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ローマ世界の終焉と「古代」の終了
【前回までのあらすじ】(3)古代ローマの経済格差と内乱 (4)ローマの独裁者と平和
アウグストゥス以降、帝政によってなんとかパックス・ロマーナを保ってきたが、長期にわたるローマの平和もいよいよ終わりを迎えようとしていた。
さて、ここまで長らく解説してきた古代ローマですが、いよいよこの大帝国も終焉を迎えようとしています
名前の通り、「古代」ローマ帝国の終焉とともに、古代は終了し「中世」に入ります
ローマ市民権の拡大
前1cは「内乱の1世紀」と呼ばれ、イタリア半島の最下層のランクである同盟市が連合して同盟市戦争を起こしました
これによって、全イタリア市民にローマ市民権を認めましたよね
こうしてイタリア半島では平等な市民権が成立しましたが、属州(=イタリア半島以外のローマ征服地)の多くの人には市民権が与えられていませんでした。
しかし1度始まった自由の流れは止めることはできません。
属州の経済力が高まったことで下層市民の発言力は増し、勢いに負けたカラカラ帝は212年に属州全ての平民たちにローマ市民権を与えました
ローマの軍人皇帝時代
ローマの支配領域からの内乱に対処するだけでなく、ローマは周辺国にも脅威となる国が多くありました。
北にはゲルマン人、東にはササン朝ペルシャの脅威などがあり異民族への対処のために軍隊を派遣せねばならない頻度が増え始めます。
各属州に1軍団が派遣されるようになると、軍隊に力が集まるようになり、皇帝が軍をコントロールできなくなり始めます。
こうして多くの軍人が力をつけて「俺が皇帝である!」と自称し始め、皇帝の乱立が起きたのが軍人皇帝時代です。なんと50年間で26人の軍人皇帝が入り乱れました。まさに乱世です
ディオクレティアヌス帝による統治
こんな軍人皇帝時代を強制的に終わらせたのが、ディオクレティアヌス帝です。彼は再び権力を軍人たちから皇帝へと戻すことに成功しました。
ドミナートゥス制と皇帝崇拝
ディオクレティアヌスの政治方式は、ドミナートゥス制(専制君主制)と呼ばれています
アウグストゥス(オクタヴィアヌス)が始めたプリンキパトゥス制(元首政)は、建前では元老院や平民会などこれまでの形式を維持しつつ権力は皇帝に集中する形でした。
ですが、ディオクレティアヌス帝のドミナートゥス制(専制君主制)はそんな元老院など過去の形式を完全無視して「皇帝とは神である!」と皇帝崇拝をさせることで権力を無理やり皇帝に引き戻したのです。
キリスト教徒への大迫害
ドミナートゥス制によって権力は皇帝に戻り、軍人皇帝時代は終わりましたが、ディオクレティアヌスはキリスト教徒に対して大迫害を起こしました。
ディオクレティアヌスからすれば「この俺を崇拝せずして何がローマ市民だ!!」という気分だったのでしょう
四帝分治制
また、ディオクレティアヌス帝は四帝分治制、つまり広大な帝国を4分割してそれぞれに皇帝を置いて支配する制度を始めます
ローマは実に広大ですからね。ディオクレティアヌスは東の皇帝であり、ちゃっかり神です(笑)
コンスタンティヌス帝の行った3つの政策
ディオクレティアヌス帝は305年に健康不良により退位し、コンスタンティヌス帝が即位します
彼は大きなことを3つやりました
313年 ミラノ勅令でキリスト教を公認する
1.ほんの20年前まで迫害されていたキリスト教徒でしたが、一転ミラノ勅令によってローマ帝国から公認のお墨付きを頂きました。後に他の記事でも語りますが、キリスト教は人々の生活が不安定になればなるほど普及が進みます
つまり迫害を受ければ受けるほど広まる、不思議な宗教なのです
330年 首都をローマからコンスタンティノープルに遷都
2. 首都を大きく遷都したのは、やはりこの時代の経済が東に傾いていたからではないでしょうか?東では大国ササン朝ペルシャが台頭してきており、海岸部にあるコンスタンティノープルは経済・文化の要所としては最高ですからね。
この後もコンスタンティノープルは世界史でよく出現するので、場所を確認しておきましょう!
コロヌスの移動を禁止し、身分を固定化
3.コロヌスと急に言われても意味わかりませんよね。(・_・;)詳しくいきますよ〜!
これまでのローマの農業経営はラティフンディアが基本でした。覚えてますか?
貴族所有の大規模な農地で、戦争で得た奴隷を鬼のようにコキ使う超効率的な農業形態です。→詳しくは古代ローマ文明(3)
さて、このラティフンディアは奴隷制が基盤になっています
ですが、2〜3世紀はパックス・ロマーナと呼ばれるほど平和なローマ。。。
平和な時代には何が起きますか?いや、何が起きませんか?
そう戦争です。戦争が起きないと、奴隷が増えません。なぜなら奴隷は他国と戦争をして無理やり引っ張ってくるものだからです
平和の到来によってローマの奴隷が減ってきたため、ラティフンディアという農業形態は成立しなくなってきました
その代わりとしてコロナートゥス制が普及します。
「奴隷がいないなら、コロヌス(小作人)(=没落した中小農民や解放された奴隷)を使えばいいじゃない」という発想です
ラティフンディアでは土地の所有者は貴族でそこで奴隷を働かせていました
コロナートゥスでは土地の所有者は貴族のままですが、権利のある小作人を無理矢理には働かせられないので、土地を貸し与えて貴族は地代を得ようとしたのです
そんな奴隷の代わりに農地を自主的に耕していたコロヌスたちですが、コンスタンティヌス帝の時から移動を禁止されます
一生その土地から動けないので、職業も一生コロヌスです。身分制度が強化され、ギリシャ時代からの自由の灯火が消えました・・・
ローマ帝国の分裂
さーて、いよいよローマも死にますよ〜
375年のゲルマン人の大移動や、属州への高課税への反抗などでローマ帝国は荒れていました
「これはもうダメかもわからんね」ということで、テオドシウス帝が最後の苦肉の策として392年にキリスト教を国教化します。信者が多いキリスト教を保護すればローマもまだ繁栄の余地があるかも。。。という策ですが、キリスト教を国教化した所で荒れたローマ帝国はどうにもなりません!
わずか3年後の395年、ついにあのローマ帝国は東西に分裂します
(出典:人は1人では生きていけないhttp://33635090.at.webry.info/201301/article_1.html)
西ローマ帝国:首都ローマ
東ローマ帝国:首都コンスタンティノープル
残念ながら、西ローマ帝国は81年後の476年にゲルマン人傭兵隊長のオドアケルによって滅ぼされます
地図からもライン川・ドナウ川を越えたあたりがゲルマン人の領域だとわかるかと思います
盛者必衰の理。。。
ちなみに東ローマは1453年までもつ長期大国です。名前はローマだけど首都はコンスタンティノープルで、そっちの方が長く続くとはね(笑)