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清朝の衰退/滅亡の歴史
【前回までのあらすじ】(9) 清の歴史[前半]
前回の記事では、17世紀-18世紀の康煕帝-雍正帝-乾隆帝の3代で清朝が大きく繁栄した様子を解説しました。
しかし18世紀末から19世紀にかけて清朝はじわじわと衰退していきます。そのきっかけとなるのが宗教反乱と貿易摩擦でした。
1796-1804年 白蓮教徒の乱
清朝は白蓮教徒を仏教の異教と弾圧し続けてきました。
白蓮教徒は、貧困農民層が救いを求めて信じていた宗教でしたので、農民たちは清朝への不満が18世紀末に爆発します。それが白蓮教徒の乱です。
この反乱を清朝はなかなか鎮圧できずに、最終的には清の正規軍ではなく、漢民族有力者の義勇軍である郷勇の力をかりてなんとか鎮圧しました。清朝の弱体化が明らかに露呈した反乱です。これ以降、清朝の衰退がじわじわと進んでいきます。
1840-42年 アヘン戦争
<アヘンの元となる、ケシの花畑>
前回も説明しましたが、イギリスは国内の紅茶需要の急増により中国茶を大量に輸入せざるを得ませんでした。それにより大幅な貿易赤字となり銀が大量流出していたイギリスは、中国に何か売りつけて貿易収支を正常化したいと考えます。
そこで麻薬であるアヘンを中国人の間で流行らせるのです。今となってはまともな思考ではありません。アヘン中毒になった裕福な中国人たちは、次々とアヘンに金をつぎこみます。もちろん麻薬の流行なんて清朝が認めるわけないので、これは密貿易でした。
当時インド経営に力をいれていたイギリスは、インド産のアヘンを中国に大量に輸出して、貿易黒字へと無理やり転換させました。
イギリス→インドに綿製品を、インド→中国にアヘンを、中国→イギリスに茶を輸出していたため三角貿易と呼ばれます。
清朝はアヘンの流行を防ぐために、林則徐を広州に送り、アヘン取締りを強化します。イギリス商人のアヘンを取り上げ、廃棄したりしました。
これに抵抗したイギリスは、清朝へと軍隊を派遣することを決定しました。1840-42年の間で自由貿易の実現を根拠にアヘン戦争を行い、清朝にイギリス産業革命の力を見せつけて勝利します。
1842年 南京条約
<現在の香港。長い間イギリス専有下にあったため、経済発展が凄まじく、夜景が非常に有名>
アヘン戦争に破れた清朝は、イギリスと南京条約を結びます。
・まずは自由貿易の阻害をしていた、公行の廃止
・広州の近くの香港島の割譲 (以降WW2で短期間日本に占領されますが、基本1997年までイギリス領です)
・広州以外の、上海、寧波、福州、厦門+広州の5港の開港
・賠償金の支払い
などを求めました。治外法権、関税自主権の喪失、最恵国待遇が、認められた中国初の不平等条約です。
イギリスの南京条約に便乗して、アメリカは望厦条約、フランスは黄埔条約という似た内容の不平等条約をそれぞれ清朝と結びます。
1856-60年 アロー戦争
公行を廃止し、交易港を5港に拡大したにも関わらず、イギリスの綿製品はなかなか中国で売れませんでした。理由は国内の南京木綿の質が十分に良かったからです。
期待したほどの貿易効果が上がらないイギリスは、条約改訂のために1856年にアロー戦争(第二次アヘン戦争)を起こします。
この戦争もイギリス勝利に終わり、天津条約を結びます。しかし締結後、清朝が正式締結を断ろうとしたため、再度イギリス軍が出兵して清朝をねじ伏せます。
続いて締結した条約が1860年の北京条約です。これによって
・天津など11港の開港
・キリスト教布教の自由(キリスト教は1723年の雍正帝の時代に布教が禁止されていました)
・賠償金の支払い
・香港対岸の九竜半島のイギリス割譲 などが定められました。
ロシア-清朝間の条約締結
1853年にクリミア戦争にて敗北したロシアは、バルカン半島への南下政策を一時あきらめて、中央アジア・東アジアへと目を向けました。
アロー戦争以降、ロシアも中国進出をはかり、東シベリア総督としてムラヴィヨフが不平等条約を結びます。まずは天津条約と同じタイミングの1858年に、アイグン条約を結んで、黒竜江より北側を支配します。
また天津条約と同様に清朝がアイグン条約を拒否したため、1860年に再度北京条約を結んで、沿海州を獲得します。ここにウラジオストク港を開いて、日本を始めとする東アジア進出のためのロシアの足がかりとしました。
