10分でわかる世界史Bの流れ!近現代ヨーロッパ(3)〜ファシズムの台頭〜

世界恐慌によって崩れゆくヴェルサイユ体制

【前回までのあらすじ】(2)第一次世界大戦

第一次世界大戦が終了し、敗戦国のドイツではヴェルサイユ条約にて多額の賠償金を課せられます。賠償金、1320億金マルクは、現在の日本円で約200兆円とも試算されていて、ドイツが返せるわけがない天文学的数字でした。

そんなドイツ国民の不安を払拭して一気に権力を掌握したのがヒトラーだったのです。ヒトラーは世界恐慌で社会不安が起きると、一気に権力を掌握して独裁体制を強めて第二次世界大戦の準備を始めます。

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ルール占領によるハイパーインフレの発生

ドイツ共和国に課せられた1320億金マルクというとても払いきれない賠償金。当然毎年の支払いができるわけもなく、1922年には支払いが滞ります。

ドイツの賠償金支払い不履行を理由に、フランスはドイツの炭鉱地帯であるルールを占領しました。しかしルール地方はドイツの工業の中心地帯です。ドイツ政府はルールの労働者にストライキを推奨してフランスに対して抵抗活動をさせたので、ドイツ工業の生産能力は極度に低下しました。

ドイツ政府はストライキをしてくれた労働者に給料を払い続けたものの、労働生産能力は落ちているのでドイツはモノ不足。金は流通してるのに、モノがないということでハイパーインフレーションが起きます。たった1年間でお金の価値が16億倍になったのです。(昨日まで100円のパンが1600億円になってるんだから恐ろしいです)

ドイツ首相のシュトレーゼマンはインフレを終わらせるためにレンテンマルクという臨時通貨を発行します。レンテンマルクはドイツの土地を担保に1兆マルク=1レンテンマルクと交換できました。人々はすぐに価値が変わるマルクを信用しておらず、政府が土地を担保に発行したレンテンマルクにすぐに飛びつきました。

こうしてドイツはハイパーインフレを奇跡的に乗り越えます。

さてハイパーインフレの原因となったドイツ賠償金問題は国際的に議論され、1924年アメリカのドーズ案を受けて賠償金支払い額を当面少なくしました。フランスはドイツから土地占領によってお金を得ようとしましたが、アメリカはドイツを経済支援することで結果的にお金を得ようとしました。この案が受け入れられたことでフランスはルール地方から撤退します。

世界恐慌とファシズムの台頭

ドイツのハイパーインフレが終わり、1920年代のヨーロッパはなんとか安定期となったのです。

しかしこれに困ったのはアメリカです。戦争で疲弊したヨーロッパ地域は、アメリカからのモノの輸入に頼ってきましたが、ヨーロッパの景気も復興してきたため、モノあまりの状態になってしまいました。モノが売れない会社の株は誰も持ちたくないので、1929年に暗黒の木曜日、世界恐慌がやってきます。

ニューヨーク株式取引所にて株価は大暴落を起こします。当時のアメリカは世界一の経済大国です。その大国の経済が崩壊したので連鎖的に、アメリカと関わりの深い国の経済も暴落していきます。最も影響を受けたのはドイツです。ドーズ案以降、ドイツはアメリカからの金融支援で成り立ってきたので、それが打ち切られて一気に不景気になります。他ヨーロッパ諸国も同様です。

これが世界恐慌です。

世界恐慌に対する各国の反応

アメリカの世界恐慌対策

世界恐慌の中心地アメリカでは、1932年からフランクリン・ローズベルトが大統領になり、ニューディール政策という経済復興政策を行います。簡単に言うと、政府が経済をコントロールしようとしました。

政府が農業生産量をコントロールしようとしたAAAであったり、テネシー川流域開発公社(TVA)を立ち上げて公共事業を推進して失業者を減らそうとしました。

あまり成果を上げたとされていない政策ですが、底力のあるアメリカは段々と経済復興していきます。

イギリス・フランスの対応

イギリスでは、1932年にオタワ連邦会議を開いて、イギリス連邦内(海外植民地含む)の間での関税を大幅に下げて、自分たちの連邦以外の国に対しては高い関税をかけることにしました。

世界中が不況なので輸出産業は全く成り立たないので、イギリス連邦内だけで経済を完結させることにしたのです。自由貿易主義から、保護貿易主義への転換です。これをブロック経済といいます。自分たちの国・植民地以外をブロックするからブロック経済。イギリスのブロック経済体制を、ポンド=ブロックといいます。

