アテネの民主政治への流れ
民主政治って何だかみなさんわかりますか?
民主政治、つまり民衆が政治に参加できるようになるということです。
それまでの国やポリス、都市国家では貴族や君主などの権力のあるもののみが政治を行い、自分たちに都合のいい政策ばかり打ち出していました。その割を食っていたのが一般民衆です。
そんな特定の集団に権力が集中している状況をぶち壊そうとしたのがアテネの民衆たちです。
そんな民主政に歴史上初めて成功したポリスがアテネの民主政治へ向かう流れを見ていきましょう。
ギリシャで民主政治が生まれた2つの背景
ギリシャ民主政治の背景(1) 貴族政
古代ギリシャでは貴族政が行われていました。つまり少数のお金持ちが政治権力を握っていたということです。
貴族たちは、自分たちのポリスを守るために馬や武具を購入し、騎兵として戦争に参加していました。貴族が国防の義務を果たすことで、権力を支配していたというわけです。
貧しい平民たちは、お金がないので武器すらも買えず、ただただ守ってもらっているので貴族政に文句は言えません。
ギリシャ民主政治の背景(2) 平民が裕福になり、重装歩兵として戦争に参加

これまで騎士として自ポリスを守ってきた貴族たちでしたが、なんと!そこに少し豊かな平民が重装歩兵として国防に参加するようになります。
重装歩兵、もう響きがかっこいいですよね〜。重装歩兵とはご覧の通り、武具をまとった歩く兵士たちのことです。青銅兜や円盾、槍を武装した姿はなかなか壮麗です。
さてこの重装歩兵が成立した背景にはギリシャの経済発展があります。貨幣を初めて鋳造したリディアを見習い貨幣を使用したギリシャは、経済が加速するのです。
現代で考えてみればクレジットカードと原理は一緒です。クレジットカードがあれば、「あ!手持ちの現金がない」という時でもサッとカードを出せば支払いは完了し物をスピーディに手に取ることができます。
古代における貨幣の役割も同じです。それまで物々交換をしていたので、モノを買う際にはわざわざ売りたいものを手にして交渉をするのです。これって、かなり手間ですし時間もかかりますよね。ですが貨幣さえあれば、決済のスピードはよりスピーディに!
このように決済システムが進化すると、お金の流れるスピードは早くなり、その分多くのお金が回るので経済も発展するというわけです!
貨幣の登場によりギリシャは経済が発展したことで、裕福な平民たちが生まれます。
裕福な平民たちはお金があるので、様々な強固な武器を購入することができます。さすがに貴族のように馬を購入することはできませんでしたが、これで戦争に参加できるようになった平民たち。
もちろん貴族たちにとっても、自分たちの治めるポリスをともに守ってくれるのはありがたい話なので受け入れます。
・・・が!当然、少し裕福な平民たちも国防の見返りに、政治権力を要求するようになります。当たり前ですよね。自ら進んで死地に赴くような人間はいません。
こうして平民たちが貴族に対して参政権(政治に参加する権利)を要求しようという気運が高まったのです
前8cから貴族政→リディアを見習い貨幣経済に→ギリシャの経済が発展→裕福な市民が増える→武具を買うお金ができて重装歩兵の誕生→市民たちも戦争に参加できるようになって発言力が高まる→参政権要求
アテネの民主政治への流れ
さて、古代ギリシャでは裕福になった平民たちが参政権を要求するようになったという背景を理解していただけたと思います。
ここからは具体的に1つのポリス、アテネにて貴族政から民主政へとどのように変化していったのか追っていきましょう。
ドラコンの慣習法の成文化(前7c後半)
まず前7c後半にドラコンという立法者がアテネ従来の慣習法を成文化、つまり言葉で明示して貴族による法の独占を防止しました。
これまで貴族が「俺が法だ!ゆえに俺が裁く」としていた法のあり方を変えようとしたということです。
「いや、お前がやろうとしている裁判はこれまでの慣習法に照らし合わせると間違ってるから」と貴族に対して反抗できるようにしたのです。
が、それでは世界は変わりません。「うるせぇ俺が法なんだよ」と貴族に言い切られてしまえば、金のない平民の戯れ言など関係ないですから。
ソロンの改革による財産政治(前594年)
しかし貴族政を終わらせたのが、前594年のソロンの改革です。ポイントは2つ。
債務奴隷の禁止と財産政治です。
これまでギリシャは貨幣による経済発展によって平民を重装歩兵としていましたが、中には借金をしすぎて返せなくなり奴隷としてお金を稼がなければなりませんでした。
借金が返せなくなった奴隷を債務奴隷とよんでいるのですが、これを禁止しました。
どういうことか?今までの借金が全て帳消しにされ、今後も債務奴隷となることはない!ということです。
債務奴隷をなくした上に、市民を財産の保有量によって4等級にわけて、重装歩兵として戦えるほど財産のあるものに対しては参政権を認めました。
これを財産政治といいます。貴族でなくても戦うお金があれば政治に参加できる!という民主政への足がかりを作ったとしてソロンの改革は評価されています。
ペイシストラトスの僭主政治(前561〜前528年)
さて財産政治は平民の政治参加への足がかりを作ったものの、平民間で格差をもたらしてしまいます。
そんな少数の金持ち平民と多数の貧乏平民との間の格差は、多数の貧乏平民に不満をもたらしました。
不満タラタラの多数の貧乏平民を煽って非合法的に政治権力を手に入れた人がペイシストラトスです。
彼は僭主政治という、ほぼ独裁政治を行いました。
しかし独裁政治というイメージに騙されてはいけません。彼は貧乏平民たちにとって非常にありがたい政治を行いました。貴族の土地を貧乏平民たちに分け与えたのです。
彼は貧乏平民の支持によって権力を得たのですから、貧乏平民に有利な政治をするのは当然のことですよね。これは今の政治にも通ずる事実です。(もちろんペイシストラトスは貧民を本気で救いたいという気持ちがあったと思いますが)
そんなペイシストラトスの死後、彼の息子はめちゃくちゃな政治をして暴君っぷりを発揮し僭主政治は終了します。
結局、貧民を救いたいという本当の思いをもたずに権力を手にしてしまうと失敗するということです。二世社長が失敗してしまう理由もココにあります。笑
クレイステネスの陶片追放(オストラシズム)

