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1368~1644年 明朝の270年の歴史
【前回までのあらすじ】(7) モンゴル帝国の興隆
13-14世紀に中国にて繁栄したモンゴル人の国、元は最後には中国史のお決まりのように財政難→民衆反乱(紅巾の乱)によって滅亡します。紅巾の乱で頭角を現したのは、貧民出身の朱元璋でした。
朱元璋(洪武帝)が建国した明は約270年も繁栄しましたが、お決まりパターンの北方民族の侵攻に加えて、南部での倭寇という海賊集団に苦しめられた時代でした。
1368〜98年 洪武帝
<朱元璋は、生まれつき顔が奇形であったようです。左側は存命中に端正に書かせたもので、右側の奇形顔の絵のほうが多く残っています>
朱元璋は、1368年に洪武帝を名乗り、南京を首都として明朝を建国しました。
洪武帝は、自分への権力を強めるために皇帝独裁体制を作り上げます。
六部を皇帝直轄に -皇帝独裁体制の強化-
かつての唐の時代には、三省が法治国家として皇帝の権力をある程度制限していましたが、宋の時代に門下省、元の時代に尚書省が廃止され、明の洪武帝の時代には中書省も廃止されて六部を皇帝直属の機関としました。こうして皇帝独裁体制は強まります。
里甲制の実施 -農村地域の復興-
元末の農民反乱によって荒れ果てた農村地域を復興させるために、洪武帝は里甲制を実施します。要は農村での組織制度です。110の戸を1里として、そのうちの裕福10戸が残りの100戸の徴税を担当します。
里甲制による徴税がうまく回るように、戸籍/租税台帳である賦役黄冊が作られます。中国農村地域で働く人々を余さず国家が把握し、確実に税金を徴収することが狙いです。
他にも、土地所有者を明らかにする土地台帳である魚鱗図冊も里甲制を助けました。狙いは、土地の大きさに対する納税額を明確にすることです。
<こちらの記事より引用>
農民たちには、里甲制に基づいた税が課せられましたが、農民たちが組織に従順な秩序だった体制を守るためにも、洪武帝は六諭を定めます。六諭とは民衆にとっての6つの教訓です。親の言うことを聞く、目上の人を敬う、郷里に親しみ従いなさいなどが、農民たちの常識として普及します。
他、諸制度の整備
・他にも唐の律令制度にならって、明律、明令を制定しました。
・軍制度は、あらたに衛所制を作りました。
・宋、元の時代には海上貿易が発展しましたが、洪武帝は沿岸都市が発達して中央に反旗するのを防ぐために、民間人による海上貿易を禁止する海禁政策を行いました。(当時、中国沿岸にたくさんいた海賊倭寇への対抗策でもありました)
・一方で、政府による貿易は認めており、朝貢貿易が行われました。
1402〜24年 永楽帝
<紫禁城の外門である、天安門。中華人民共和国の建国者、毛沢東の写真が飾られています>
洪武帝の死後、後継者争いの靖難の変がおきます。最初は建文帝が皇帝に即位したのですが、それに反対したのが北方警備をしていた叔父の燕王です。
権力争いに勝利した燕王が皇帝に即位し、永楽帝と名乗りました。(明の最盛期の皇帝です)
北方地域に愛着を持っていた永楽帝は、首都を南京から北京へと移します。北京に現在も残る紫禁城を建設し、清の最後の皇帝である宣統帝まで、代々の皇帝の住居となりました。
また永楽帝は積極的な対外政策を取り、モンゴル高原やベトナムへと出兵しました。
また、イスラム教徒の鄭和に3万人もの大艦隊を率いさせて、インド洋、アフリカ海岸まで遠征させました。目的は、朝貢貿易の拡大です。計7回も派遣され、各国に明朝への朝貢を呼びかけました。
また元の時代に一時停止されていた科挙制は、明の時代には完全復活します。
宋の時代にうまれた朱子学の知識が試験にて求められるようになり、永楽帝は四書五経の基準書として「四書大全」「五経大全」を編纂させました。
明後期の経済社会(15世紀後半〜17世紀前半)
“湖広熟すれば天下足る”
明の時代には、それまでの穀倉地帯であった長江下流域の江浙から、長江中流域の湖広へと移りました。
そこで流行った言葉が、「湖広熟すれば天下足る」*宋の時代は「江浙熟すれば天下足る」です。
商工業の発達
<塩商人が作った会館。この建物は清朝に作られたものですが、塩症にの集会所に使われました>
商工業の発達により、富を蓄えた商人たちが出てきます。特に山西、新安商人などが有名です。
お金持ちの商人たちは、さらに同業者どうしの繋がりを深めるために会館・公所という宿泊や集会に使える施設を主要都市に作りました。
