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古代ローマ文明を解説!
さて今回から古代ローマ文明の解説に入ります。
今回の説明はギリシャの身分間闘争の流れと似ている部分があるので、ギリシャのことも思い出しながら読んでみて下さいね。
ローマでの貴族と平民間の身分間闘争
ローマはイタリア中部にある世界でもかなり有名な都市です。
今では経済が衰退してすっかり観光地化&スリの温床となっていますが、2000年前には世界で最も栄えていた地域です!
そんなローマですが、もともとはただの小さな都市国家で、”アテネ”などのギリシャポリス国家よりかなり遅れて発展し始めました。
つまり、大国ペルシャやギリシャからするとかなりの後進国、後発の国家だったのです。
「ローマは一日にして成らず」という格言が有名ですが、実際ローマという1つの国が成立するまでにはかなりの時間がかかりました。そんな建国から統一まで500年以上もかかった、ローマの歴史の導入部分を見ていきましょう!
前509年 ラテン人によって共和政ローマが始まる
前753年にローマはラテン人によって建国されました。しかしすぐにエトルリア人という民族によってローマを支配されます。
しばらくエトルリア人の王による統治が続きましたが、前509年にエトルリア人の王を追放してラテン人による共和政が始まります。
現在の日本やイギリスは王様がいるので君主制。アメリカには、王様はいないので共和政です。
パトリキ(貴族)による、政治権力の独占
初期の共和政ローマでは、パトリキ(貴族)による権力の独占が起きていました。
元老院という国の方針を決める機関(今で言う国会)が存在していたのですが、その構成員はなんと300人ものパトリキ(貴族)たち!(平民は政治には参加できませんでした)
元老院での役職として
・コンスル(執政官):行政・軍事の最高政務官(任期1年、2名)
・ディクタトル(独裁官):国の非常時の際に全権限を委譲され舵をとる独裁官(半年任期、1名)
の2つがありました。
が、戦争などの非常時には独裁官という全ての物事を決めてくれる人がいたほうが事がスムーズに運ぶものですから、ディクタトルという役職も用意されています。
(戦争の時に、独裁者に権力が集まるのはヒトラーやスターリンから明らか)
非常に考えられた組織構成になっているのだから元老院も凄い!
さて一般の元老院議官もコンスルもディクタトルも、全てパトリキ(貴族)から選ばれていました。
これで割を食うのがプレブス(平民)です。
貴族で構成された政治家たちが、平民のためになる政治をするはずがないですからね。平民たちは非常に貧しい生活を送っていました。
ですが、平民たちは商工業の発展のおかげで豊かになり始めます。
裕福になったので新しい武器を手に入れて、重装歩兵として戦争で活躍し始めるようになります。
戦争という国家としての義務に、平民が参加するようになったことで、プレブス(平民)の発言力が高まります。
この辺の流れは、アテネの民主政と同じですね!
具体的にローマでのプレブス(平民)とパトリキ(貴族)間の、身分間闘争の一部始終を見ていきましょう!
前494年 聖山事件
最初にプレブスたちがパトリキに抵抗した事件が前494年の聖山事件です。
プレブス(平民)たちは、自分たちの地位向上のため、ローマ市を飛び出して、ローマ北東部の聖山という山に立て籠もりストライキを起こしたのです。
当時、ローマでは小さな都市国家間での小競り合いや異民族侵入があったため、平民の力も非常に重要な戦力でした。平民たちにローマ市を出ていかれてしまうと、あっという間に侵略されてしまうことを恐れた元老院の貴族たちは、このストライキに屈する他ありませんでした。
そこで元老院は、平民と貴族の身分差を減らす妥協案として、平民会という平民によって構成された平民のための議会を作り、護民官という平民のための役職を2名分用意しました。
護民官の権力はなかなか強く、元老院やコンスル(執政官)の決議に対して拒否権を持っていたというから凄いですよね。
その後も平民の権力は拡大を続けます。
前450年 十二表法が制定
前450年頃、十二表法という12の板に書かれたローマ最古の成文法が制定されます。
この歴史的意義としてはギリシャのドラコンの成文法と同じで、旧来の貴族によるルールが有るようでなかった慣習法を文字で明確に示したことで、貴族のふわっとした俺ルールを失くしたことです。
前367年 リキニウス・セクスティウス法
次に前367年にリキニウス・セクスティウス法が制定されます。
この法は平民の役職である護民官のリキニウスとセクスティウスの2人が制定した法で、役職「コンスル(執政官)」の2名の内、1名を平民から選出するように制定しました。これで、ついに国のトップの片割れを平民が担えるようになったのです!
前287年 ホルテンシウス法
更に前287年にホルテンシウス法が制定されます。
この法律は独裁官であったホルテンシウスが「平民会での決議は元老院の承認がなくとも国法となる」と定めたものです。
これによって平民会の構成員であるプレブス(平民)と元老院の構成員であるパトリキ(貴族)間の政治的平等が達成されたと言えます。これにてローマの身分闘争は終了します。
しかし、平民間で格差が広まったり、財力の違いによる元老院の圧倒的な権力、独裁官の存在から、ギリシャの民会のように貧富の区別なく政治に参加することはできなかったと言えます。
ギリシャの民会という、貴族も平民も貧乏平民も参加権のある1つの組織があってこそ本当の民主化なのです。