フランスもフラン=ブロック、アメリカもドル=ブロックを行います。自分たちの市場を確保したイギリス・フランス・アメリカは「持てる国」として、経済を復活させていきます。

ドイツ・イタリア・日本の対応

一方で、「持たざる国」となったのがドイツ・イタリア・日本です。特にドイツは世界恐慌の影響を2番目に受けた国でした。

植民地を奪われ、国内市場も復興していないドイツでは1930年から社会不安に晒され、国民は自分たちの不遇をヴェルサイユ体制にぶつけます。海外植民地の放棄、高額過ぎる賠償金。

そんな人々の不満を代弁して気持ちをスッキリさせてくれたのがヒトラーでした。

ファシズムとは何か

「持たざる国」ドイツ・イタリア・日本では、ファシズムという独裁者が議会政治を否定して、強力な権力を持ち国家運営をする政治体制が出現し始めます。

ファシズム始まりの国は世界恐慌前のイタリアでした。イタリアは第一次世界大戦の戦勝国となったものの、ヴェルサイユ体制では何の領土拡大も果たすことができず、経済は停滞したままでした。イタリア政府に不満を強めた国民は、北イタリア労働者を中心に大規模なストライキが起こります。彼らはロシア革命のような革命を目指したものの失敗します。

革命を恐れた資本家たち中間富裕層らは、社会主義革命を抑えてくれる強力な権力者を求めました。

それがムッソリーニです。ムッソリーニが組織したファシスト党は、革命を目指す労働者らを暴力にて鎮圧して、中間富裕層の支持を得ます。

ムッソリーニは政権を獲得しようと、ファシスト党の武装私兵ら4万人がローマ進軍を実行し、強力な権力を国王・内閣に見せつけようとデモを起こします。

当初は正規軍に鎮圧されそうになりますが、イタリア国王がムッソリーニを認めて首相に命じます。首相となったムッソリーニは、1926年に権力をファシスト党に集中させる一党独裁体制を確立して、独裁者として政治を進めていきます。

このように暴力的に権力を奪取して独裁を敷くやり方をファシズムと呼びます。

ムッソリーニはその強い権力から、1870年のイタリア統一から続いてきたイタリア政府のローマ教皇との確執問題を解決しようと、1929年ラテラン条約でローマ教皇との和解を実現して、ローマ教皇領ヴァチカン市国の独立を認めます。

イタリアは世界恐慌に陥る前のWW1直後から不景気が続いていたので、ファシズムが生まれた時代が早かったのかもしれません。ドイツ・日本でのファシズムの台頭は1929年の世界恐慌後です。

ナチス・ドイツの台頭

世界恐慌の影響を強く受け、経済が大混乱を起こしたドイツでは国民の多くが失業して社会不安が煽られました。自分たちの不遇の原因は何なのか?

その答えを明快に語ってくれたのがナチ党ヒトラーでした。最初は有象無象の右翼政党の1つでしかなかったナチ党も、ドイツ国民の社会不満が高まるに連れて、ヒトラーの巧みな演説と宣伝活動によってナチ党に熱狂する人々が増えてきました。

その思想は、反ユダヤ人、ヴェルサイユ体制の打倒、反共産主義でした。
ドイツ国民らが職を失ったのは、ユダヤ人のせい。ドイツの経済が低迷しているのは賠償金を決めたヴェルサイユ体制のせい。ドイツ経済が脅かされそうなのは共産主義のせい。

多くのドイツ国民から支持を得たヒトラーは、1932年の選挙にてナチ党を第一党にし、1933年には首相に任命されます。同年ヒトラーは全権委任法という、法律を定める立法権をすべてヒトラー内閣に移す法律でした。またナチ党以外の政党を解散させて、一党独裁体制を完成させます。ヒトラー独裁者の誕生です。

基本的人権、市民の自由、労働組合、思想表現の自由はすべて停止されて、秘密警察・親衛隊らによって監視される社会になってしまいました。そのため多くの人々が海外へと亡命します。

しかしこの時ヒトラーの国民からの支持は非常に高いままでした。

ヒトラーはヴェルサイユ体制の打倒をすぐに実行しようと、1933年に国際連盟を脱退。1935年にはヴェルサイユ条約で禁止されていた徴兵制を復活させて再軍備宣言をしてイギリス・フランスに認めさせます。1936年にはヴェルサイユ条約・ロカルノ条約で禁止されていたラインラントに軍を進駐させました。

