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魏晋南北朝時代は中華分裂の時代
【前回までのあらすじ】(2)漢王朝の歴史
前回は紀元前202年〜紀元後220年までの前漢/後漢の歴史を見ていきました。
後漢末期は、再び宦官と外戚の権力争いによって正常不安定となり各地で農民反乱が勃発します。特に太平道の張角が起こした黄巾の乱によって、地方の豪族なども立ち上がり、かつての群雄割拠の戦国時代へと逆戻りします。
それがいわゆる三国志の世界である、三国時代です。三国時代が明けても、北方民族の流入などにより中華の分裂状態は続き、589年の隋まで分裂状態は続きます。
この後漢滅亡の220年から589年の隋による中華統一までの分裂期間のことを、魏晋南北朝時代と呼びます。非常にややこしくて覚えにくい時代ですが、なるべくわかりやすく解説していきます。
三国時代(魏, 蜀, 呉)の幕開け
黄巾の乱によって荒れる中国。各地で農民反乱が起きる中、地方豪族たちは黄巾の乱を鎮圧しようと動きます。反乱鎮圧によって頭角を表した3武将たちが、それぞれに建国するのが魏, 蜀, 呉です。
220〜265年 魏 都:洛陽
まずは三国時代の中でも最も力があったのが魏です。黄巾の乱の鎮圧で活躍した曹操が華北(中国の北側地域のこと)に建国しました。
三国時代の中華は後漢王朝がコントロールできないほど荒れていたため、皇帝の力は無に等しかったです。そこで、曹操は当時の後漢の皇帝に帝位を退いてもらい、自分の子どもを新しい皇帝としました。
それに伴って、後漢王朝は滅亡して、魏が建国されました。一応、前王朝から正式に帝位を譲り受けているので三国の中でも魏が正式な中華王朝となります。
魏が作られると、続く地方の有力者たちも国家を建国します。南西地域(現、四川省)に蜀を建国した劉備、南方地域に呉を建国した孫権の3国が睨み合った時代が三国時代です。
魏は263年に蜀を滅ぼします。
続いて順調に魏が呉を滅ぼすか・・・と思いきや、戦乱の世はそう簡単には行きません。
265〜316年 晋(西晋)の建国 都:洛陽
魏の1武将であった、司馬炎が内部でクーデターを起こして魏王朝を乗っ取ります。帝位を譲り受けて、魏の代わりに晋王朝を建国します。
そして晋として、280年に呉を滅ぼし、一時的にですが中華統一を成し遂げます。
さてそんな状態の晋国の政情がうまくいくわけもなく、すぐに権力を求めて内乱が起きます。八王の乱といいます。8人の王位継承者が争ったので八王の乱です。この内乱では、各王が五胡(匈奴、羯、鮮卑、氐、羌の5民族のことです)と呼ばれる周辺民族を兵力として重用しました。
変に周辺民族に力を与えたことで、五胡たちは勝手に勢力を伸ばしていきます。その中でもやはり匈奴は強く、316年には晋を滅ぼします。
しかし晋の一族の1人である、司馬睿は南へと逃げて317年に東晋を建国します。
つまりここからは晋王国から、北は異民族達による五胡十六国時代、南は漢民族による東晋の2ルートに分岐するということです!ここがややこしいポイントですね。
北朝 五胡十六国時代→北魏→西魏/東魏→北斉/北周
まずは北ルートを見ていきましょう。匈奴が晋を滅ぼしたものの、異民族による支配はなかなかうまく行きません。
304〜439年 五胡十六国時代
匈奴によって晋王朝は滅ぼされて、初めて中華に異民族による王国が建国されました。
が、匈奴以外にも4の異民族が華北地域を淡々と狙っていますから、戦乱の世となります。たくさんの王国が乱れた時代なので、五胡十六国時代と呼ばれています。
439年 北魏による華北統一
<タペストリーより抜粋。袖の感じの変化が非常にわかりやすいです>
五胡十六国時代を治めたのは、モンゴル系の鮮卑族の拓跋氏が建国した北魏でした。北魏は、439年に華北を統一します。
北魏は異民族による中華支配でありながら、積極的に漢化政策(文化を漢民族に合わせること)を行いました。これを行ったのが6代目の孝文帝です。
鮮卑風の服も、鮮卑の言葉も、すべて漢民族の文化にするように強制されました。また都もかつての晋があった洛陽に遷都します。
これに不満を持ったのが、華北統一に最も貢献した武人たちです。彼らは騎馬民族であることに誇りを持って戦ってきた人々ですから、漢民族にすり寄る孝文帝のことを理解できませんでした。
武人たちは内乱を起こして、北魏は530年代に東西に分裂します。東魏と西魏。その後、東魏は北斉に、西魏は北周に倒されます。北周は、北斉を併合して、その後、隋へと繋がります。
南朝 東晋→宋→斉→梁→陳
次に南朝ルートです。317年に司馬睿が、建康という都(現、南京)に東晋をたてたのが始まりです。こちらは北朝と異なり、漢民族たちの国です。
420年には、東晋がクーデターによって滅び、宋が建国されます。その後も短命王朝が連続します。斉、梁、陳です。宋、斉、梁、陳とすばやく覚えましょう!
