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スペイン・神聖ローマ帝国・イタリアの統治状況の各国史!
【前回までのあらすじ】(6)十字軍の歴敗 (8)イギリス・フランスでの王権の強化
前回は、「イギリス・フランス」にて王権が強化されていく様子を解説してきましたが、今回は、十字軍以降、「スペイン・神聖ローマ帝国・イタリア」の3ヶ国で、王権がどのように強化されていったかについて見ていきます。
結論から言うと、王権の強さランキングはスペイン>神聖ローマ帝国>イタリアの順です。
イスラム国家を駆逐しろ!スペイン王国によるレコンキスタ
まだ解説できてませんが、7cにムハンマドがイスラム教を開始して以来、イスラム国家がアラビア半島・北アフリカを次々と征服していき、ついにはイベリア半島(現在のポルトガル・スペインあたり)にまで征服してしまいました。
後ウマイヤ朝(756~1031年)、ムラービト朝(1056~1147年)やムワッヒド朝(1130~1269年)、ナスル朝(1232~1492年)などのイスラム国家がイベリア半島に居座っていたわけです。これがヨーロッパ人にとっては当然面白く無い。
そこで始まったのがレコンキスタです。
「国土回復運動」とも呼ばれる。要は、よーわからん異邦人であるイスラム教徒を駆逐してやる!って西洋人が1つになった運動のこと
このレコンキスタの中心が、カスティリア王国とアラゴン王国です。
両国とも11世紀に建国され、それ以来ともにイスラム教国家を攻撃し続けていきました。
そして1479年、カスティリア王国のイサベル女王とアラゴン王国のフェルナンドが結婚したことによって両国が併合され、スペイン王国が誕生するのです。
そして1492年、見事2人の愛の力で、イベリア半島最後のイスラム王朝であるナスル朝を滅ぼします笑
2人の王の力でイスラム王朝を滅ぼしたことで、レコンキスタは終了します。当然このことに国民は湧き、2人の王の支持層は厚くなり、王権が強化されていくのです。
強化された王権の矛先は、イスラム国家から大西洋へと向けられるようになり、大航海時代の幕開けへと繋がっていきます。
意外と権力が弱かった神聖ローマ皇帝
続いて中世ドイツ(神聖ローマ帝国)について見ていきます。
これまでイギリス・フランス・スペインで王権が強まってきた話をしてきましたが、神聖ローマ帝国では意外とそうでもありませんでした。
神聖ローマ帝国については、これまで「フランク王国分裂後、オット−1世がマジャール人を撃退したことでできた国」。。。程度にしか触れていなかったので詳しく解説していきます。
イタリア政策に熱心な神聖ローマ皇帝
神聖ローマ帝国とはその名の通り、「ローマ」を冠しています。
ゆえに、イタリアを自分のものにしたがります。これが神聖ローマ帝国のイタリア政策です
歴代の神聖ローマ皇帝がイタリアにちょっかいを出し続けてきましたが、特にその流れを強めたのがシュタウフェン朝です。
中でもフリードリッヒ2世は、イタリア政策に熱心でした。ドイツ王でありながらシチリア島を拠点にイタリア政策のことばかり考えていた皇帝です。
こんな感じで国のトップである皇帝が、イタリアのことばかり考えていたため、本土であるドイツでは諸侯の力が強く、小さな国家である領邦がたくさん形成されました。
1254〜73年 大空位時代
さて、フリードリッヒ2世がイタリアにかまけていたせいでドイツ内ではたくさんの領邦へと分裂が進み、ついに統一しきれずシュタウフェン朝は滅亡します。
さ〜て、次の神聖ローマ皇帝はどの家から選ぼうかな・・・と当然考えるわけですが、すでに国内には有象無象の300もの諸侯がひしめき合っているのです。そんな国で皇帝の合意形成がすぐに進むわけがなく、1254〜73年まで神聖ローマ皇帝が存在しない大空位時代となりました。
1356年 金印勅書
20年後、ハプスブルク家から神聖ローマ皇帝が選出されるようになって大空位時代は終了しますが、その後も皇帝の選び方で揉めに揉めました。何せ諸侯が多すぎますからね。
神聖ローマ皇帝の選び方を、明文化しようとしたのが1356年に発布された金印勅書です。カール4世が実行しました。
これで神聖ローマ皇帝は、7人の選帝侯の選挙で選ばれることが決定しました。
12c〜14c 東方植民
さて12〜14cのこの時代、ドイツでは東方植民が行われました。
東方植民とは、ドイツ人たちがエルベ川以東のスラブ人居住地へと侵攻し、彼らスラブ人にドイツ人のようになれ、とした運動のことです。シトー派修道院が、東方植民を手伝ったことも有名です。
この運動の中で、エルベ川以東の田舎にもブランデンブルク辺境伯のような、選帝侯に選ばれるほど強い力を持った諸侯が生まれました。
国内が分裂状態であったイタリア
神聖ローマ帝国同様、フランク王国の分裂以来、解説に登場してこなかったイタリアですが、こちらは神聖ローマ帝国以上に国家の分裂状態が続いていました。なんと、南フランク王国以来、国を束ねる王様がいなかったのです。
北部ではヴェネツィア、フィレンツェ、ジェノヴァ、ミラノなどが共和国としてそれぞれ自立していました。
北部の経済は非常に豊かで、現代にも続く様々な産業が生まれました。
中部には、ローマ教皇領。南部には、ノルマン人の国である両シチリア王国がありました。
イタリアではただでさえ国家が分裂状態であった上に、教皇派と皇帝派にも分かれていました。
教皇派のことを、教皇党(ゲルフ)。皇帝派のことを、皇帝党(ギベリン)と呼びました。
それに反抗していたのが、イタリアのローマ教皇です。
イタリア人たちも、神聖ローマ皇帝側につくべきか、ローマ教皇側につくべきかで抗争が行われていたということです。