北方民族に悩まされ続けた宋の時代
907年に唐が滅亡して、中国は五代十国という戦乱の時代へと突入しました。
960年に宋が五代十国時代を終わらせて中国を統一している中、北方では、遼や西夏などの異民族国家が力をつけていました。宋の時代は、この北方民族たちからの侵攻に常に頭を悩まされる時代となります。
907-960年 五代十国時代
五代十国時代は、唐末の時代に力を持っていた節度使が自立しあって、互いに争った戦乱の世です。唐を滅ぼしたのも節度使の朱全忠でした。
この戦乱の中、中国の貴族文化は完全に没落します。貴族に代わって戦争で荒れ果てた土地を回収していったのが、新興地主層である形勢戸です。
形勢戸は佃戸という小作人に土地を貸し与えて、そのわけまえで生活してました。
この形勢戸たちは、宋の時代においても地主として栄え続けました。お金があるので、形勢戸たちは科挙の勉強をして合格し、宋の官吏になる人間も大勢おり宋の時代の支配者階級となっていきます。官吏となった知識人である形勢戸たちを、士大夫と呼びます。
960-1127年 宋(北宋) 都:開封
五代十国時代を終わらせたのは、後周の将軍、趙匡胤です。907-960年まで50年ちかくも続いた戦乱を終わら中国を統一した、中国でも屈指の名君と言われています。
宋の時代には五代十国時代のような武力で統治をなすのではなく、「知識人である文人官僚によって統治されるべき」という文治主義をとりました。五代十国時代に地方で力を持って乱立状態になった節度使の役職を徐々に文官に変えさせて、力を奪っていき中央集権化をはかりました。
このように宋の時代には文官が重用されたため、文官になる手段である科挙での受験勉強戦争も過激化していきました。勉強をするにもお金はかかるので、新興地主層である形勢戸たちが文官になり政治の力を持つようになります。
北方民族たちの侵攻
前回の記事でも説明したとおり、宋の北方では契丹人の遼やタングート族の西夏らが度々侵攻してきました。
1004年に遼と澶淵の盟、1044年に西夏と慶暦の和約を結び、毎年銀と絹布を彼らに納めることでなんとか侵攻を防いでいる状態です。次第に金策を練らねばならないほど、国家経営は火の車になります。
1070年〜 王安石(宰相)の改革
北方民族による侵攻により、国家経営が逼迫したため11世紀後半には王安石という宰相によって政治改革が行われました。
青苗法、市易法、均輸法、募役法、保甲法などさまざまな法律を制定していきました。どれも財政難の解消と富国強兵を目指した法律でした。
ただ急激な改革とは常にうまくいかないもの。王安石という改革の旗振り役が亡くなると、王安石の法律を支持するか/しないかで官僚たちの考えは割れました。王安石を支持する新法党と、王安石の改革に反対した保守派である旧法党です。
1126-27年 靖康の変(北宋の滅亡)
宋内部で、政治がゴタゴタしている中、北方では遼に代わって新たな民族が急激に力をつけ始めます。ツングース系女真族の国、金です。
すぐに宋は金と手を組んで、長年の敵であった遼を滅ぼします。よかったよかったと安心するもつかの間、すぐに金によって華北地域を侵攻され、ついには占領されてしまいます。
さらに都の開封は陥落し、皇帝を捕らえられてしまい(靖康の変)、宋は滅亡します。
1127年−1276年 南宋の建国
<岳飛のお墓にある秦檜夫妻の像。かつては唾や痰を吐かれていたほど嫌われていた>
靖康の変により宋は滅びましたが、宋の皇族の1人が南方地域の江南に逃げて、そこで南宋を建国します。宋は華北地域を捨て、なんとか南方にて権力を維持しました。
さて華北を占領された南宋は、金と戦うのか戦わないのかで揉めます。主戦派を主導したのは岳飛、和平派を主導したのは秦檜です。
和平派の秦檜が主戦派の岳飛を毒で暗殺して和平派の声が強くなったため、宋は金に対して毎年銀と絹を送ることで和議が成立します。
(長らく秦檜は売国奴、岳飛は女真族と戦おうとした英雄と中国で見なされてきましたが、現在では秦檜の妥協案も評価されつつあります)
金/南宋の構図は13世紀まで続きますが、モンゴル帝国の興隆により次々と駆逐されていくこととなります。
宋時代の商工業の発展
<宋の町並みを描いた絵巻。街の経済が活気づいているのがわかる>
基本的に唐の時代まで経済活動については、政府が大きく制限をかけていました。例えば長安の東西の市以外では経済活動を行うことができませんでした。
ですが宋の時代には、商店や料理屋など時間、場所など自由に経済活動を行うことができるようになりました。
唐の時代に経済活動が行われていた市から少し外れた所に人々が集まり、宋の時代にはそこでの経済活動が活発化します。こうして経済発展した市の外の場所を、草市と呼びます。他にもかつての節度使の駐屯場所であった鎮も宋時代に経済発展した場所として有名です。