かつての呉から、東晋、宋、斉、梁、陳までをまとめて六朝とも呼びます。南朝は、皇帝よりも地方の豪族のほうが力が強く、どの王朝も短命に終わっているのが特徴です。
この時代から豪族たちは、貴族として扱われるようになり、貴族文化が栄えます。
隋による南北朝の統一
北朝と南朝は100年以上もお互いの領土を争っていましたが、それを統一したのが北周出身の楊堅です。北周皇帝の外戚であった楊堅は、帝位を譲り受けて581年に隋を建国します。
589年には南朝の陳を滅ぼして、350年以上に渡る中華の分裂状態を解消して、中華統一を成し遂げます。
魏晋南北朝時代の社会制度
魏〜 官吏登用制:”九品中正”
後漢から魏に王朝が移った際、官吏登用制度が変わりました。それまでは郷挙里選と呼ばれるモノでしたが、九品中正に変わりました。
郷挙里選と九品中正の違いは、誰が推薦するのか?という点です。郷挙里選では、「地方役人が」中央に人材を推薦していました。しかし、次第に豪族に賄賂をもらって豪族の子どもを推薦するようになり、中央役人が豪族だらけになりました。
これではマズいということで魏の時代に、新たに九品中正が行われました。推薦するのは「中央から派遣された中正官という役人」です。中央から送られた人材なら不正は起きないだろうという魂胆でした。が、時がたつとともに、中正官と豪族の間に癒着が生じて、以前にも増して豪族が中央の役人に推挙されるようになります。
九品中正の、九品とは推薦する人材を9段階でランク付けして、ランクに応じた位が与えられるということです。当然、豪族は上位につけられるのが当たり前になっていたため、魏晋南北朝時代に豪族は貴族化していきます。(九品中正は魏晋南北朝時代、ずっと続いた制度です)
ここで言う”貴族”とは、世襲で社会的に高い位を維持することができる人たちのことです。この時代の貴族たちを、”門閥貴族“と呼びます。
魏 土地制度:”屯田制”
九品中正によって、貴族たちの時代がやってきた魏晋南北朝時代。貴族たちのお金の元は、広大な農地経営です。土地を奴隷に耕させて、生産物をお金に換える。貴族たちがお金を持ちすぎると、中央王朝は財源がどんどん減っていきます。
そこで、中央王朝はなんとか自分たちに税金が入ってくる土地制度を考えようとします。
まずは魏です。魏が三国時代を勝ち抜くことができたのは、経済力が他2国と比べて圧倒的に違ったことも要因の1つです。その経済力の元となったのが、屯田製です。
屯田制とは、黄巾の乱など戦乱の世で荒れた農地を農具付きで流民に与えて耕させてあげる代わりに、その収穫の5割以上を徴収しました。戦乱の世で、荒れた土地が余っていた魏の時代らしい土地制度です。
北魏 土地制度:”均田法”
華北を統一した北魏で行われた土地制度は、均田法です。均田法は、漢化政策を行った孝文帝によって実施されました。均田法は、隋に唐、果ては日本でも採用された重要な土地制度です。これも目的は貴族が大土地を所有して、財産を独り占めするのを防ぐことです。
均田法とは、その名の通り人々に等しく土地を与えて農地を耕させて、安定的な財源を得ようと目論んだものです。
北魏の時代の均田法では、農民だけでなく、女性や奴隷、耕牛所有者にまで土地が与えられました。なので結局、奴隷や牛を多く所有していた豪族に有利な仕組みになってしまいました。
魏晋南北朝時代の文化史
魏晋南北朝時代は中華は分裂した動乱の時代ではありましたが、豪族が貴族化していく中で自由な発想から文化が生まれていきました。