<陶器に名前を書いて独裁者になりそうな人を追放する、投票制度>
暴君の僭主政治によりめちゃくちゃになってしまったアテネでは、クレイステネスがもう二度と貴族政治や僭主政治が実現してはいけないという思いから血縁的な4部族制を廃止し、陶片追放(オストラシズム)を確立しました。
★陶片追放(オストラシズム)とは:僭主がもう二度と現れないようにと、市民が権力を民主政治によって監視する制度です。具体的には、陶器の欠片に危険人物の名前を書いて独裁者の出現を市民全員の力で防止したのです。
6000票以上投票された人物はアテネのポリスから10年間追放されました。
この制度によって貴族政治と僭主政治は終わり、政治の主体は市民(貴族と金持ち平民)となりました。しかし貧乏平民がまだ政治に参加できていないので、民主政はまだ確立されていません。
ちなみに陶片追放は前487年に初めて施行されましたが、後に有能な人間までデマによって追放されるようになりました。
この後のペルシャとの戦争の1つ、サラミスの海戦で大活躍したテミストクレスもデマに扇動された民衆の陶片追放(オストラシズム)によってアテネを追放されます。
(クレイステネスとテミストクレス、名前似ているので注意!テミストクレスはサラミスの海戦で活躍、と覚えましょう)
このように民衆をデマで扇動するデマゴーゴスの出現によって、オストラシズムは前5c末に終了しました。
全ての市民に参政権が与えられるきっかけとなったペルシャ戦争
クレイステネスの陶片追放によって、市民(貴族と金持ち平民)に参政権が与えられましたが、いまだ貧乏平民には政治への参加権はありませんでした。
だって、お金がないので武器を買えずに戦争に参加できないからです。
ポリス維持のために働くことができない市民には政治への参加権は与えられないのです。
しかし、そんな貧乏平民も戦争に参加せざるをえない機会を得たのがペルシャ戦争(前492年〜前472年)です!
いったい貧乏平民たちはどのような役割で戦争に参加し、参政権を得たのか?戦争の詳しい流れとともに見ていきましょう。
ペルシャ戦争のきっかけ

