10分でわかる世界史Bの流れ!近代ヨーロッパ(8)〜ロシアと東方問題〜

複雑に絡み合う東方問題

【前回までのあらすじ】(5)ウィーン体制の崩壊

1815年以降のウィーン体制以降、自由主義・ナショナリズムの考えは西欧だけでなく、東側へも普及していきました。それはオスマン帝国の弱体化にともない、支配下の国々がナショナリズムの影響を受けて次々と独立を求め始めたということです。

またそんな東側のオスマン帝国内での事情に、西ヨーロッパ諸国が口を出して話が複雑になる東方問題も生じます。

古代以降のギリシャ地域の歴史

かつてマケドニア王国によって統一されたギリシャですが、それ以降すっかり世界史の舞台から消えていました。そんなギリシャの古代以降の裏?歴史をおさらいしておきましょう。

紀元前146年にギリシャは古代ローマに敗北して属州となります(ちょうどポエニ戦争が終了した年ですね。)

395年にローマ帝国が分裂した後は、ギリシャ地域はビザンツ帝国に属しました。そんなビザンツ帝国も1453年にはオスマン帝国に滅亡させられ、ギリシャ地域もオスマン帝国に統治され続けます。

そんなオスマン帝国も19世紀には陰りが見え始め、ウィーン体制後のナショナリズムの台頭にギリシャ人たちが感化され独立運動が起きます。

1821年 ギリシャ独立戦争

ウィーン体制以降、ヨーロッパ列強たちは自由主義・ナショナリズムが台頭するのを嫌いました。例え、東欧のギリシャといえどもナショナリズム運動が独立につながるのは好ましくありません。

ギリシャが1821年にオスマン帝国に対して独立戦争を開始した際にも、ヨーロッパ諸国はギリシャ独立に反対でした。

しかし、自由主義者の西洋諸国の市民たちは、ギリシャの独立を支援しようという動きが生まれます。ヨーロッパ文化の源流でもあるギリシャに対して愛護運動が起き、世論はついに国を動かします。

イギリス・フランス・ロシアがギリシャ独立戦争の支援を決め、戦争に介入し、ギリシャ独立戦争を勝利に導きます。

その後1830年のロンドン会議にて、ギリシャの独立は正式に認められますギリシャ王国の誕生です。

古代以降のエジプト地域の歴史

かつて前31年のアクティウムの海戦でプトレマイオス朝エジプトが滅亡して以降、エジプトもこの解説記事ではすっかり出てこなくなりましたね。古代から近代までのエジプトの裏?歴史を振り返ります。

アクティウムの海戦以降、古代ローマの属州であったエジプトですが、ローマ帝国の分裂後、ビザンツ帝国の支配下に置かれます。(ここまでギリシャと似てますね)

しかし7世紀にイスラム教が台頭して以降、エジプトはイスラム化します。長い期間、イスラム王朝の支配下にあったエジプトですが、1517年にはオスマン帝国の波に飲まれます。

そんなオスマン帝国が19世紀には弱体化してきた隙を、エジプトも突こうとします。

1831年 エジプト=トルコ戦争

弱体化したオスマン帝国では、ムハンマド=アリーの下エジプトがかなり力をつけており、独立の一歩手前までいきました。

1830年にギリシャの独立が決まり、エジプトも正式にオスマン帝国からの独立を目指して、1831年にエジプト=トルコ戦争を起こします。

エジプト=トルコ戦争では、フランスがエジプトを支援したものの、その他ヨーロッパ諸国はオスマン帝国側を支援したため、オスマン帝国側の勝利で終わります。

東方問題

ギリシャ独立戦争でも、このエジプト=トルコ戦争でも、ヨーロッパ諸国が話に絡んできました。

このようにヨーロッパより東側(バルカン半島・黒海周辺)で起きる出来事に、ヨーロッパ諸国の思惑が顔を出して話がややこしくなることを東方問題と言います。

例えばエジプト=トルコ戦争では、ロシアがオスマン帝国を支援する代わりに、ボスフォラス海峡とダーダネルス海峡という軍事上の重要拠点の自由航行権を獲得したことに対して、イギリスなどが猛反対し1840年のロンドン会議にて、ボスフォラス海峡とダーダネルス海峡での軍艦の通行は禁止しました