15世紀後半〜17世紀前半 北虜南倭
最盛期の皇帝、永楽帝が亡くなったあとの明は、北方のモンゴル人と南方の倭寇に苦しめられます。これを北虜南倭と言います。
15世紀後半には、モンゴル高原にいたオイラト(民族名)のエセン・ハンが力を持ち、明の正統帝を捕虜として捕らえます。(土木の変)
一時は首都をモンゴル人に陥落されそうになりましたが、なんとか守りきります。ちょうどこの頃、対モンゴル人策として万里の長城の改修が100年をかけて行われ始めました。
また16世紀からは、海禁政策以降おとなしくなっていた倭寇による略奪行為が東南沿岸地域にて再び始まります。この16世紀の倭寇たちはヨーロッパ世界が東アジアまで来て貿易が活発化する中での、明の保守的な海禁政策に反抗する人々でした。
16世紀 銀貨の流通と一条鞭法
倭寇の活動に根負けした明朝は、次第に海禁政策をゆるめて民間人による交易を許可しました。
その結果、16世紀には日本の石見銀山でとれた銀や、メキシコのポトシ銀山でとれた銀が通貨として大量に流入しました。これまでの通貨といえば銅銭でしたが、16世紀以降は銀貨が通貨の主流となります。
里甲制による徴税制度が崩れてくると、16世紀には一条鞭法という土地税と人頭税(人間に対して税金をかけること)を全て銀で納めさせる制度ができます。いかに当時に銀が流通していたがよくわかります。
1644年 明王朝の滅亡
長い期間、北虜南倭に苦しめられてきた明朝は軍事費の調達に苦しめられてきました。
16世紀後半の万暦帝の時代に、張居正が財政改革を行いますが、地方官僚はこれに反発して失敗しました。
また17世紀の明王朝では、宦官たちが政権に対して強い力を持つようになってしまい政治混乱が起きます。宦官ではなく官僚による政治を望んだ勢力を、東林派といいます。
宦官と官僚の抗争で政治が揺れる中、北方には女真族の国である後金(後の清王朝)ができ、たびたび明に侵攻してきました。明はさらなる防衛費調達のために重税を行ったため、農民反乱が起きます。1644年の李自成の乱によって北京が陥落して、明朝は滅亡します。
明時代の文化史(文学)
明の四大奇書
元の時代に木版印刷が生まれて、書物の大量印刷が当たり前になった明の時代には、数多くの小説が出版されました。
三国時代の英雄たちを描いた「三国志演義」, 唐の玄奘の大唐西域記を基に描かれた冒険譚「西遊記」, 他にも「水滸伝」や「金瓶梅」などが明の代表的な小説たちです。これら4冊は、四大奇書と呼ばれています。
王陽明 ”陽明学”
宋の時代に生まれた朱子学にかつて批判したのが、陸九淵でしたが以降、科挙の試験科目に朱子学が盛り込まれるなど、朱子学を主流とする流れを止めることはできませんでした。
しかし明になると、王陽明という儒学者が朱子学を批判しました。この学問を陽明学と呼びます。
陽明学は中国では廃れていきますが、日本には大きく影響を与えます。幕末の大塩平八郎、吉田松陰、高杉晋作などは、陽明学を熱心に学びました。
陽明学の教えは、知行合一(知識と行動は一緒に伴わなければならない。行動までして、初めて意味がある)です。幕末の廃れた世を変えたいという強い意志を持った人々にとって、この行動というキーワードに突き動かされて陽明学を学んではないかと思います。
明時代の文化史(科学技術書)
明の時代には科学技術への関心も高まり、関連書物が出版されました。ここは一気にいきます。
・「本草綱目」:薬草の百科事典。著者は李時珍。
・「農政全書」:農業技術をまとめた書物。著者は徐光啓。
・「天工開物」:中国の衣類から武器、製紙まで幅広い産業の技術をまとめた書物。著者は宋応星。
明時代の文化史(宗教)
1557年にポルトガルが広州南方のマカオにて、居住が許可されて明との貿易の拠点となりました。
14世紀の元の時代にモンテ・コルヴィノが中国初のキリスト教布教者となりましたが、すぐに元が滅亡したためキリスト教布教活動は思うように進みませんでした。
16世紀の明の時代にポルトガルがヨーロッパ諸国の中で初めて中国と関係を築いて、マカオに貿易拠点を確保しました。これ以降、キリスト教宣教師たちが続々と中国に乗り込んでくることとなります。
明の代表的な宣教師は、イエズス会のマテオ・リッチです。マテオ・リッチは中国皇帝である万暦帝に謁見を果たし、キリスト教布教の許諾を得ます。
マテオ・リッチら、イエズス会は中国に西洋の科学知識を惜しみなく伝えました。特に、マテオ・リッチが作成した世界地図である坤輿万国全図は中国人に世界の広さを知らしめたことでしょう。