上の画像は前4cのアケメネス朝ペルシャとギリシャの支配領域です。
ん〜当時のギリシャ人達はペルシャ人たちが目と鼻の先に来ていることにヒヤヒヤしていたことでしょう。
なんといっても、当時の大国エジプトが占領されてしまったのですからね。
そんな小国ギリシャと大国ペルシャがぶつかり合うきっかけとなったのは、ペルシャの支配下にくみされていたギリシャ人たちの反抗でした。

イオニア地方のミレトス地域のギリシャ人たちが、ペルシャ帝国に対し反乱を起こします。場所はトルコの沿岸地域です。
この反乱はすぐに鎮圧されますが、この反乱を起こしたギリシャ人たちを、ギリシャの中の大ポリスアテネが支援していたことを知ったペルシャ帝王ダレイオス1世がギリシャ地域の征服を打ち立てます。
これがペルシャ戦争の始まりです。
当時のペルシャからすれば、ギリシャのような小国に構う必要はあまりないのですが、まぁすぐ征服できるだろうと戦争が始まるのです。
が。。。大方の予想に反し、ギリシャは大健闘することになるのですが・・・。
前490年 マラトンの戦い

最初の大きな戦いは、マラトンの戦いです。
まずは場所を確認しておきましょう。アテネの北東にある沿岸地域ですね。
ここにペルシャ軍2万人が上陸し、対峙するのはアテネ軍9000人とプラタイア他ポリスからの応援が1000人。
アテネ側はペルシャ軍がマラトン地域沿岸に上陸してくることを予測していたため、沿岸での対峙となりました。
う〜ん、数で言えば勝ち目なんて無いですね。ですが、ギリシャ軍の戦略勝ちでペルシャ軍を敗走させます。
ペルシャ軍に勝利した知らせを伝えようとマラトンーアテネ間(約40km)を走り抜けた伝令がアテネに勝利を伝えたとたん息絶えたというのはつくり話ですが、この話がマラソン競技の起源となります。
ですが、この戦いではまだまだペルシャ側は小手調べ。次からの戦いが本気です。
ちなみにアテネ、プラタイア連合軍はスパルタというポリスにも応援を出しましたが、スパルタ軍が到着した頃には全ての戦いは終わってました笑。
前480年 テルモピレーの戦い

さてそんなスパルタ軍の初陣となる、対ペルシャ戦はテルモピレーの戦いです。
対するスパルタ軍他は推定5000超、ペルシャ軍は20万。
これはもうだめですね笑
マラトンの戦いでは、ペルシャ軍は海を通じて兵隊を送り込んできましたが、今回のテルモピレーの戦いではマケドニア側の陸を通じて乗り込んできたのです。
エーゲ海をぐるっと回ってやってきたのですから、ペルシャ側も本気です。
全てのスパルタ軍側の兵は殺され、ペルシャ側の勝利となりました。
こんな軍国スタイルを定めたのが、リュクルゴスという男です。
彼が定めたリュクルゴス制度は軍隊の中心で参政権も持つ完全市民が、ペリオイコイという軍役の義務を負わされるも参政権を持たない不完全市民や、ヘイロータイというただ農業労働をさせられる隷属農民を支配する制度を確立しました。
アテネの民主政とは全く異なりますよね!