今後は、ロシアは不凍港を求めて南下政策を本格的に進めるためにオスマン帝国にちょっかいをかけます。これを警戒するイギリスやフランスの図式となります。

19世紀後半のロシア -南下政策と近代化-

時は流れて19世紀後半のロシアを見ていきます。神聖同盟の盟主としてウィーン体制の保守に積極的だったロシアは、自由主義・ナショナリズムの芽を次々と刈りとっていきましたよね。(ロシアのデカブリストの乱の鎮圧、1848年のハンガリーの民族運動の鎮圧など)

こうしたロシアの反革命の態度を主導したニコライ1世は、「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれました。そして19世紀後半からのロシアは、南下政策を本格化させ始めます。

1853年 クリミア戦争

ウィーン体制が崩壊した19世紀後半、国際秩序は乱れ、ついにヨーロッパでも大規模戦争が起きます。(ウィーン体制下では、革命運動、ギリシャやエジプトでの戦争はありましたけどヨーロッパは直接関わってませんね。)1853年のクリミア戦争です。

ロシアの南下政策の一環として、オスマン帝国と戦いました。戦争の口実として使われたのが、東方正教徒の保護です。

かつて1054年の東西教会の分裂によって、東側では東方正教会というキリスト教が広まりました。東方正教会は、「ギリシャ正教会」とも呼ばれており、その名の通り(ギリシャも位置する)バルカン半島に多くの信者が存在します。

正教会のリーダーを自認するロシアのニコライ1世は、バルカン半島の東方正教徒の保護を口実に、その地域を支配するオスマン帝国に宣戦布告します。

ロシアの南下政策に対抗しイギリス・フランスはオスマン帝国側を支援しました。クリミア戦争の主戦場となったクリミア半島の中でも、セヴァストーポリ要塞の戦いは非常に激戦であったと有名です。

結果として、ロシア側はクリミア戦争に敗れて1856年のパリ条約を結ばされます。

「クリミアの天使」とも呼ばれたナイチンゲールが活躍したのが、クリミア戦争です。これ以降、傷兵の救護の重要性が認識され、1863年には国際赤十字社が創立されます。

1861年 農奴解放令

<農奴解放令を読む農奴たち>

クリミア戦争に敗北したロシアは、敗北の原因をロシアの近代化の遅れだと見定めます。これまで自由主義を抑圧してきたロシアと違い、イギリス・フランスでは工業化が進み経済が発達していますから武器も最新式。兵士も1つの国家に属する人間としてまとまり、強い意志を持って戦争に参加していました。

そこでクリミア戦争中にニコライ1世は亡くなり、新たに即位したアレクサンドル2世「上からの」近代化を実施します。

アレクサンドル2世が近代化政策として実施したのが、1861年の農奴解放令。当時ロシアには2000万人もの農奴がおり中世のヨーロッパのように貴族に従属して移動の自由はありませんでした。

そんな農奴たちに自由な身分を与え、土地を保有することも許されました。

しかし実際は、農奴たちは何十年もの借金を負って土地を買ったり、個人で買えずにミールという農家共同体経由で土地を与えられたりと農奴たちの生活は前よりも悪化する一方でした。

1863−64年 ポーランドの反乱

アレクサンドル2世が上からの近代化を進め始めたことを聞きつけたポーランドの民族主義者たちは、1830年の反乱以来再度蜂起し、アレクサンドル2世からポーランドでの農奴解放令を引き出します。

