南北朝時代を統一した隋と、国際色豊かな唐
【前回までのあらすじ】(3)中華分裂の魏晋南北朝時代
前回は統一と分裂を繰り返す南北朝時代の中国史を見ていきましたが、その分裂もようやく終わり隋によって統一がなされます。
西晋以来の、久方ぶりの中華統一の時です。果たしたのは、北周の楊堅です。
581-618年 隋 都:大興城(長安)

楊堅は、581年に北周の皇帝から位を譲り受けて隋を建国。589年には南朝の陳を滅ぼして、中華統一を果たします。
隋は、南北朝時代の王朝が採用した制度を継承して行いました。
・土地制度としては、北魏が行った均田制。
・税金制度としては、西魏の制度を改良した租庸調制。(均田制で土地を与えられる代わりに、租(穀物)、庸(布)、調(繊維製品)を納めること)
・兵制としては、西魏の府兵制。(均田制によって土地を国家から借りている農民の中から、徴兵を行う制度)
つまりは均田制で農民に土地を与える代わりに、税金(租庸調)と兵役(府兵制)を負わせたという形です。

また官吏登用制としては、魏が行った九品中正法を廃止し、新たに科挙制を実施しました。
九品中正法によって、地方豪族が官僚権力を独占して門閥貴族化している状況を変えるために行われました。科挙とは、現在の公務員試験のようにテストによって官僚を選抜することです。最初の合格者は本当に数人でしたが、実力主義の考え方を隋が採用したことで、隋→唐にかけて中国の貴族は没落していきます。
これらの4つの制度は次の唐の時代にも継承されます。

<エルニーニョ現象が畜生過ぎる 中国の洪水で学ぶ地理 より>
楊堅の子の煬帝が隋の2代目を継ぐのですが、彼は中国皇帝にありがちな豪華絢爛を好み、暴君として悪評されています。
彼の政策も大胆なモノで、100万もの人間を動かして南北がつながる大運河を完成させて、華北(黄河周辺)と江南を運河にて結びました。この意義は非常に大きく、中華政治の中心地である華北と穀倉地帯である長江周辺地域を結んだことで、南北間での人や物資の流通がなめらかに進み、経済活動が発展しました。
ただし、隋の国民にとって大規模な土木工事はかなりの負担。これに煬帝がゴリ押しした、朝鮮半島の高句麗への3度の遠征が重なり、国民の不満は最高潮に。各地で反乱がおきて、618年に隋は滅びます。わずか38年の短命王朝でした。
618-907年 唐 都:長安
隋を滅ぼしたのが、強大な軍事力を持った李淵です。618年に隋を滅ぼして、唐を建国します。都は隋と同じ場所で長安です。
唐の時代の制度は基本的には、隋時代の制度を踏襲しています。(均田制、府兵制、租庸調制、科挙制など)
626-649年 2代目 李世民

2代目の李世民の時代に中国を統一します。
積極的に対外政策を行い、モンゴル高原の北方地域で力を持っていたトルコ系の東突厥を服従させます。
李世民の時代は安定していたため、「貞観の治」として国力を上げた年代でした。
649-683年 3代目 高宗
7世紀後半の高宗の時代には、唐の支配領域が最大となります。朝鮮半島の百済、高句麗を滅ぼして、西域では西突厥を滅ぼし、南ではベトナム進出を行います。
征服した異民族の土地には、都護府という中央から派遣した地方官を置いて統治させました。ただし唐の時代は、地方官の下は現地の異民族に地位を与えるという寛容な征服形態を取りました。
現地の異民族による自治に”任せる”統治のあり方を羈縻政策と呼びます。
690-705年 則天武后

※画像は超イメージです。wiki画像はこちら。
高宗の皇后である、則天武后は7世紀後半から病気がちな高宗に代わって実権を握っており、690年には正式に唐の皇帝になります。中国史上、唯一の女性皇帝です。
彼女は権力争いを好み、政治の混乱を引き起こしたとして悪帝であると評判が高く彼女の治世は、武韋の禍と呼ばれています。
712-756年 6代目 玄宗

玄宗もまた、李世民とともに名君として名高く、その治世は開元の治と呼ばれています。
ただしそれは彼が若い頃の話。晩年には、中国史の美の象徴とも言える楊貴妃に入れ込んで政治に無関心になっていきます。
玄宗による政治の混乱、農民が税の負担に耐えきらずに没落、貧富の差の拡大などにより、均田制は8世紀には形骸化していきます。均田制がダメになると、それを元にしている府兵制も集まる農民がいなくなってきてしまいます。
そこで、兵制度を、募兵制に変えました。その名の通り、兵士を募集する傭兵制度です。募兵制で集められた兵士たちは、唐を異民族から守るために辺境の地へと送られます。そこで指揮官をとるのが、節度使です。
751年 タラス河畔の戦い

