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1912-49年 混乱の中華民国の歴史
【前回までのあらすじ】(10) 清の歴史[後半]
17世紀から続く清朝も、1911年の辛亥革命によって滅亡します。
中華民国を建国した孫文は、宣統帝の退位と共和制の実施を条件に、臨時大総統の位を袁世凱へと譲ります。しかし袁世凱は、自分が皇帝になる野望を秘めた男でした・・・。最初から最後まで、中華民国はWW1, 2という時代背景もあり、混乱期が続きます。
1912-16年 袁世凱の混乱期
袁世凱が中華民国の臨時大総統に就くも、共和制ではなく皇帝独裁を画策しようとします。しかし、孫文が結成した国民党の抵抗活動によって失敗します。
結果として1916年に袁世凱は帝政復活を遂げられずに死去します。以降、軍閥が各地で乱立して北京政府の実権を取り合う混乱が続きます。
1914年 WW1後の日本の中国侵攻開始
袁世凱の治世の最中、1914年に第一次世界大戦が勃発します。
中華民国は、これに対して中立の立場をとって一切介入しませんでしたが、ヨーロッパ諸国の意識が自国の戦争に向いているのをチャンスと見た日本は、中国への侵攻を強めます。
日英同盟を結んでいる日本は、イギリスの敵国であるドイツに宣戦布告。ドイツが19世紀末に獲得した膠州湾などの山東地方を占有しました。
1915年 袁世凱が二十一カ条の要求を承認
1915年、日本は占有したドイツ利権地方の継承などを含んだ、二十一カ条の要求を袁世凱政権に突きつけます。
袁世凱政権は、この要求を最初は受け入れられないと欧米諸国に助けを求めます。しかし彼らはWW1で手一杯、袁世凱もまた中華民国を建国したばかりで、国民党との対立もまとまっていない状態。そんな中で日本軍と戦っている場合ではないと、この要求を飲みます。
これに中国国民は袁世凱は領土を日本に売ったと、激怒します。
1919年 ナショナリズムの高まる 五・四運動
WW1戦後処理が行われた1919年のパリ講和会議にて、中国は日本の二十一カ条の要求の棄却や、ドイツ利権であった山東省地域の返還を求めましたが、欧米諸国に無視されてしまいます。
これに声高に抗議したのが、北京大学の学生たちでした。「山東省は孔子の産まれた聖地であり、我々中国人の土地である!」と中国人のナショナリズムが高揚し、ここから排日運動/反帝国主義が過激化しました。これを五・四運動といいます。
五・四運動を受けて、中国政府もパリ講和会議後のヴェルサイユ条約の調印を拒否しました。しかしこの時点では、国際的にヴェルサイユ条約にて、山東地方は日本のものと認められました。
1921年 九カ国条約による山東地方の返還
日本の山東地方の領有を危惧したのが、当時かなり力をつけていたアメリカでした。
WW1後、太平洋地域で日本が領土を拡大したことを嫌ったアメリカは、1921年に開かれたワシントン会議にて、中国の主権尊重・領土保全をスローガンに、日本に山東地方を返還するように求めて、九カ国条約が結ばれました。
中国知識人層による文学革命
中華民国建国後、袁世凱vs国民党の政治抗争が起きたり、軍閥が分立したり、あげく二十一カ条の要求を飲まされたりと、国民の中華民国政府への不満は最高潮に来ていました。
そんな中、中国の腐敗の理由を旧態然とした思想に求めた知識人層たちの啓蒙活動を文学革命と呼びます。
陳独秀による雑誌「新青年」の発行
1915年、陳独秀は自身が発行した雑誌「新青年」にて、儒教批判を行いました。
中国は2000年にも渡って、科挙で四書五経を丸暗記させるなど、儒教思想に囚われ続けてきました。
しかし陳独秀は、儒教とは古典であり、中国皇帝を支える思想であり、近代国家を支える思想とは言えないと儒教批判を行います。
儒教の代わりに、現代に生きる中国人は「科学と民主」といった西洋思想を取り入れて、中国は思想から変わっていくべきだと主張しました。
この「新青年」という雑誌には、胡適、魯迅に毛沢東まで多くの中国知識人層が寄稿して文学革命に大きな影響を与えました。
胡適 ”白話文学”の提唱
例えば、胡適は新青年にて、白話文学を提唱しました。これまでの中国の書き言葉は、古典的で堅苦しい文章が良いものとされてきましたが、胡適はこれを批判し、よりやさしい話し言葉に似た白話で文章を書くことを推し進めました。
