ヨーロッパの海外進出〜大航海時代〜
【前回までのあらすじ】(9)中世後期のスペイン・神聖ローマ・イタリア
レコンキスタが達成されたのは1492年。コロンブスがアメリカ大陸に上陸したのも1492年。
実は、スペイン・ポルトガルはレコンキスタを行う一方で、ヨーロッパ外へ新たな富を求めて動いていたのです。内のことも外のことも、同時に気を配っていたとは天晴です。
今回は、スペイン・ポルトガルの大航海の内容を詳しく追っていきたいと思います!
大航海時代が起きた背景とは?
大航海時代の背景(1) ポルトガルが領地拡大を求めて
前回も解説した通り、カスティリア王国とアラゴン王国が併合しスペイン王国という巨大な国家が誕生しました。
そうなると、ポルトガルはイベリア半島でこれ以上、領地を拡げることができません(上の画像を見てもらうと、一目瞭然です)
そこで、外に新たな植民地を求めて船を出そうという気運が高まったわけです。
実際、大航海時代はポルトガル側から始まります
大航海時代の背景(2) インドの香辛料を求めて

十字軍以降、東方貿易が活発化し、陸路にて貴重な香辛料が運び込まれるようになりました。
香辛料は、肉と合わせると非常に美味であるということがヨーロッパにて知られるようになり、需要が一気に高まります。(また、香辛料には防腐作用もあると信じられており、お肉の保存用にと重宝されていた)
しかもヨーロッパでは香辛料は自生しないので、アジアから持ってくる他ありません。つまり、ヨーロッパ内での高い需要に対して、陸路による貿易によってわずかにしか供給できないので、香辛料は非常に高価格なモノになっていたのです。
この莫大な富を生む可能性を秘めた香辛料を、海路にて運搬し、儲けてやろうと考えたのがポルトガルやスペインなのです。
大航海時代の背景(3) オスマン帝国が貿易に高い関税をかけた
オスマン帝国とは、トルコ人を中心とした大帝国です。1453年にはビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを陥落します。おかげで、地中海交易権を握られ、貿易に対して高い関税をかけられてしまいます。
地中海は、アジアとヨーロッパを結ぶ中継地点のようなものですから、そこでの関税が高くなるとヨーロッパでの香辛料の価格は跳ね上がってしまう。
そこで、新たな香辛料の運搬ルートがヨーロッパにて渇望されたのです。
大航海時代の背景(4) 航海技術が大幅に発展した
長距離航海の技術がこの時期、着々と整っていたことも大航海時代の要因の1つです。
世界3大発明品の1つでもある、羅針盤が中国の宋にて開発され、ヨーロッパへと渡ってきたことで、正確な方向へと船を進めることが容易になりました。
大航海時代の背景(5) マルコ・ポーロの東方見聞録にヨーロッパが刺激された
マルコ・ポーロの書いた「東方見聞録」。アジアの世界が描かれたこの作品に、ヨーロッパの人たちは多大な影響を受けました。
これが大航海時代への直接のきっかけとはならないですが、ヨーロッパの人々にアジア・東方への関心を高めた作品であることは間違いありません。実際、コロンブスは「東方見聞録」にかなり入れ込んでいて、航海のきっかけとなったそうですから。
ポルトガルの大航海政策

さぁ、背景はこの辺にして、具体的な大航海時代の中身へと移っていきましょう!まずはポルトガルから。
先ほど説明した通り、ポルトガルは新たな植民地を求めてイベリア半島の外へと飛び出していきます。
15c前半 エンリケ航海王子がアフリカ西岸探検を推進
ポルトガルの大航海の基盤を固めたと称されるエンリケ航海王子。
ですが彼が進めたアフリカ西岸探検は、アフリカにて黒人奴隷や金を獲得することが目的でした。
当初は、大航海時代だとか、香辛料だとかは求めていなかったわけです。