また貨幣制度も進化しました。それまでは硬貨での決済が一般的であった中、交子という紙幣を世界初で導入します。製紙法を生み出した中国ならではだなと感じます。(交子は北宋で使われた通貨で、南宋では会子が使われました。)
自由な商工業が発展すると、同業組合が産まれます。人間は誰だって自分の仲間だけ儲かりたいと思うものです。同じ業種の仲間で手を組み、お互いの利益を守るのが同業組合です。
商人たちの組合を行、手工業者たちの組合を作と呼びます。
宋の時代は工業も発達し、特に景徳鎮という場所は、陶磁器の製造で非常に有名になりました。宋の時代の時期は、白色でシンプルなのが特徴です。
南宋の時代には、江南に移ったため、江南での農業地帯の開発が進みました。特に長江下流域にて田園開発が進み、さらに日照りに強い占城米がベトナムからもたらされ、「江浙熟すれば天下足る」と称されるほどでした。
宋時代の文化史(美術)
宋時代の文化の担い手は、形勢戸として経済力を大きく発展させ、さらに官吏になった士大夫と呼ばれた知識人官僚たちです。
徽宗 ”院体画”
宋の時代の絵で覚えておくべきは、院体画と文人画の2つです。
院体画とは、中国宮廷での絵を書く専門機関で発達した画風のことです。主に鳥と花を描いた、写実的な美術です。
上の画像は、宋の皇帝である徽宗によって描かれた絵です。「桃鳩図」といいます。
士大夫層による”文人画”
<67億円で落札された蘇軾の文人画>
宮廷画風である院体画に対して、文人官僚たちである士大夫層による画風を文人画と言います。
文豪である蘇軾などが描いた水墨画などが有名です。
宋時代の文化史(文学)
欧陽脩, 蘇軾 ”古文復興運動”
唐の韓愈, 柳宗元が起こした漢代の自由な文章を書こうという古文復興運動は、宋の欧陽脩や蘇軾にも引き継がれました。
宋学(朱子学)の形成
これまでの注釈を加えるだけの学問であった儒学に、気と理という宇宙観を加えたのが宋学です。
創始者は周敦頤ですが、大成させたのは朱子であるため朱子学とも呼ばれます。
これまでは『易経』・『書経』・『詩経』・『礼記』・『春秋』の五経を儒学の基本書物としてきましたが、朱子は加えて『大学』・『中庸』・『論語』・『孟子』の四書を基本書物に加えました。
総称して、四書五経を儒学の基本書物を指すようになります。
朱子学の基本理念は性即理です。ざっくり言うと、人間の本質は、仁、義、礼、知、信の五常にあり、情動(感情や欲望)にまどわされてはならない、ということです。
朱子学は、宋以降、中国の主要な学問になっていきます。
陸九淵 ”心即理”
12世紀後半の、朱子学と同時代の儒学者であり、朱子の論争相手でした。
朱子学が性即理を唱えたのに対し、陸九淵は心即理を唱えました。考え方としては、人間の本質も情動も簡単に切り離して考えることはできない!って主張したってこと。
でも朱子学が主流の学問となっていく中で、陸九淵の説は忘れ去られていきます。が、16世紀の明の時に王陽明が陸九淵の考え方を受け継ぎ広めていきます。
司馬光 「資治通鑑」
戦国時代から五代十国時代までの歴史を、編年体形式で記した司馬光の歴史書が「資治通鑑」です。
前漢の司馬遷の「史記」が物語調の紀伝体であるのに対して、編年体は歴史が起きた年代順に物事を列挙していく方式のことです。
宋時代の文化史(宗教)
士大夫層での禅宗の流行
宋の士大夫層の間では、仏教の一派である禅宗が流行しました。
“座禅”の禅ですね。禅宗の祖は6世紀の、達磨というインドから中国に渡った僧侶です。
金での全真教の興隆
女真族の国である金にて流行したのが、全真教という宗教です。儒教, 仏教, 道教という中国主流宗教を調和した宗教です。
主流としては道教の一派とされています。
宋時代の文化史(発明品)
宋の時代には、革新的な技術である羅針盤・火薬・木版印刷が発明され3大発明と称されます。
羅針盤によって、人々は方角の位置を正確に知ることができるようになりました。この技術がイスラム→西欧社会へと広がり、大航海時代へと繋がります。
火薬によって、人々は炎を武器として使いやすくするようになりました。13世紀の元の時代には火薬を使った戦い方が当たり前となり、元の日本遠征の際にも火薬武器が使われました。
木版印刷によって、書物の大量印刷が可能となりました。こうして過去の人々が記した思想・学問を広く知らしめることができるようになります。
木版印刷は11世紀の宋にて発明されましたが、西欧で印刷技術が発達したのは15世紀のグーテンベルクからです。
宋代の三大発明に加えて、後漢時代からの製紙法を加えて四大発明と呼ぶこともあります。