。あくまでも国際的には、台湾は中国の一部で、日本もそのスタンスを貫いています。

それでも台湾の人々の意識としては、我々は台湾人であり、中国本土の人たちとは異なるのだという考えを強く持っています。

さて、中国の基礎知識はこれくらいにして、古代中国の歴史から遡っていきましょう。

黄河と長江という2つの大河川から始まる文明

基本的に、大きな古代文明とは大きな河川の近くから始まります。インダス文明のインダス川、メソポタミア文明のティグリス・ユーフラテス川、エジプト文明のナイル川などなど。これに加えて、中国の黄河から始まった黄河文明の4つを四大文明とまとめて呼びます。

同じく古代文明である中米のマヤ文明は非常に特殊で、付近に大河川は全くないジャングルにて栄えました。彼らは非常に高度な天文学などを扱い、正確な暦を作り上げていたことが有名ですね。生活や農業のための水は雨水をうまく貯めて使用して栄えたようです。他の文明と異なる栄え方をした点もまた、マヤ文明を謎に際立たせてくれますね。

黄河文明は紀元前5000〜4000年前から始まったと言われています。

黄河文明を大きく区分すると、前半の仰韶ぎょうしょう文化(紀元前5000〜3000年)、後半の竜山文化(紀元前3000年〜2000年)に分けられます。

2つの文明の大きな違いは土器

前半の仰韶文化では彩陶さいとう、後半の龍山文化では黒陶こくとうという土器が発掘されました。

その名の通り、彩陶では模様付けがしてあるのに対し、黒陶は真っ黒です。土器の質としては当然後者の黒陶の方が良く、高温で焼き上げているので薄くて割れにくい性質です。

中国 4000年の歴史の始まり 殷王朝 首都:商

中国4000年の歴史とよく言われますが、最初の王朝は紀元前2000年のいん王朝だと言われています。(首都は

大きな宮殿遺跡である殷墟いんきょが河南省安陽市で見つかり、亀の甲羅や獣の骨に刻まれた甲骨文字が出土したことで最初の王朝として認められています。

伝説上では夏王朝が始まりだと言われていますが、歴史の物事の始まりのはっきりさせるのは難しいです。日本の初代天皇の神武天皇は本当に存在したのか?と議論されているのと一緒です。

政治形態は、文明初期によく見られる神権政治です。神権政治とは国の権力者である王が、宗教的な神の代理人としてトップ君臨して、祭り事の儀式によって国の方針を占い決めていたということです。
殷の時代から、青銅器は作られており、祭り事のための道具として使われていました。

殷王は周辺の大小さまざまな都市国家、ゆうを支配していたため、殷は大邑と呼ばれていました。殷とは、古代ギリシャがポリスの集合体であるように、邑という都市国家の集合体なのです

周王朝 首都: 鎬京こうけい (紀元前11世紀)

殷王朝に服属していた、邑の1つであったは黄河の支流である渭水いすい流域にありました。

紀元前11世紀頃に、殷王朝を滅ぼして、鎬京に都を置きました。

周王朝の各都市国家の統治形態は、封建制ほうけんせいと呼ばれています。周王は、各都市国家の長に領地(封土)を与えて諸侯しょこうとしました。

「諸侯」とは簡単に言うと、周王様から土地を貰い、その土地の範囲内で君主として偉そうに振る舞うことを許された存在のことです。あくまでも国家で最も偉いのは、天子である周王です。その周王はなぜ偉いのか?なぜ諸侯に土地・権限をあげられるのか?
それは、東洋思想の中で天子とは「天」という人を越えた存在、神のような存在から使命を受けられる唯一の存在として認められているからです。これを天命思想と呼びます。天からの使命を天子が受け、その天子が各諸侯に権限委譲している構造なのです。

その諸侯の下の家臣たちにも、諸侯から封土され、権限も与えられました。諸侯の家臣は、けい大夫たいふなどとランク分けされます。

このように土地と権限を与えられて地方各地を支配していた周王朝の封建制度ですが、重要視されたのは血縁関係を元にした主従関係です。本当に血が繋がっていない関係もありましたが、概念として家族・氏族のつながりを元に主従の信頼関係を担保していたということです。

ここが中世ヨーロッパの封建制度と大きく異る点で、ヨーロッパでは双務的な契約関係によって主従関係が成り立っていました。周王朝の血縁のつながりによる信頼ではなく、明確な契約なのです。ここがポイントです。

春秋・戦国時代 (紀元前770〜紀元前221年)