1861年 総理各国事務衙門の設置
<当時の総理各国事務衙門>
イギリスを始めとする欧米列強が進出してきたことにより、清朝はじわじわと弱体化していきました。
代々、中華帝国では朝貢体制のもとで、東アジア周辺諸国のことを、中国の延長線上の国、自分たちに付き従う国とみなしていました。そのため外国を対等の立場として扱う”外交”を行ったことがなく、現在の外務省のような組織がありませんでした。
ただ欧米列強に対しては不平等条約の関係もあり、対等の国として扱う必要があったため、1861年に総理各国事務衙門という”外務省”にあたる組織が作られます。
1851-64年 太平天国の乱
<太平天国では、洪秀全は14年間も王座に就いていました。その時の王印です>
アヘン戦争、アロー戦争と並行して、外国勢力が次々と侵攻してきている清朝の支配に不安を感じた民衆が大規模な国内反乱を起こします。
洪秀全が主導した、太平天国の乱です。洪秀全はキリスト教に改宗して、自らをキリストの弟と名乗り、拝上帝会という宗教結社を作ります。
ちょうどアヘン戦争後に清朝は賠償金でお金がなくなり、国民に重税をかけていた時代に、洪秀全はキリスト教の”神の前で皆平等”という説をといて貧困に苦しむ多くの民衆の心を掴みます。
洪秀全は周りの民衆を巻き込みながら、1853年に南京を占領します。太平天国という国を建国し、南京を”天京”と名付けて首都とします。そして”滅満興漢“をスローガンのもと、清朝打倒をめざして北上していきます。
太平天国は、天朝田畝制度(土地を均等に分けること)などの制度を打ち出して、国家運営を進めようとします。
しかし太平天国の乱は、漢人官僚が組織した義勇軍である郷勇と、清朝からできるだけ搾り取ろうとする諸外国の思惑により結成された義勇軍である常勝軍によって1864年に鎮圧されます。
(元は1農民の反乱を14年も鎮圧できなかった清朝の弱さがわかりますね)
それぞれ郷勇では、湘軍を率いた曽国藩や、淮軍を率いた李鴻章などが、常勝軍ではウォードやゴードンが活躍しました。
1860〜90年代 洋務運動
太平天国の乱を鎮圧した郷勇を組織した漢人官僚は、その活躍から政治の力を持つようになります。
曽国藩や、李鴻章たちは、清朝が西欧諸国に比べて科学力で圧倒的に劣っていることを自覚して、西洋技術・学問を学ぶようになります。これを洋務運動といいます。
武器工場や鉱山開発を西洋にならったものの、あくまでも儒教という伝統的な中華思想に基づきつつ、西洋技術を利用していたため、中途半端な改革に終わっています。(このことを”中体西用“と言います。中華思想が本体であり、西洋技術を活用するだけ、ということです。)
この洋務運動が行われた前半の1860-70年代は、特に大きな戦争や反乱もなく、平和な時代でしたので同治の中興と呼ばれています。
1894年 日清戦争
<朝鮮をめぐって、釣りをし合う日本と清。それを見つめるロシア>
日本史にも出てくる、1894年の日清戦争ですが、これは朝鮮を巡って日本vs清朝が行った戦争です。
日清戦争の本題に入る前に、ここで少し朝鮮のことに触れておきます。
朝鮮は1637年にホンタイジに征服されて以来、清の属国でした。
中国や日本同様、ヨーロッパ諸国の進出に対して鎖国/海禁政策を行っていましたが、19世紀に入ると当然ヨーロッパ諸国は市場拡大のために朝鮮にも開国を求めるようになります。
そこに反対したのが、摂政の大院君で、ヨーロッパ勢力を排除しようと攘夷活動が起こります。
日本は1875年に朝鮮沿岸で朝鮮を挑発し、両国が衝突する江華島事件が起きます。日本は鎖国を行っていた朝鮮に開国を求めていたが拒否されてきたために起きた衝突でした。
江華島事件の後、日本と朝鮮の間で1876年に日朝修好条規という日本有利な不平等条約を結びます。
当時の朝鮮では、攘夷派(排外)、改革派(日本寄り)、改革派(清朝寄り)の3派閥が対立していました。
日本寄りの改革派は、金玉均。清朝寄りの改革派は、閔氏一族です。
政治対立から、壬午軍乱、甲申事変など朝鮮では政紛が起きました。日本、清朝もこの朝鮮の内紛に何度も介入してきたため、自然と日本vs清朝の構図が出来上がっていきます。
朝鮮の政治が混乱する中、圧政に耐えかねた農民たちによる甲午農民戦争が起きます。この反乱を鎮圧するために朝鮮は清朝に出兵を要請します。日本も、この反乱の鎮圧のために出兵し、すぐにこの反乱は鎮圧されます。
