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現在まで続く中華人民共和国の歴史
【前回までのあらすじ】(11) 混乱の中華民国
激動の第2次世界大戦を乗り越えた中国は、1946年に共産党と国民党との争いが勃発。
毛沢東側である共産党は、蒋介石ら国民党をついに破り、1949年に毛沢東は中華人民共和国の建国を宣言します。中華民国は混乱続きの歴史でしたが、中華人民共和国においてもその混乱はもうしばらく続きます。
1950年 中ソ友好同盟相互援助条約
<中ソ友好同盟相互援助条約の記念切手>
1950年には毛沢東とスターリンが会談して中ソ友好同盟相互援助条約が結ばれ、日本・アメリカを敵国とみなし、社会主義国の道を行くことが明らかになります。
アメリカは、中華人民共和国を長い間正式に認めず、台湾の中華民国政府を中国としてきました。(両国の国交断裂状態は、1979年の国交正常化まで続きます)
1953年 第一次五カ年計画
ソ連を見習って、中国では5カ年計画を作って、国家の進むべき道を5年ごとに決めていく方針を取ります。第一次五カ年計画は1953年に行われ、工業化と農業の集団化を目指しました。
急激な工業化・農業の集団化は全くうまくいかず、共産党への批判が起きたものの毛沢東はこれを一掃します。
1958年 大躍進運動
社会主義国家を目指して、1958年の第二次五カ年計画では“大躍進運動”と称して、集団農業組織である人民公社を作るなど、さらなる農業の集団化・工業化を推し進めようとしました。
しかし自然災害、人民公社による農民の耕作意欲の減少、中ソ対立によるソ連からの技術提供の停止、共産党幹部による目標数量を追うための虚偽申告に非効率な作業、など様々な要因で大躍進運動は大失敗に終わります。このせいで4500万人もの餓死者が出たと言われています。
この自然法則に逆らったため、農業生産は大打撃を受けています。
1959年 劉少奇が国家主席に
毛沢東は責任を問われてNo.2に退き、1959年には国家主席を劉少奇に譲ります。劉少奇は、毛沢東の経済政策の失敗を反省し、資本主義の考え方を取り入れようとします。
1960年代 中ソ対立の明確化
<毛沢東とフルシチョフ>
この頃、同盟を結んだはずの中国とソ連は互いの考え方が合わずに、対立し始めるようになります。1956年のフルシチョフによるスターリン批判は、西側諸国と平和共存路線を取っているとして、中国側と亀裂が走ります。
1960年代には両国ともに非難し合うようになり、中ソ対立が明確化して軍事衝突も起きるようになります。
1966年 プロレタリア文化大革命
1966年、毛沢東は権力の回復のために、劉少奇らを西洋諸国に取り入ろうとしていると批難し、共産主義を理想とするプロレタリア文化大革命という新しい革命運動を起こします。
これに呼応したのが若い世代でした。共産主義を理想と信じ込み、知識人である教師らをリンチする事件も起きました。劉少奇もリンチ被害にあい、心も体もボロボロになり衰弱死します。
1976年に毛沢東が死去すると、1977年には文化大革命は正式に終了宣言されました。この約10年間は、中国の社会的混乱期です。
1981年 鄧小平らによる四つの現代化
<資本主義へと舵をきる中国を揶揄した画像>
1981年には鄧小平を中心とする新指導部は、毛沢東の文化大革命を一応は讃えつつも、あらたに改革開放路線を取って、「四つの現代化」をスローガンに農業・工業・国防・科学技術に力をいれていきます。
この改革開放路線において、中国は市場経済、つまり資本主義にもとづいた経済政策へと変化していきます。
されど社会主義国家を名乗っていることは、現在も変わっていません。
また経済の現代化を進めていく一方で、政治については共産党による一党独裁体制を貫いたままで、政治の民主化については進まず、国民の不満を残したままでした。
1989年 天安門事件
<天安門広場にて対峙する、学生デモ隊と警察>
1980年代、共産党による一党独裁体制を見直そうとした改革派、胡耀邦が解任されて中国の政治の民主化は絶望的になります。
胡耀邦が病死した後、追悼のため天安門に集まった多くの北京の学生や知識人たちは、彼が成し遂げられなかった政治の民主化を叫び、次第に暴動化していきます。
<あまりにも有名な、戦車に抵抗する無名の男。映像はこちら>