春秋時代(紀元前8世紀〜紀元前5世紀)

紀元前8世紀、周王朝は北西からの異民族の侵攻に脅かされており、紀元前770年に都を鎬京から洛邑らくゆうへと移します。西から東へと移動したので、これ以降の周を東周と呼びます。もうこの時点で、周の権力は衰え、各諸侯が分立して互いに争っている状態です。

紀元前8世紀から紀元前5世紀までは、春秋時代と呼ばれております。この時代は、あくまでもトップは周王です。「尊皇攘夷」とは、あくまでも周王を尊びながらも周辺諸国の力によって異民族を排斥しようというスローガンです。

この時代、尊皇攘夷を成し遂げた覇者たちは春秋の五覇と呼ばれました。しかし段々と周王を立てることなく力を持とうとする国が増え始めて、乱世である戦国時代に突入します。

戦国時代(紀元前5世紀〜紀元前221年)

戦国時代の代表的な諸国を、戦国の七雄と呼びます。それぞれ、えんちょうしんせいかんの7国です。

それぞれの諸侯が、周王を無視して自らを王と称したことで、互いに天下を目指して富国強兵策をすすめて争い合いました。

春秋戦国時代こそ、漫画キングダムの世界ですね。主人公の信と後の始皇帝である政がしんという国家を天下へとのし上げる熱いストーリーです。

春秋戦国時代の社会変革

農業システムの効率化

春秋戦国時代は戦争が各地でおきる荒れた時代ですが、戦争は必ず社会システムを大きく向上させます。

まず春秋時代についに中国でも鉄が作られるようになります。鉄は主に農具に使われ、鉄製農具が普及しました。それまでは木製の農具を使用していたため、耐久力が増え作業効率が上がりました。
他にも牛に犂を引かせて畑を耕す牛耕が当たり前となり農作物の生産能力は大幅に向上しました。

鉄を人類史上初めて使用したのは、メソポタミア文明のヒッタイトでしたが彼らは紀元前17世紀頃の人々です。

商工業の発達と貨幣システムの流通

国家の基盤である農業が発達したことで、商工業も発達していきます。鉄を作る製造業者などが財力を蓄え始めたのです。

商工業が発達したことで、各諸侯はそれぞれの国家で流通する貨幣を作り流通させます。より簡単な決済手段は、自国の経済力をさらに発展させますからね。

北方の燕・斉で使用されたのが、刀銭。(刀のカタチをしています。)
中央地帯の、趙・魏・韓では布銭
南方の楚では、蟻鼻銭
西方の秦では、円銭が使われました。後に天下統一を成す秦の円銭は、始皇帝が始める半両銭へと形が継承されていきます。

こうして、経済が発展するにつれて周の時代の特定の諸侯が力を持つ時代ではなくなり、有能な人が重宝される実力勝負の時代へと変化していきます。

諸子百家という思想家たちの登場

殷の時代は神権政治、神の言葉を借りて国を支配しました。
周の時代は、血縁関係に基づいた封建制。血のつながりによる信頼関係によって、諸侯たちを支配しました。

では大きく社会システムが変革した戦国時代に求められる支配体制は?

それを真剣に考えたのが、諸子百家と呼ばれる中国の思想家たちです。時代が変化するとともに、多くの人々から新しい支配体制が求められたのです。理想的な支配体制を唱えた国こそ、天下を統治できる時代でした。

秦王朝 首都:咸陽かんよう(紀元前221年〜紀元前206年)

群雄割拠の春秋戦国時代をくぐり抜け、中国を統一して天下をおさめたのが西方のでした。

秦の初代王は、自らを「皇帝」であると称し始皇帝しこうていと呼ばれました。皇帝とは王よりも上の位を意味し、以降の中国王朝では「皇帝」の称号が継承されていきます。

始皇帝は異様に死を恐れていたと言われており、不老不死を求めて当時秘薬とされていた「水銀が入った薬」を飲んで死亡しました。

始皇帝は、諸子百家のカテゴリーの1つ法家李斯りしを登用して、巨大な中国をコントロールするための政策を打ち出していきました。

法家とは、国民をコントロールするためには法と権力が必要だと考えた人々のことです。明確に文章で規定された法によって、何をしてはダメなのか厳格に定めて国家を支配しようとしました。画像はキングダム494話です♪