魏晋南北朝時代の宗教1. 仏教の普及
紀元前5世紀にインドで生まれた仏教は、大陸を渡って4世紀の後半頃に中国にて普及しました。
五胡十六国時代の荒れた華北地域にて、西域から仏教の布教にやってきたのが仏図澄と鳩摩羅什でした。特に鳩摩羅什は語学に長けていたため、多くの仏教の経典を漢語に翻訳して、布教につとめました。
また東晋の法顕は399-412年にかけて、インドのグプタ朝に渡って直接仏教を学びに行きました。その旅行記として「仏国記」を記しました。
仏教が普及するに従い、仏様を祀るお寺が必要となります。当時のお寺といえば、洞窟を彫り抜いた石窟寺院が一般的でした。
前漢の武帝の時代に設置された西域の敦煌郡では、早くから仏教が普及していたため早い時期に寺院ができました。敦煌郡は、砂漠地域でしたので石像を作れるような土質ではありませんでしたので、粘土で仏像を作りました。
続いて北魏の時代に雲崗や竜門にて石窟寺院が作られます。上の画像のように、大きな洞窟を彫り抜いて仏像を作り出しているのがわかるかと思います。
魏晋南北朝時代の宗教2. 道教の普及
仏教が中国に普及していく中、北魏の一部の時代には仏教が弾圧されました。
それに代わって、北魏で国教とされたのが道教です。日本の陰陽道の元になった宗教です。春秋戦国時代の諸子百家の中に道家という思想があり、そこから派生していったのが道教です。
北魏の太武帝の時代に、導士である寇謙之が認められたことによって国教となりました。
貴族での、世俗を離れた清談の流行
三国時代の3世紀、魏蜀呉による戦乱の世の中、一部の貴族たちは政治・世俗の世界を嫌って現実逃避の世界へと入り込む自由な趣向を好みました。
特に晋の時代には、酒を飲み、大麻を吸い、音楽を楽しみながら、哲学的な議論に花を咲かせる清談が貴族の間で流行ります。特に清談を好んだ7人の貴族は、竹林の七賢と呼ばれています。
南朝の漢民族の六朝文化
宗教・思想の次は、美術・文学などをご紹介していきます。これらの文化が花開いたのは、南朝の漢民族たちの国でした。呉から始まり、東晋、宋、斉、梁、陳という南の6王朝のことをまとめて六朝と呼びます。この六朝の文化のことを、六朝文化と呼びます。
六朝文化1. 画聖 顧愷之 「女史箴図」
中国絵画の祖、画聖とも呼ばれる顧愷之は、東晋の時代の人物です。代表作は「女史箴図」で、宮中における女官の心構えを伝えるために作られた絵巻です。
現在は大英博物館に所蔵されています。
六朝文化2. 書聖 王羲之
行書、楷書、草書という書道の基礎を確立し、書道を芸術へと昇華させたのが王羲之です。彼は書聖と呼ばれています。王羲之も東晋の人物です。
我々が現在使っている漢字のお手本を確立した人物でもあり、全ての書道家がまず彼の字を勉強して基礎にしたと言われています。
六朝文化3. 詩人 陶潜、謝霊運
六朝文化の代表的な詩人は、陶潜と謝霊運です。
陶潜は、東晋時代の人物で没落貴族でした。役人をやめてからは隠居して、田舎で詩を綴る田園詩人でした。この時代の貴族らしく、世俗から離れて趣向の世界へと入り込んでいるのが特徴です。
謝霊運は、宋時代の詩人で、彼もまた田舎の郷里にて詩を綴った貴族出身の人物です。
六朝文化4. 文学 昭明太子
昭明太子は梁の時代の王子様で、古い詩や散文をまとめて「文選」という書物にまとめました。文選は、日本にも持ち込まれて、平安時代の貴族たちに好んで読まれました。