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キリスト教の創成期の歴史を洗いざらい解説!
古代ローマの解説が終わり、次の項目はキリスト教の創成期の歴史についてお話しようと思います
具体的には、キリスト教はどうやって広まっていったのか?というお話ですね
今や世界的な宗教で世界人口の約3割、22億5400万人もの方がキリスト教徒ですが、当然キリストが生まれる前である紀元前にはキリスト教なんて概念はありません
例えば古代ローマでは、ギリシャ神話を真似たローマ神話があり、ギリシャのように自然を擬人化した神々を信仰していました
ですが紀元後のローマ、つまりアウグストゥスの帝政以降、キリスト教は急速な発展を遂げて古代ローマ皇帝の頭を悩ませる存在にまでなっていました
そんな、キリスト教の創生から迫害、国教として認められ広く宣教されていく過程の歴史を詳しく見ていきたいと思います!
イエス・キリストは実はユダヤ教徒!
みなさん、イエス・キリストって何教徒でしょうか?
キリスト教徒!というのは半分正解で半分間違いです
生まれた当初はイエス・キリストはユダヤ教徒でした。その後、新しいユダヤ教の宗派を生み出し、後にそれはキリスト教という名前に変わっていくのです。
つまりイエスは生涯ユダヤ教徒でした。新しいユダヤ教の宗派を作っただけなのです。
イエスが生まれる前のパレスチナの話を少ししておきます。
当時のパレスチナはローマの属州になってましたが、実質的な支配はユダヤ人のパリサイ派と呼ばれる祭司たちが行っていました
このパリサイ派という宗派はかなり頑固でユダヤ教の聖典やタルムード(ユダヤ人の行動規範のようなもの)に書かれていることを厳密に守ることを強要しました。これを律法主義、形式主義と呼びます
この安息日は、一切の仕事を行ってはいけません。家事もダメでひたすらに祈りを捧げなければなりません。
そしてパリサイ派は律法主義なので、安息日を厳密に守ることを強要しました。
当然、民衆の行動を無理に強制しようとすると反発が生まれます。ちょうどイエスが生まれた頃はそのパリサイ派に対する反発心が民衆の間で高まっていた頃でした。民衆は救世主(メシア)の出現を望んでいたのです
イエス・キリストの誕生とキリスト教の概念
そんな救世主を求める気運が高まっていたパレスチナで、イエス・キリストは産まれました
イエスは戒律を厳密に守ることができない弱い立場の人達にこう説きました
「聖典の内容を厳密に守れなくてもいい。ただ神を信じる心さえあれば、あなたは救われるのです」と。
パリサイ派が幅を効かせていた当時、弱い者の心を楽にするような言葉をかけたイエスは本当に神様のように映ったことでしょう
イエスはこうして民衆の支持を得ていき、次第にユダヤ教の選民思想(選ばれしユダヤ教徒こそ救われるという考え)まで批判するようになりました
さらにイエスはユダヤ教の唯一神、ヤハウェのイメージまで変えました。
ヤハウェはそれまで怖いという印象が大勢でありました。例えば、ノアの方舟伝説。人間の醜悪な性格に失望したヤハウェがノア以外の人類を洪水で殺し尽くしてしまうお話です。
もうめちゃくちゃに厳格で怖い神様です
が、今のキリスト教で想起される神様は愛に溢れた優しい神様という印象が大半だと思います
(もちろんキリスト教の神もただ1人、ヤハウェです)
その印象はイエスが神様は、貧富の差や身分の差を越えて万人を愛してくれる存在である「愛の神」だと教えまわったから形成されたものなのです
そして神様は万人を愛してくださるのだから、あなたも多くの人々を愛さなければダメですよと説きました。これが隣人愛という概念です
更にイエスは様々な奇跡を起こしました。手のひらをかざして病気を治したことで、民衆はイエスの説法にますます虜にされたのです
そして、究極の奇跡をイエスは起こすことになります。。。
イエス・キリストの処刑と復活の奇跡
民衆からの支持を得始めていたイエスの説く新しいユダヤ教は、多くのパリサイ派のユダヤ人にとってはおもしろくないことでした。イエスは民衆を扇動した罪でパリサイ派の権力者に追われる身となってしまいます。
イエスは弟子たちとともに追手から逃げ回りながらも、ある夕食の際に突然こう打ち明けます。
「私は明日捕らえられるだろう。それはこの中にいる誰かが私のことを裏切るからだ」
ここでイエスの人生は終わり、そしてキリスト教が本格的に始まります
イエスの亡骸があるお墓を見に行った所、なんとあるはずの死体がそこにはなかったのです!