しかしアレクサンドル2世は、度重なる農民の反乱に嫌気がさし、自由主義的改革をやめて反動化しツァーリズムを強めます

1870年代のナロードニキ運動

皇帝が自由主義改革を諦めたことで、ロシアでの改革の担い手は都市の知識人たち(インテリゲンツィア)へと移ります。

インテリゲンツィアたちは、お金持ちの貴族で。教養がありツァーリズムを打倒しようという改革意識を持っています。そんな自分たちが農村地域に入って農民たちを啓蒙していくことで改革意識を高めてあげようと考えました。

この時掲げられた言葉が「ヴ=ナロード」。意味は「人民の中へ」という、農村地域へ入っていくインテリゲンツィアたちのことを指しています。このように農民たちを啓蒙しようとしたインテリゲンツィアたちを、ナロードニキと呼びます。

しかし農民たちはナロードニキが思った以上に保守的で、失望したナロードニキの一部は歪んだ形でツァーリズムを倒そうと、テロリズム(暴力主義)へと走ります。

テロリズムに走った一部のナロードニキによって、1881年にアレクサンドル2世は暗殺されてしまいます。

1877~78年 露土戦争

<ロシアを「タコ」に模して1877年の状況を描いた風刺画>

クリミア戦争から24年後の1877年、久しぶりのロシア南下政策が行われます。それが露土戦争です。ロシア=トルコ戦争とも言いますね。再びオスマン帝国との戦争です。

今回の戦争の口実は、ロシア人と同じ民族であるスラブ人の保護です

オスマン帝国の弱体化に伴い、支配下に置かれていたバルカン半島のスラブ人たちが民族運動を活発化させました。こういった思想をパン=スラブ主義といいます。要はロシアは、このパン=スラブ主義を南下政策に利用したのです。

1875年にボスニアとヘルツェゴビナで、1876年にはブルガリアでも蜂起が行われ、この流れに乗じてロシアはオスマン帝国に宣戦布告し、勝利します。

1878年 サン=ステファノ条約

露土戦争の講和条約として結ばれたのが、サン=ステファノ条約です。

この条約でブルガリアが独立を果たしますが、実質ロシアの保護国でした。ロシアは、広大な領土と黒海・地中海に面するブルガリアを手に入れたことで、念願の南下政策を果たしたのです。

しかし、イギリスやオーストリアの反発を受けて、ドイツのビスマルクが仲介に入りベルリン会議を開きます。ベルリン会議によってサン=ステファノ条約は破棄され、新たにベルリン条約が結ばれロシアの南下政策は再び阻止されます。

しばらくロシアは南下政策を控え、東方へと関心を向け始めます。(清朝への進出が日本との対立を生み、日露戦争へと繋がります)

ベルリン会議によって、ひとまず東方問題は終結しますが、後にバルカン半島の情勢は危うさを増し、バルカン問題と呼ばれるようになります。

ブルガリアを獲得することで、ロシアは(1840年のロンドン条約で通行が禁止された)ボスフォラス海峡やダーダネルス海峡を通ることなく、地中海に出ることができます。ロシア軍艦が地中海に出ることができるようになれば、西ヨーロッパ諸国にとっては脅威です。だからこそ、イギリスやオーストリアはサン=ステファノ条約に反対したのです。

10分でわかる世界史Bの流れ!近代ヨーロッパ(9)〜ナポレオン3世と戦争〜

2017.02.18

4 件のコメント

  • はじめまして。よくお世話になっている者です。
    学校のプリントには、エジプトはエジプト=トルコ戦争の結果、エジプトとスーダンの世襲権を得られてオスマン帝国から自立したと書いてあるのですが、負けたのに自立できたのですか?
    それが調べてもよくわからなくて、疑問です。
    宜しければ教えてください。

    • 詳細あまり詳しくないのですが、エジプト=トルコ戦争は、第一次と第二次があります。そして第一次では、エジプトはオスマン帝国を打ち破り、シリアを占領しています。
      しかし第二次でオスマン帝国に敗れた際に、シリアを返還する代わりに、自立を認めてあげるよというロンドン会議での交鈔の結果、自立できたのではないかと推察します。
      ごめんなさい、ちょっとあくまで予想です。

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