ちなみにテルモピレーの戦いでは上記の絵画が非常に有名です。
「テルモピュライのレオニダス」という絵で、ナポレオンの主席画家であったダヴィッドが書き手です。
これはスパルタ王レオニダスがアケメネス朝ペルシャの圧倒的な軍勢にも立ち向かう様を描いたもので、いかにスパルタが昔から勇猛果敢の代表的存在であったかがわかりますよね!
彼らの奮闘があったからこそ、次のサラミスの海戦にてアテネは戦いに備える時間ができ、勝利することができたのでまさにギリシャ世界の英雄です。
前480年 サラミスの海戦

テルモピレーを突破したペルシャ王国は、次々とギリシャの各ポリスを侵略していきます。
ここでギリシャ側で立ち上がったのがテミストクレスという政治家です。彼は非常に戦術家としても優秀で、サラミスの海戦で活躍します。
地元の海流を知り尽くしていたため、勝利を手にしたのです。
さて、この段階でペルシャ側もギリシャ側もボロボロです。もうお互い戦争する気もなくなり、これでペルシャ、ギリシャ間の戦争は集結します。(この後プラタイアの戦いとかありますが・・・まぁいいでしょう)

さてここからが重要!サラミスの海戦で活躍したのが、三段櫂船という軍船を使った戦術です。
この船は他の船よりも推進力がありました。その推進力の源が、上中下三段階にわたって乗っていた無産市民たちです。
彼らがサラミスの海戦で活躍したことで無産市民、つまり財産のない市民たちの発言権が上昇しました。
サラミスの海戦で無産市民の発言権が上昇したことがきっかけで、アテネでの民主政は完成したのです。
ペリクレスがアテネでの民主政治を完成させる
サラミスの海戦に敗北したペルシャ側は戦意喪失しており、ペルシャ残党が戦った前479年のプラタイアの戦いでもアテネ・スパルタ連合軍に敗北します。この戦いで一連のペルシャ戦争は、ギリシャ側の大勝利に終わりました。
ペルシャ戦争は終結したものの、ギリシャ側はペルシャ王国の強大さが身に沁みたため、ペルシャ王国の再侵攻に備えて、ポリス同士まとまらなければならないという気運が高まります。
そこでアテネを中心としてデロス同盟を前478年に結成され、最盛期には200ものポリスが加盟しました。
これを指導したのが、アテネのペリクレスという将軍で、のちにアテネの民主政治を完成させた人物です。
彼は無産市民にも参政権を認めました。
アテネでは民会という行政や司法の最高機関、今でいう国会や裁判所の役割をもつ組織を作り、行政、司法の公平性を確立しようとしました。つまり、貴族や僭主などがめちゃくちゃな裁きを下せないようにしたのです。
ちなみに構成員は18歳以上の青年男性市民です。
こうして、アテネでは民主政、それも直接民主政が確立されました。
現代の国会は、国民の代表者として選挙を通じて、選ばれし国会議員から構成されているので間接民主政ですね
みんな、小学校のころの学級会で、「生活委員会」とか「放送委員会」を手を挙げて決めたよね!
「はい。はい。」って。
それで、先生か誰かが「いち、にい、さん、し……」て数えて多数決にしました。あれが直接民主政。
わかりやすいので上記を引用させていただきます。
ちなみに、女性には参政権はないことと、奴隷制は当たり前のように存在していたことは留意すべきですね。完全に平等な参政権が確立されるのは、本当に近現代になってからなのです。
アテネの民主政までの流れ
今回はすこし長くなってしまったので、簡潔にまとめたいと思います。
背景2 貨幣通貨導入によってギリシャの経済が発展し、お金もちの平民が重装歩兵として戦争に参加できるようになった。
前7c後半 ドラコンがそれまでの貴族なりの法理論を成文化した。
前594年 ソロンの改革によって、財産によって参政権を決める財産政治が始まる。
前561年〜前528年 平民間の格差が産んだペイシストラトスの僭主政治。
前487年 クレイステネスの4部族制の廃止・陶片追放でアテネ民主政の基礎ができる。
前492年〜前472年 ペルシャとの戦争で(特にサラミスの海戦)三段櫂船が活躍し、漕ぎてである無産市民(=貧乏平民)の参政権が向上。
前495年〜前429年 アテネの指導者ペリクレスが民主政を確立させる
こんな感じですかね!
アテネの民主政までの流れから、やっぱり政治に参加することって大切だよなと感じ取れたと思います!