暴徒鎮圧のためと、中国軍隊も出動して戦車まで出動する騒ぎとなります。これが天安門事件です。
中国政府は当初死者0であると報道しましたが、実際は多くの人々が殺されました。
1997年 イギリスから香港の返還
アヘン戦争後の1842年の南京条約でイギリスに割譲された香港島は、1997年に中国に返還されました。
太平洋戦争中は日本軍に占領されていたものの、戦後すぐにイギリスの領土となっていたものが20世紀末についに返還されました。
1999年 ポルトガルからマカオの返還
1557年の明の時代からポルトガル人の居住が認められたマカオは、19世紀末の列強の中国分割の流れに乗ってポルトガルに正式に割譲されます。
イギリスの香港返還の流れに乗って、ポルトガルもマカオを中国へと返還しました。
現在の中国の抱える問題点とは
最後に、現在の中華人民共和国が抱えている問題を歴史的に振り返りながらまとめておきたいと思います。
別にテストに出るわけではないですが、今のニュースを理解する役に立つかと思います。
民族独立運動を抑える中国
現在の中華人民共和国には5つの自治区があります。新疆ウイグル自治区、内モンゴル自治区、チベット自治区、広西チワン族自治区、寧夏回族自治区、の5つです。
中国は91%を占める漢民族以外に、9%の55の少数民族を抱えているとされており、その中でも代表的な5族には自治区が与えられて統治されています。
この中でも特に激しく民族独立運動を行っているのが、新疆ウイグル自治区のウイグル人たちと、チベット自治区のチベット人たちです。どちらもイスラム教と、チベット仏教を深く信仰している民族であるがゆえに、中国政府への抵抗活動はとても激しいです。
ウイグル人の現在までの歴史
<ウイグル人の独立運動に使われる東トルキスタンの旗>
トルコ系ウイグル人は840年にキルギスに滅ぼされて以来の登場かと思います。国は滅ぼされたものの、逃げ延びたウイグル人たちの一部は現在の新疆ウイグル自治区のタリム盆地にて西ウイグル王国を建国します。
この地域は東トルキスタンと呼ばれ、他のトルコ系民族がイスラム化していく流れの中で、ウイグル人たちもイスラム教を信仰するようになります。
その後西ウイグル王国は、遼・モンゴル帝国の支配下に置かれて消滅します。そして、清の乾隆帝の時代に征服されて、新疆という藩部の中に組み込まれます。
その流れで現在は新疆ウイグル自治区へと続いています。(現在の新疆ウイグル自治区はカザフスタンやキルギスの東側に位置します)
中国がこの地域を手放したくない一番の理由は、天然資源である石油や天然ガスが豊富に採掘できるからです。なんとどちらの資源も、中国の採掘量の3割を新疆ウイグル自治区が占めているようです。
ウイグル人たちは”東トルキスタン”という名で独立しようと運動を今でも続けており、2008, 9年には大規模な暴動も起きています。今でも中国により民族独立を弾圧する動きは続いているのです。
チベット人の現在までの歴史
<歴代のダライ・ラマの居城、ポタラ宮殿>
5世紀にチベット高原にて建国されたチベット王国(吐蕃)は、7世紀のソンツェン・ガンポの時代に強大になります。
そして7世紀以降チベット仏教がうまれてこの地に根付き、元のフビライ・ハンがチベット仏教を保護したこともあり現在のモンゴルでもチベット仏教が信仰されています。
チベット仏教の最高指導者はダライ・ラマと呼ばれ、代々が宗教の最高指導者であるとともに、政治の最高指導者としても君臨してきました。
清の雍正帝の時代には藩部の中に組み込まれてしまい、1949年の中華人民共和国は建国にあたってチベット自治権を継承すると宣言しました。
これに反対したチベットのダライ・ラマ14世を中心とした勢力は、1959年にチベット反乱を起こしますが鎮圧されます。このときにダライ・ラマ14世はインドへと亡命し、インド政府はダライ・ラマ側を支持。
1962年には中印国境紛争にまで発展しますが、中国側の勝利に終わります。現在でもダライ・ラマ14世は、チベットへと入ることができずにいます。
共産党による一党独裁体制はいつまで続くのか
社会主義から資本主義寄りの政策をとって、工業化に成功し、今や世界2位の経済大国となった中国ですが、未だに政治だけは民主化することなく続いています。
天安門事件で学生たちが求めた政治の民主化は未だ実現することなく、いつまで共産党による一党独裁体制が続くのかが注目されています。