しかし清と日本は当時、互いに朝鮮をめぐって対立し合っており、反乱鎮圧後も両軍ともに撤退せず駐屯し続け、そのまま1894年に日清戦争へと突入していきます。結果は、ご存知、日本側の勝利です。
<下関条約の締結会議の様子。会議は、日本初のふぐ料理店 “春帆楼”で行われました>
翌年日清戦争の講和条約として、1895年に下関条約が締結されます。
・朝鮮の独立
・清朝から日本へ、台湾、遼東半島、澎湖諸島の割譲
・賠償金の支払い
遼東半島を日本が支配して極東の平和が脅かされることを嫌がったロシアは、ドイツ・フランスと共同して、遼東半島の清への返還を日本へと求めます。(三国干渉)
国際圧力に屈した日本は、遼東半島を清朝へと返還しますが、日本国内ではロシアへの反発心が高まり、1904年の日露戦争へと繋がります。
一方、台湾の支配は認められ、日本は初の植民地経営を行うことになります。(日本の台湾支配はWW2集結まで続きます)
1898年 清朝での変法運動(戊戌の変法)
<清末の政治権力者、西太后の写真>
日清戦争に破れた清朝では、敗北を清朝の政治体制の腐敗が理由と主張する公羊学派の康有為が台頭しました。
康有為は、国会や憲法の制定など日本の明治維新を倣って清朝が近代国家になるための改革を目指して、皇帝である光緒帝を説得しました。この改革を戊戌の変法といいます。
しかし改革に反対したのが、清朝宮廷にて権威をふるっていた西太后です。(光緒帝のおば)
西太后は、康有為の改革に反対してクーデターを起こし、光緒帝を幽閉&毒殺して、康有為は失脚させます。これが戊戌の政変と呼ばれます。こうして清朝でおきた上からの近代化への道は、宮廷の女性権力者によって閉ざされます。
19世紀末 清朝分割
<中国分割に乗り出す5カ国の風刺画>
日清戦争に敗北した清朝は、その弱体化が国際的に明らかになり19世紀末から、ヨーロッパ/日本による清朝の分割支配が一気に進みます。下記に一気にまとめます。
●日本:日清戦争にて台湾を得た日本は、その対岸の福建地方の利権を清朝に認めさせます。
●ドイツ:1898年にドイツが山東地方の膠州湾を租借(清朝国内の一部を諸外国に貸し与えること)します。
●イギリス:威海衛・九竜半島を租借。
●フランス:広州湾を租借。
●ロシア:遼東半島の南部を租借。東清鉄道の施設権を獲得。
ロシアは三国干渉で日本に遼東半島を清に返還させた見返りに、清朝から東清鉄道の施設権を得ます。
当時ロシアは西部から東部にまたがるシベリア鉄道を建設していました。その東部の終着駅である、ウラジオストクまでの近道として清朝領土を鉄道が走ることを認めさせたのが、東清鉄道の施設権です。
この鉄道の敷設により武器・兵士を東アジアへ迅速に送り込むことが可能となるため、日本はロシアの東アジア進出に脅威を感じて日露戦争へと突入していきます。
こういった中国分割の流れは、中国進出に乗り遅れたアメリカの国務長官ジョン・ヘイの門戸開放・機会均等・領土保全の宣言によって落ち着きます。門戸開放宣言とも言います。要は、中国を各国分割しようとしているけど、その土地での貿易取引を独占せずに他国商人(要は自分たち)にも平等にチャンスをくれと言うことです。
1900年 義和団事件
列強による中国分割が進む中、清の民衆たちは排外活動を激化していきます。1860年に清朝でのキリスト教布教の自由が認められると、中国各地で反キリスト教運動がおこります。仇教運動といいます。
とくに山東地方の武術宗教集団である義和団は、”扶清滅洋“(清を助け、外国勢力を滅ぼす)をスローガンにキリスト教の宣教師や信者を攻撃し、あれよあれよと北京を占領します。
清朝宮廷の西太后は、最初は義和団を鎮圧しようと思いましたが、この運動を利用して列強勢力を排除しようと考えて各国に宣戦布告をします。
この宣戦布告に対して、イギリス/ドイツ/フランス/アメリカ/オーストラリア/イタリア/ロシア/日本の8カ国は共同出兵して2万の軍勢を北京に送り込み、義和団事件を鎮圧しました。オールスター感ありますね。
1901年に敗北した清朝は、北京議定書を結び、巨額の賠償金の支払いと、外国軍隊の北京駐屯を認めさせられます。
1904年 日露戦争
1900年の義和団事件鎮圧後、ロシアの軍隊は満州地方から撤兵せず、駐屯し続けました。思惑は、朝鮮(1897年に国号を”大韓帝国“に変更しています。以降、大韓帝国)支配の足がかりを得ることでした。