こうした外交政策の成功に、ドイツ国内ではヒトラー支持の声がより強まりました。

イギリス・フランスは、ヒトラーの挑発的な軍事行動に対して、具体的な対抗策を打つことができず黙認となってしまいました。英・仏のナチス・ドイツをある程度認めて平和主義を貫こうとした姿勢を宥和ゆうわ政策と呼びます。結果的にこの宥和政策が、ヒトラーの台頭を促進させて第二次世界大戦の原因となります。

ヒトラーがラインラント進駐する前年の1935年、ムッソリーニはエチオピア侵略を行い、国際連盟から非難され英・仏との戦争危機が高まります。

そこで1936年ムッソリーニは同じ境遇にいたヒトラーに近づき、ベルリン=ローマ枢軸を結成して、互いに連携していくことを表明しました。

第二次世界大戦 直前の動き

1936年 スペイン内戦

第二次世界大戦の前哨戦とも呼ばれるのが1936年のスペイン内戦です。

1931年にスペイン王政が倒れた後の権力争いによって、総選挙で勝利した人民戦線派と、フランコ将軍ら軍部が対立しました。

1936年に軍部がクーデターを起こし、スペイン内戦が始まります。フランコ将軍は、ファシズム体制を目指して、ドイツ・イタリアに支援を依頼。ヒトラー・ムッソリーニがこれに答えました。ベルリン=ローマ枢軸の連携が実現した瞬間です。

このスペイン内戦には、ソ連や外国軍・義勇軍も参戦したため、内戦から戦争へと変化していきました。

最終的には1939年にフランコ将軍側が首都マドリードを陥落させて勝利します。

フランコは独裁体制を敷いて、第二次世界大戦ではなるべく中立の立場を貫いたので、1975年まで独裁を維持しました。

スペイン人のピカソは、スペイン内戦で行われたドイツ空軍のゲルニカ爆撃に憤り、「ゲルニカ」を描きました。

1936年 日・独・伊の枢軸国の形成

1936年、国際的に共産主義が広まり、反ファシズム体制を標榜してきたことに対抗して、日本とドイツは防共協定を結びます。1937年にはここにイタリアも加わり、三国防共協定に拡大。

こうしてドイツ・イタリア・日本という三国枢軸が完成します。第二次世界大戦の開戦後の1940年には、軍事同盟として日独伊三国同盟となります。

ナチス=ドイツの領土拡張

英仏の宥和政策を見たヒトラーは、1938年に同じドイツ系民族が多いオーストリアの併合を強行します。オーストリア国民の多くはウィーンに入るヒトラーを熱狂して迎えました。

また同年、チェコスロバキアのズデーテン地方もドイツ系民族が多いことを理由に、割譲を要求しました。チェコスロバキアはこれを拒否しましたが、ヒトラーは戦争をチラつかせます。

宥和政策を取りたいイギリス・フランスは、ミュンヘン会談を開き、ヒトラーにこれ以上の領土拡大をしないことを約束させて、ズデーテン地方の割譲を認めました。

このミュンヘン会談では当事者であるチェコスロバキアや、隣国ソ連が呼ばれなかったため、ソ連はイギリス・フランスへの不信感を強めます。

ミュンヘン会談を行ったイギリスのネヴィル・チェンバレン首相の宥和政策は、現在でこそ第二次世界大戦を引き起こしたと批判されていますが、当時の世間の反応はドイツとの戦争を回避した英雄でした。また単純に平和主義をとったというよりも、ドイツのファシズムよりも、ソ連の共産主義の方が脅威だと見ていたのです。

ヒトラーがソ連侵攻を食い止めるヨーロッパの防波堤となった方がマシだと考えていたのです。

ヒトラーはミュンヘン会談後、ズデーテン地方だけに満足することはなく、1939年チェコスロバキアを解体して実質ドイツ支配下に置きます。この知らせにジョゼフ・チェンバレンは激怒。イギリス・フランスは宥和政策を諦め、ドイツとの戦争準備を始めます。

1939年8月、世界が驚愕したのはドイツとソ連が手を結んだ、独ソ不可侵条約でした。犬猿の仲として知られていた両国が手を結んだのです。

ドイツは英・仏との戦争に備えて、背後となるソ連との戦いは避けたいという思惑が。ソ連は、英・仏が共産主義国であるソ連を警戒していることを感じてドイツとの戦争を避けたかった。両者の思惑が一致した束の間の条約でした。

背後を刺される心配を無くしたヒトラーは、1939年にポーランドに侵攻。イギリス・フランスがこれに応戦して、第二次世界大戦が始まります。

10分でわかる世界史Bの流れ!近現代ヨーロッパ(4)〜第二次世界大戦〜

2019.05.29