魯迅の白話文学 「狂人日記」「阿Q正伝」
白話文学の代表格として魯迅の「狂人日記」や「阿Q正伝」などが有名です。
陳独秀のマルクス主義への傾倒
文学革命は、現在でも中国のtop大学である北京大学で行われました。
当初は古典・儒教批判が中心だった「新青年」ですが、1917年のロシア革命の成功に伴い、陳独秀が次第にマルクス主義に傾倒していったため、マルクス主義を紹介する雑誌へと変化していきます。
古き儒学思想を非とした陳独秀が、新しき革命思想として求めたのが共産主義だったのです。ここから現代の中国共産党まで続く歴史が始まります。
中国共産党と、中国国民党と、ときどき軍閥
袁世凱が死去した後の中華民国では、孫文率いる中国国民党、陳独秀らが率いる中国共産党、そして各地で乱立していた軍閥たちが登場します。
この3者が時に手を組み、ときに裏切り、の歴史が繰り広げられたのが1920〜30年代です。
1921年 陳独秀らによる中国共産党の結成
1919年には共産主義による革命真っ只中のソビエトが、中国に対してカラ・ハン宣言を出します。内容は帝政ロシア時代に占有していた中国領土を返還するというものでした。当時、反帝国主義が興隆していた中国国民はこの宣言を大歓迎しました。
中国国民が親・共産主義に傾いたところで、1921年には陳独秀が中国共産党を結成します。
1924年 第一次国共合作
一方、かつて袁世凱政権と対立していた孫文は、1919年に中国国民党を結成して革命運動を行っていました。孫文は五・四運動を見て、民衆の力によって革命をなすべきだと考えました。そしてその民衆の力をうまく使って革命をなしたロシア革命を手本としたのです。
孫文はソ連の援助を受け入れて、中国共産党と連携して動いていくことを決めます。これが1924年の第一次国共合作です。スローガンは「連ソ・容共・扶助工農」です。(要はソ連と連携、共産主義容認、一般民衆である労働者・農民を助ける、ということです)
さしあたっての目標は、諸外国から支援を受けている軍閥・帝国主義の打倒でした。
1926〜28年 蒋介石による北伐
孫文の死後、国民党を指導したのが蒋介石です。蒋介石は、1926年に本格的に北京の軍閥を倒すために、軍事行動を開始します。これを北伐といいます。蒋介石は、次々と軍閥を撃破して広州から武漢、南京まで北上しました。
1927年 上海クーデター
蒋介石は、共産党嫌いであったと言われています。孫文亡き今、もはや共産党と共闘する必要性はないと判断して、1927年に上海クーデターと呼ばれる、共産党勢力を多数殺害/排除を行いました。これによって第一次国共合作は瓦解して、国共分裂となります。
共産党を排除した蒋介石は、1927年に南京に国民政府を樹立して、北伐を再開します。1928年、ついに北京まで迫った蒋介石は、日本軍が支援していた奉天軍閥の張作霖を北京から追い払い、無血開城しました。
1928年 関東軍による張作霖爆殺事件
張作霖が北京から逃げようとした先は、奉天軍閥が支配する東北の満州地方でした。そこで待ち構えたのが日本の関東軍です。1928年、関東軍は張作霖が乗る列車を爆破して暗殺してしまいました。これは関東軍の独断で、奉天軍閥のトップがいなくなれば、満州地方を日本軍が支配できるだろうという甘い見込みの元、行われました。これを張作霖爆殺事件といいます。
張作霖の息子である張学良は、日本側との連携を断り、蒋介石の南京国民政府に従うことを明らかにしました。関東軍の張作霖爆殺は、全くの無意味に終わります。
こうして1928年に蒋介石の国民政府による北伐は完了し、中国統一が達成されます。
軍閥を掌握した蒋介石の次なる狙いは、共産党勢力でした。この活動を支援したのが、共産党勢力の台頭を嫌った西欧諸国や、上海の金融資本家である浙江財閥たちです。
国共分裂後の共産党勢力
国民党軍に追われる側となった中国共産党勢力は、上海クーデター以降、毛沢東ら一部は農村地域へと逃げました。そこで毛沢東は、貧しい農民の支持を得ることを重要視しました。地主の土地を取り上げて、各農民に再分配する土地改革を行ったのです。