そのニュースは口伝いに次々と流布され、次第に「イエス・キリストは復活したのだ」と主張する人たちが現れはじめ、その噂はまるで真実かのように話されるようになりました
これがイエスが起こした最高の奇跡、イエスの復活です。これほどの奇跡はありません。この事件によって、イエスという存在が神格化され始めます
(本当にイエスは生き返ったのかはそれぞれの判断・信念に任せます。。。)
キリスト教の流布
イエスの死後、弟子たちがイエスの教えを宣教して回ります。イエスの弟子は12人いて、彼らは使徒とも呼ばれます
代表的なのは、ペテロとパウロです
ペテロはイエスの教えを布教するために、イェルサレム教会を作り更にはローマにも教会を作ろうとしました。初代ローマ教皇、ということになっています。
パウロは「異邦人の使徒」と呼ばれるほど外の人への布教に熱心で小アジア(=トルコ)やエジプト、ローマまでとにかく宣教して回りました
こうした弟子たちの熱心な布教活動によって、ローマ内でもキリスト教という存在が広く知られるようになった反面、その事を皇帝たちは問題視するようになり始めます
ローマ帝国における、キリスト教の迫害と公認への歴史
1世紀、万人に加護を与えてくれるという新興宗教、キリスト教にローマの下級市民や奴隷たちは虜にされ始めます
ですがローマは多神教ですし、中にはユダヤ教徒もいます
異端宗教であるキリスト教を嫌うローマ市民も多く、それを受けて64年ネロ帝がローマの大火の犯人はキリスト教徒であるとしてキリスト教徒への迫害を始めるのです
さらに当時、ローマ皇帝は崇拝されるべき存在であるという皇帝崇拝という考え方が主流であったためそれに従わないキリスト教徒への迫害は強まります
それを受けて、キリスト教徒たちはカタコンベという地下のお墓で隠れてキリスト教の神を拝むようになりました
そして3世紀のディオクレティアヌス帝の大迫害を乗り越えて、遂に313年コンスタンティヌス帝のミラノ勅令によってキリスト教はローマで公認されます
するとキリスト教徒は、爆発的に信者が増加!
しかし爆発的な普及の代わりに、各人がそれぞれの解釈を行うため、キリスト教の教義がブレ始めます。。。
イエス・キリストは人か?神か?
それを受けて325年、コンスタンティヌス帝はニケーア公会議を開きます。これはキリスト教の正統派はどれにするかを決めた最初の会議です
議題は、イエス・キリストは神であるか否か?
ニケーア公会議ではアリウス派とアタナシウス派が争いました。
アリウス派:イエスはあくまでも人である!
アタナシウス派:イエスは神であり人である!
と唱えました。
みなさんはどう思いますか?笑
結論からいうとアタナシウス派が正統派と結論付けられアリウス派は異端であると追放されます
アリウス派は論理学者学者が代表者でしたので、イエスはあくまでも人であるとしか結論付けられませんでした。
ですが、アタナシウス派はイエスは人であるがゆえに死に、神であるがゆえに復活したと考えました。
これは矛盾していますが真理です。真理は人の心をうちますからね。アタナシウス派が認められました。異端認定のアリウス派は追放された後、ローマ北方のゲルマン人たちに布教を行いました。
この後、テオドシウス帝の時代にコンスタンティノープル公会議で、聖霊という信者の心に宿るイエス・キリストもまた神であると決定されました。
このようにイエス・キリストは神であり人であり聖霊であるとしたのが三位一体説です。
キリスト教の教義の確立
そして392年テオドシウス帝が遂にキリスト教を国教としてローマ帝国に迎え入れます
(361年にはユリアヌス帝のローマ多神教に戻ろうとしてキリスト教の迫害を行いますがあまり浸透しませんでした)
が、そのわずか3年後の395年にローマは東西に分裂してしまいます。やや混乱が起きますが東西の各教会が主導して教義を確立へと向けさせます
431年の場所は東ローマ、イエスは人であると主張するネストリウス派のためにエフィソス公会議が開かれましたが、ネストリウス派は異端とされ追放されます
追放されたネストリウス派は、東方へと広がりササン朝ペルシャを越えて中国に伝わり、唐の時代には景教とよばれました
こうしてキリスト教の正統派はアタナシウス派であり、三位一体説は今日までキリスト教の教義として確立されました
ちなみに、アウグスティヌスのマニ教からキリスト教への回収物語「告白録」や教会の重要さを説いた「神の国」が有名です