中国の唐と、イスラム王朝であるアッバース朝が一戦を交えたタラス河畔の戦い。8世紀に東西の大国が交戦した重要な出来事。
唐軍はアッバース朝に大敗します。ちなみにこの戦いで製紙職人がイスラムの捕虜となったきっかけで、中国の製紙法が西方へと伝わっていきました。
755-763年 安史の乱
楊貴妃の虜になってしまった玄宗の政治に不満を持った節度使、安禄山と史思明が起こしたのが安史の乱です。しかし、これは唐がウイグルの力を借りることで鎮圧されてしまいます。
しかしこの安史の乱 以降、唐の中央政府の力は弱まり、節度使が権力をつけるようになります。権力がある節度使は藩鎮と呼ばれました。
780年 両税法の施行
均田制が形骸化し、没落農民が捨てた土地は貴族や藩鎮が所有し、大きな土地を権力者が所有するようになりました。そして、実際に耕すのは没落農民。これで荘園制の完成です。
中央政府が力を失い、均田制も崩壊して財政難に陥った唐は、租庸調制に代わって両税法を施行します。
両税法は、貴族が所有する大土地に対して、夏秋2回の徴収を行った制度です。
907年 唐 滅亡
両税法を行っても財政難の唐は、塩の国家による専売も行い、密売人は厳しく取り締まりました。
政府に反旗をおこした塩の密売人黄巣が反乱を起こしましたが、藩鎮によって鎮圧されます。
その後、黄巣の乱で名を挙げた朱全忠が後梁という国を建てて、唐を907年に滅ぼします。
907−979年 五代十国時代
907年の唐の滅亡から、宋による中華統一までの期間を五代十国時代といいます。中国は、南北朝時代(4-6c)以来の分裂期へと突入します。
この時代は、唐の貴族階級の没落が決定的となった時代です。南北朝時代に栄えた貴族たちでしたが、唐の時代に科挙による官吏登用制度が一般的になって徐々に衰退していき、五代十国の戦乱の中で荘園を失って没落していきました。
貴族に代わってその土地は、新興地主層が経営するようになります。貴族のように土地と農民を直接運営するのではなく、実際に作業を行う小作農(佃戸とよばれる)に土地を貸し与えて収穫の半分をもらうやり方をとりました。この土地制度は、宋時代に一般化していきます。
唐の各種制度
唐は律・令・格・式に基づいた、律令国家を確立します。簡単にいうと、法律に基づいた国家運営を行ったということです。
政治行政のあり方としては、三省・六部・御史台です。
法治国家として、正しい法律が制定されるように三省は機能します。三省とは中書省、門下省、尚書省の3つのこと。それぞれ、皇帝の詔勅(皇帝の意思)を元に法案を起草、その草案の内容の審議、法案の実行を行う機関です。皇帝が考えた法律をきちんと3機関によって検証を行って、皇帝の権力を制限しました。
尚書省の下に、六部という6つの行政機関があり、それぞれが行政としての機能を果たします。(今で言う財務省、法務省、防衛省などの機能です)
そして御史台は、三省・六部に務める官吏の仕事ぶりを監察する機関です。
唐における律令国家運営は、東アジアの周辺地域にも大きな影響を与えました。日本、朝鮮半島の新羅、東北地方の渤海などの各国が唐の制度を模範としました。
それだけ唐は東アジアでも影響力がずば抜けた、大国であったということです。
唐を中心とする東アジア文化圏
李世民、高宗の7世紀に突厥、高句麗といった大国を滅ぼして最大領域を達成した唐は東アジアの有力国へと成長していきました。
広大な地域と、羈縻政策による安定した国家運営によって、東アジア周辺地域にも大きな影響力を持ちました。特に首都、長安には日本や朝鮮半島をはじめとする周辺諸国中から商人や使節が集まる当時の国際都市でした。

日本も遣唐使を送って、唐の文化や制度を学ぼうとしていたくらい当時の大帝国だったのです。都市計画も日本の平城京は真似をしており、真ん中にどでかい皇帝の城をすえて、碁盤の目のように街を展開させていき、城へと向かう道はとりあわけ広くする唐の首都を模範として作られました。
北方地域:突厥、ウイグル、キルギス
6世紀に北方地域で栄えたのは、トルコ系騎馬民族の突厥でした。突厥はイラン地域のササン朝ペルシアと手を結んでエフタルを滅ぼしたことで登場しました。
隋の興隆によって東西に分裂してしまい、李世民、高宗によって東西ともに唐によって征服されてしまいます。
突厥のあとに北方地域にて栄えたのは同じトルコ系騎馬民族のウイグル。安史の乱を唐と共に鎮圧した際に登場しました。ササン朝ペルシアから伝わったマニ教を国教化します。
9世紀にはウイグルを滅ぼして、キルギスが興隆します。
西域:吐蕃、イスラム地域