こうして農民支持基盤を広げ、1931年に毛沢東は江西省の瑞金にて中華ソヴィエト共和国臨時政府を設立します。
1930年代 日本軍が満州支配を拡大
1931年 満州事変
1931年に、関東軍は東北地方の柳条湖にて南満州鉄道を爆破しました。これを張学良軍が起こしたと主張して、中国軍と交戦して東北地方を占領してしまいます。これが満州事変です。
満州事変は、関東軍の戦闘口実のための自作自演だと国際批判を浴びて、国際連盟はリットン調査団を派遣し、この事件の本格調査に乗り出します。
1932年 満州国の建国
<満州国の建国式。トップに据えられた溥儀>
関東軍は、リットン調査団の報告結果が発表されるよりも前に既成事実を作ろうと、1932年には満州国を建国します。もちろん関東軍の傀儡政権ですが、担ぎ上げたのは清朝の最後の皇帝であった溥儀(宣統帝)でした。
溥儀はかねてより、清朝の再興を胸に秘めていたため、関東軍からの申し出を受けました。
かつての清朝の発祥の地でもある東北地方の支配者が、かつての清皇帝である溥儀ならば、西欧諸国から国家の正当性も認められるだろうという関東軍の目論見がありました。
1933年 日本の国際連盟の脱退
<日本の国際連盟の脱退を称える新聞>
リットン調査団の報告書では、日本の満州事変を侵略行為として、国際連盟も満州国を一切認めませんでした。これを受けて、1933年に日本は国際連盟を脱退します。
1934-36年 蒋介石による中国共産党への攻撃
<長征の瑞金から延安へのルート>
日本は以降、満州地方では足らず、さらに北京を含む華北地域への侵攻を進めようとします。
しかし蒋介石の国民政府は、日本軍の東北地方への侵攻については、基本的に関与しない方針を取りました。実質的には、満州国を認めて東北地方は切り捨てました。
蒋介石は対外勢力よりも、まずは内部の共産党勢力を一掃することを優先したかったからです。
蒋介石は、瑞金を首都とした中国共産党勢力を攻撃。蒋介石軍から逃げるように、共産党残存勢力は1934-36年にかけて瑞金から延安へと1万kmもの距離を徒歩で大移動しました。これを長征といいます。
この長征の間、毛沢東は共産党内で実権を握り、軍部の最高指導者へと上りつめます。
1935年 中国共産党による八・一宣言
満州事変以降、何も日本軍に抵抗しない蒋介石の国民政府に苛立つ民衆は、全国的に抗日運動を起こしました。中国共産党も1935年に八・一宣言を出して、今すぐ内戦(国民政府vs共産党)を辞めて、日本軍を討つべく抗日民族統一戦線の結成を呼びかけました。
1936年 張学良による西安事件
蒋介石はこれを無視していましたが、1936年に張学良が動きます。かつての東北地方を日本軍に奪われている張学良は、蒋介石を軟禁して内戦を辞めて共産党とともに、日本軍と戦うよう説得します。これが西安事件です。
これを受けて、蒋介石は共産党との内戦を停止して、抗日戦線をしくことを決意します。
1937-45年 日中戦争
国民党と共産党が連携して、正式に日本軍と戦うきっかけとなったのが盧溝橋事件です。
1937年に北京郊外で日本軍が軍事演習を行っていた最中に、中国兵が発泡してきました。これを受けて、日本と中国の両軍が軍事衝突します。
ここでの軍事衝突の後、蒋介石は第二次国共合作を成立させて、日本軍との徹底抗戦を発表します。これらを受けて、1937-45年まで続く日中戦争が始まります。
有名なのは1937年に起きた、南京虐殺事件。何人が殺されたのかというのは非常に不明瞭ですが、日本軍が民間人などに虐殺を行い、国際批判を浴びた事件です。
日中戦争は当初日本軍が優勢だったものの、持久戦に持ち込まれて戦いは長期化/泥沼化します。
1945年8月、ポツダム宣言を受けて、日中戦争も終了します。
WW2戦後の国共分裂
<毛沢東による、中華人民共和国の建国宣言>
中国は戦後、国際連合の5大国の一角として認められますが、WW2終了直後の1946年に国民党と共産党は再び衝突します。1949年に国民党は共産党軍に連敗して、共産党側の勝利に終わります。
国民党を率いた蒋介石は、台湾へと逃れてここで中華民国政府を現在まで維持しています。
国民党と戦いに勝利した共産党側の毛沢東は、1949年に中華人民共和国の成立を宣言します。