当時のヨーロッパの人々は、古代ローマのプトレマイオスの天動説を信じていました。なので、彼らの中の世界地図は上記のような感じです。
インド洋は閉じた海で、アフリカ大陸の南側とアジアは繋がっていると信じられていました。そして大西洋を、更に西へと進むと・・・・世界から落っこちる(笑)
ところが、エンリケ航海王子がアフリカ西岸の探検を進めていくうちに、どうやら大西洋とインド洋は繋がっていて、アフリカ大陸を回ってインドへと到達することが可能だと判明していくのです!
コレは凄い発見だ!海路でインドまで行けるかもしれない!ということで、まずアフリカ大陸の最南端はどこなのか?ということを確認することが求められました
1488年 バルトロメウ=ディアスがアフリカ最南端の喜望峰に上陸
そして、ついにバルトロメウ=ディアスがアフリカ最南端の喜望峰への航海を達成したのです!
アフリカ最南端の存在を確認したことで、アフリカとインドは陸路で繋がってはいないことが証明され、インドへの航海が実現可能であることが判明しました。
そして、その10年後、ついにインドへの航海が達成されるのです!
1498年 ヴァスコ=ダ=ガマがインドのカリカットに上陸
前回の喜望峰の発見で、インドへの東回りでの航路が実現可能と判明はしていたのですが、その実現には10年の月日がかかってしまいました。
1492年、コロンブスがスペイン王国の援助のもと、西回り航路でのインドへの到達を達成したと当時は信じられていたので、ポルトガル側は非常に焦っていたことでしょう。
そんな中、1498年にヴァスコ=ダ=ガマが見事、インドへの航海を達成しカリカットに上陸します!
しかし1回目の航海では、香辛料の取引がうまくいかず、インドへの航路の発見にとどまりました。
1500年 カブラルがブラジルに上陸(漂流)
インド航路の発見に湧くポルトガルにて、カブラルがブラジルへと漂着します。
彼が漂流したことで、ブラジルはポルトガルの植民地として認められることになります。
1502年 ヴァスコ=ダ=ガマ2回目のインド航海
1502年、ヴァスコ=ダ=ガマは2回目のインド航海を達成します。今度は、香辛料貿易を武力にて進めるために兵団を率いての航海でした。
武力による貿易は成功し、ポルトガルに大量の香辛料をもたらすことに成功します。これを契機に、ポルトガルの首都リスボンは香辛料貿易によって繁栄し、世界の貿易の中心地となります。
1511年 マラッカ王国の征服
マレー半島南部に、マラッカ王国という東南アジアの大きな王国がありましたが、ポルトガルに占領されます。
1512年 モルッカ諸島への来航
その翌年、現インドネシアのモルッカ諸島へとポルトガルが上陸します。
このモルッカ諸島は、香辛料の中でも特に貴重なナツメグが取れる唯一の地域であったため、この地域をめぐって西欧各国で争いが激化します。
最初はスペインと香辛料の独占をめぐって争いますが、ポルトガルが支配権を勝ち取ります。
その後、世界の覇権がポルトガルからオランダへと移り変わった17c前半に、オランダへと支配権が移ります。
スペインの大航海政策