政策1. 地方統治制度: 郡県制

李斯の政策の目玉、郡県制です。郡県制とは、秦が治める国土全ては皇帝の直轄領であるという考え方が根底にあります。

その全ての皇帝直轄領を、36つの”群”に分けて、その群の下に”県”を置きました。そしてそれぞれの群、県に中央政府から官僚を派遣して地方を統治するのが郡県制です。

あくまでも中央政府が密接に関わっているので、中央集権体制だといえます。
周の時代の封建制は、各諸侯に皇帝の権力を委譲していましたから地方集権制です。

今の日本でいうと、各都道府県、市に中央政府から公務員を派遣して、統治させている形態のようなものです。

政策2. 思想統一制度:焚書・坑儒

始皇帝、李斯の悪政の1つだと現代で批判されているのが、焚書ふんしょ坑儒こうじゅです。

秦王朝は法家の国、法治国家です。ゆえに法家以外の思想は認めませんでした。特に同時代の巨大な思想家であった儒家たちのことを疎ましく思っていました。(秦王朝の時代、儒家たちは法家による支配を批判していました。)

それに対して李斯は、儒家弾圧を始めました。儒家たちの書物に火を灯し(焚書)、反発する儒家たち数百人は穴埋めにして殺しました(坑儒)。

政策3. 経済制度:通貨、度量衡の統一

経済制度としては、まず通貨を統一しました。戦国の七雄の時代は、刀銭や布銭など各諸国が独自通貨を扱っていました。

しかし中国統一され秦王朝となったら、経済を素早く回すためにも通貨を統一しました。秦王国がそれまで使用していた円銭のカタチを踏襲して、半両銭を鋳造しました。

他にも度量衡どりょうこうを統一しました。度量衡とは、長さ/重さ/体積などの単位のことです。こういったモノを測る単位が土地柄によって異なると、何かと困るわけです。土地の大きさを測ったり、食糧の重さを測ったりする際の大きな障害になってしまいますからね。

今でもアメリカは長さをメートル法ではなくマイルで表現しますが、それがGlobalな時代に非常に煩わしいのと同じです。

政策4. 対外政策

かつて主要7つの国だったのを1つにした秦王朝は、上記3つのような内部統一政策を行いました。それと並行して、対外政策も行っていました。中国大陸は、我々島国日本と違って周辺の異民族からの侵略が繰り返される歴史ですから、周辺へとにらみをきかせないと滅んでしまいます。

一番有名なのは万里の長城の修築したことです。戦国時代より長城はありましたが、始皇帝は北方異民族である匈奴きょうどが侵入してくるのを防ぐために改修/連結しました。

現在の6000kmもの長さの万里の長城は、15世紀ぐらいの明にて形作られたので、今のカタチになったのはもう少し先のお話。

他にも南方エリアにも進出/征服して、南海群など3群分の領土を広げました。

秦王朝の滅亡 紀元前206年

秦は、戦国の世を勝ち抜いたにも関わらずわずか16年で滅んでしまいます。理由は簡単で、統一したばかりの文化の異なる周辺諸国に強力な始皇帝の権力で、やれ北から南まで出兵だ!万里の長城を伸ばすぞ!俺の巨大な墓を作れ!宮殿もだ!秦は法治国家だ!などと色々押し付けすぎたのです。

中央集権制を引いて、各地方に秦の考えを強要しすぎた郡県制の功罪とも言えます

民衆の反発は高まり、ただの農民であった陳勝と呉広によって大きな反乱が起きます。これが中国史初の農民反乱である陳勝ちんしょう呉広ごこうの乱です。2人とも大した身分はありませんでしたが、他の民衆も巻き込んで大きな騒乱となりました。

スローガンは、「王侯将相おうこうしょうそういずくんぞ種あらんや」 意味は、「王や諸侯など権力を持つのに家柄は全く関係ない!」という農民反乱らしいものです。

陳勝・呉広の乱は鎮圧されてしまいますが、これを機に各地で秦への反乱が勃発します。
この頃、特に力を伸ばしていたのが項羽劉邦です。

かつての南方の楚国出身の項羽は、名門将軍貴族の家柄でした。その血筋からか、戦争では本当に百戦百勝。無敗の指揮官でした。項羽は秦王朝を滅ぼし、中国統一へ一手をかけました。

そこで立ちふさがるのが、庶民出身の劉邦です。劉邦は垓下がいかの戦いで、無敗の項羽を見事破り、中国統一を成し遂げ漢王朝を立ち上げます。

10分でわかる世界史Bの流れ!古代中国史(2)〜漢王朝の歴史〜

2018.08.16