ロシアの大韓帝国への南下を危惧したイギリスと日本は、互いに同盟を結んでイギリスは日本にロシア牽制の役割を任せます。(日英同盟)
日本はイギリスからの経済援助と、遼東半島を返還させられたことによる国内での反ロシア感情も相まって、日露戦争を展開します。
あいつぐ開戦の勝利に湧いた日本ですが、所詮1890年代に産業革命が起きたばかりの新興国であったため、すぐにお金がなくなり財政危機に陥ります。
幸運にも1905年の1月にロシア帝国の首都であるペテルブルグにて、血の日曜日事件によってロシア皇帝への不信により農民放棄、労働者のストライキなどが起こり、第一次ロシア革命に陥ります。
国内暴動に追われたロシアと、資金繰りに苦しんだ日本。これ以上日露戦争を続けるメリットが両国に無くなったことで、アメリカのセオドア・ローズヴェルト大統領の調停によりポーツマス条約が結ばれます。
こちらがポーツマス重役の内容で、もちろん日本有利の内容となっています。
・大韓帝国の保護国化
・遼東半島南部の租借権
・南満州鉄道の利権(かつてロシアが東清鉄道の敷設権をもって建設した鉄道です)
・南樺太の領有権
1910年 韓国併合
清にもロシアにも勝利した日本は、ついに大韓帝国の支配を推し進めます。韓国民衆による抗日運動、義兵闘争も頻繁に起きましたが、1910年には韓国併合します。
韓国には朝鮮総督府を設置して、朝鮮総督府を中心に統治が行われました。統治形式は軍人による、武断政治です。
1911年 辛亥革命
<辛亥革命の指導者、孫文>
さて日本に話がそれましたが、義和団事件が鎮圧された後の清朝を見ていきましょう。ついに200年以上続いてきた清朝が滅亡します。これは秦の始皇帝から続いてきた、中国の皇帝制度の終わりを意味します。
義和団事件以降、保守派であった西太后らも、いよいよ近代化に向けて改革を実行しなければならないと重い腰を上げます。科挙の廃止や、立憲制にむけて憲法大綱を発表し、議会を作ることを約束しました。
これを1898年の戊戌の変法のときにやっていれば良かったものを。時すでに遅しで、地方有力者の反対により近代化はなかなか進みません。
そんな中、海外の華僑や留学生の間で、清朝打倒の革命運動が勃発します。各革命団体をまとめあげた、孫文は1905年に東京にて中国同盟会を結成します。
中国同盟会は貧富の差の抑制する三民主義を掲げて、清朝打倒の革命運動を行います。
1911年に清朝は、民間の国内幹線鉄道を国有化して、その鉄道を担保に外国からの借款(借金)を行い厳しい財政難を乗り越えようとしました。
つまりは民間資本家たちの持つ鉄道を、無理やり奪い取って、外国に権利を明渡し、あげく満州皇族たち自らのための資金繰りをしようとしていると国内各地で大反対を受けます。
四川での暴動がきっかけとなり、1911年に武昌にて革命派が蜂起し辛亥革命が始まります。
各州が清朝からの独立を発表し、革命軍は孫文を臨時大総統に選び、南京にて中華民国の建国を宣言しました。アジア初の共和制国家の登場です。
<幼くして清 皇帝として即位し、ラストエンペラーとして退位した宣統帝>
中華民国は、清朝打倒を目指して何度か清軍と戦ったものの、やはり大帝国。すぐに清朝を力で倒すことは難しいと判断した孫文は清軍の実力者である袁世凱と交渉して、当時の清の皇帝であった宣統帝の退位と共和制の維持を条件に、臨時大統領の地位を袁世凱に譲ります。
袁世凱の裏切りにより、1912年に中国最後の皇帝である宣統帝が退位し、清朝はついに滅亡します。
ちなみに袁世凱を大総統とした共和制は全く安定せず、孫文との約束を反故に独裁体制/帝政復活を目論みます。袁世凱の失脚後も、国民党/共産党/北部軍閥勢力の三つ巴状態が続き、最終的に共産党勢力が勝ち残って今の中華人民共和国に繋がります。
1911-24年 外モンゴル地方の独立宣言→モンゴル人民共和国の建国
辛亥革命から中華民国の建国の中、清朝の藩部では各民族地方の独立の動きが起こります。チベットや外モンゴル地方が独立を宣言して、実際に1924年には外モンゴル地方は、ソ連の支援を受けてモンゴル人民共和国として独立を成功させます。
モンゴル人民共和国は、ソ連に続く世界で2番目の社会主義国家となります。1991年にソ連が崩壊すると、翌1992年には社会主義を捨ててモンゴル国として現在まで続きます。
その他のチベット、新疆、内モンゴル地方などは中華民国の中に留まり、現在まで民族独立が許されずにテロや反政府活動など禍根を残す形となります。