ポルトガルの次は、スペインの大航海時代の政策を見ていきます。彼らは主にヨーロッパの西側へと、目を向けます
1492年 コロンブスがアメリカ大陸に上陸

1488年、ポルトガルが喜望峰を発見したことで、スペイン王国はポルトガルに大幅な遅れをとってしまっていました。
1492年、レコンキスタが達成され国内にゆとりができたことで、ようやく航海戦略を進めることができるようになります。
かつてのカスティリア王国のイサベル女王は、スペイン王国としてコロンブスの西回りでのインドへの到達を支援しました。
コロンブスはマルコ・ポーロの「東方見聞録」を読み込みアジアへの関心・情熱を高めていました。そしてトスカネリの「地球球体説」を信じ、西回りでのインドへの航海を決心します。
当時、大西洋の端は滝壺になっていて世界の果てへと落っこちてしまうと信じていた時代ですから、ある意味凄い勇気です。
コロンブスは当初、ポルトガル側に西回りインド航路の提案を行いましたが拒否されたため、スペイン王国へと話を持ちかけました。イサベル女王が支援を決めたことで、コロンブスの航海が始まるのです。
そして、1492年コロンブスは大西洋を越えてインド・・・ではなく!アメリカ大陸のサンサルバドル島へと上陸します。
そこは、アメリカ大陸の端の端の諸島であったわけですが、コロンブスは「ここはインド!」と信じて疑いませんでした。
計4回のアメリカ大陸への航海を行うわけですが、彼はインドを発見したと信じて亡くなりました。
この間違いおかげで、コロンブスが発見した諸島の数々は「西インド諸島」、アメリカ大陸の原住民は「インディアン」と呼ばれることになってしまいます。
とうもろこし・じゃがいも・トマトなどです。それぞれ、イギリス・ドイツ・イタリアのイメージがありますが、実は16c以降に普及した割りと新しい食べ物なんですね(笑)そう考えるとマルゲリータも、最近の食べ物ですね。
1494年 トルデシリャス条約の制定
1493年、スペインとポルトガル間の新大陸を巡る対立を抑えるために、ローマ教皇の取り計らいのもと両国の海外領域を定める教皇子午線が引かれました。
しかし新大陸の全てが、スペインの支配地域という明らかにスペインに有利な境界線にポルトガル側が不服を申し立てます。
そこで1494年に、新たにトルデシリャス条約が制定され、境界線が西へと少しずれ込み、ブラジルがポルトガルの支配領域となります。(後に、ポルトガルのカブラルが発見)
1501~02年 アメリゴ=ヴェスプッチがアメリカ大陸を断定
コロンブスが発見したと主張するインドですが、探せど探せど香辛料が出てきません。
さすがにスペイン王国も不審に思い、アメリゴ=ヴェスプッチに広範囲の航海を行わさせます。そして、ついにコロンブスはインド航路ではなく新大陸を発見したのだと断定したのです。
しかし、ヨーロッパから西に進んだら新大陸があった。では、そのさらに西側には一体何があるというのか?
多くの人びとの好奇心を掻き立てたことでしょう。
1521年 コルテスがアステカ王国を滅ぼす
アメリゴ・ヴェスプッチの新大陸の断定により、スペイン王国は新大陸征服を急ぎます。
1521年、コルテスがメキシコ中央高原のアステカ王国を滅ぼします。
ここでのインディアンの虐殺・アステカ文明の破壊は酷く徹底されました。コルテスの行為は、今ではかなり批判されていますね。
1522年 マゼラン船団の世界周航の達成

さて、新大陸の先の世界を初めて見たのがアメリカ大陸を抜けて、さらに西の世界へと航路を進めたマゼラン率いる船団です。
彼らは南アメリカ大陸を迂回し、アルゼンチンの南端の海峡を越えて初めて太平洋へと到達しました。マゼランたちは、太平洋の航海において大きな嵐に会うことがなかったため、「太平洋」と名づけました。
勢いそのまま、マゼランたちは太平洋を越えてフィリピンのセブ島へと上陸します。が、なんと船長のマゼランはこのフィリピンで死亡します。理由は、フィリピンの人々からの反撃にあって殺されたからです。この時代の西洋人は基本的に、原住民を見下していますから、慢心していたのでしょう。
船長不在のままではあったものの、マゼラン船団はなんとか航路をさらに西へと向け、アフリカ大陸を廻り、2ヶ月間何も口にすることなく、なんとかスペインへと上陸し命からがら世界周航を達成します
出航当初は237名いた船員たちも、多くが命を落として18名のみがスペインにたどり着き世界周航を達成したことになります。もちろんそこに、マゼランの姿はありません。
世界周航を達成したことで、トスカネリの地球球体説が証明されましたね。地球は丸かったのです!
1533年 ピサロがインカ帝国を滅ぼす
1521年にコルテスがアステカ王国を滅ぼしたノウハウを活かし、ピサロはペルーのインカ帝国を滅ぼします。
こちらも虐殺と文明破壊が繰り広げられました。
スペインの新大陸の征服後の、植民地統治
スペインが新大陸を発見し、アステカ王国やインカ帝国を滅ぼしたことで、大量のインディオが奴隷として手に入りました。
さて、スペインは新大陸をエンコミエンダ制によって統治しました。
エンコミエンダ制とは、新大陸への植民者(もちろんスペイン人)にインディオたちにキリスト教を布教することを条件に統治を委託する制度です。
統治を委託された植民者たちは、インディオを労働力として酷使し、銀山の開発や、サトウキビの農作を進めました。
インディオたちの労働環境は酷いもので、次々と死んでいくので人口が激減します。この状況をラス=カサスというドミニコ修道会の聖職者は批難し、スペイン王国に報告しました。