唐の西側地域にて7世紀に栄えたのはチベット民族の国、吐蕃です。ソンツェン・ガンポがチベット系の諸民族をまとめて建国した、唐にも匹敵する大国です。インドの仏教を元に、チベット仏教を国教としました。
さらにその西方では7世紀にイスラム王国が興隆していました。ムハンマドと李淵はちょうど同時期の産まれの人物です。後に唐とアッバース朝がタラス河畔の戦いで激突しています。
東方地域:日本、朝鮮

日本や朝鮮半島の新羅とは、朝貢制度を通じて交流がありました。
朝貢とは、中国王朝を世界の中心であり君主と見なし、周辺国が臣下として貢ぎ物を送る代わりに、中国皇帝が返礼品を与えるという東アジア地域特有の外交関係です。
この交流を通じて、日本や朝鮮半島には儒教思想、律令体制、仏教文化などが持ち込まれました。
少し7世紀の朝鮮半島を詳しく見ておきます。当時、新羅、百済、高句麗の3地域に分かれていた朝鮮半島でしたが、唐が新羅を支援したことで、他2国を滅ぼします。(当時の日本は百済を支援しましたが、白村江の戦いで負けました。)
新羅は唐の影響を色濃く受け、仏教を保護して、唐の官僚制度を受け継ぎました。

新羅時代に建てられた仏国寺は、美しい石造多宝塔が世界遺産に登録されています。
また骨品制という、身分制度が導入されていたことも特徴的です。貴族階級を5段階に分けて、婚姻、家、衣服の色まで細かく制限をかけました。(平民ははなからランク外なので、インドのカースト制度とは性格が異なる)
朝鮮半島の北方では、高句麗の滅亡後、ツングース系の渤海が栄えます。渤海も唐との交流が深く、律令制度を取り入れます。唐の滅亡後の10世紀に、契丹に滅ぼされます。
日本も唐には遣唐使を送っていたので、交流は深く律令制度、均田制などを輸入しました。
唐時代の文化史
最後に、唐の文化史を見ていきましょう。
唐は当時の東アジアでは大帝国、周辺の地域と朝貢も行い国際色豊かに栄えました。それは文化にも大きく影響を与えました。
多様な宗教の普及
長安には多くの人物が訪れて交流したため、仏教以外の宗教もかなり広まりました。
431年にエフィソス公会議にて異端とされたキリスト教のネストリウス派が東方まで流れ着き、唐にて景教として広まります。(他にもマニ教、祆教(ゾロアスター教)など)
インドへの仏教留学
唐にて仏教を学んでいた玄奘は、本場インドで学びたい欲を強くして、629年、26歳の時に異国へと乗り込むことを決意します。
当時の唐はまだ建国したばかりで外国への出国が認められておらず、密出国という形で玄奘は飛び出しました。陸路にてインドに到達し、16年の旅を経て、唐に戻ってきた際には多数の仏典を持ち帰り翻訳しました。
玄奘の大旅行記は、「大唐西域記」にてまとめ上げられ、後の西遊記の元となりました。
玄奘は7世紀前半にインドへ向かいましたが、7世紀後半には義浄が海路にてインドへ向かっています。
ムスリム商人との貿易

義浄が海路にてインドへ渡れたことからもわかるように、唐は国際貿易のために海路も開発しました。
主な貿易相手はムスリム商人で、南部の広州などの港町が発展しました。広州には政府が海上貿易を管理する、市舶司が置かれました。主に積荷内容の検査や、税金徴収が彼らの仕事です。この制度は、19世紀の清まで続きます。
孔頴達 「五経正義」
唐の時代には科挙が行われていたが、試験科目のうちの1つ、儒学の五経の解釈について統一見解がなかったため、孔頴達が五経の解釈を決めたのが「五経正義」です。
以降、科挙の試験の際の政府公認の参考書となります。孔頴達により訓詁学が大成されます。ただ、これによって儒教が型にハメられて固定化してしまい、つまらないものとなってしまい宋の時代には朱子学が発達します。
唐の3詩人 李白、杜甫、白居易

中国文学として、詩人はとても有名です。李白、杜甫、白居易ぐらいの名前は唐の詩人として頭に入れておきましょう。
呉道玄 山水画

力強い大胆な筆法で、山水画の名手といわれた呉道玄。
顔真卿 書法の変革
こちらも貴族風の書法から一変、力強い書法で人気を博した顔真卿。
韓愈・柳宗元の古文復興
詩や散文の書き方は、貴族文化の最盛期である魏晋南北朝時代に四六駢儷体という形で定型化されました。
貴族たちは型にハマった文章を華美としてきたが、唐の時代に貴族文化が没落してくると、一般官僚出身の韓愈・柳宗元が漢の時代の自由な文章を復興しようと、古文復興運動が起こりました。
この古文復興運動は、宋の欧陽脩や蘇軾の時代にも引き継がれます。