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第一次世界大戦前のヨーロッパ動向
第一次世界大戦前の19世紀後半のヨーロッパ世界を見ていきます。
この時代はいわゆる帝国主義と呼ばれる、欧米主要国が軍事力をもって後進国を次々と支配していった時代でした。特にアジア・アフリカ地域への侵略活動は、非常に激しいものでした。
帝国主義の要因としては、資本主義社会が発達したヨーロッパ諸国が新たなる市場を求めて海外植民地を重要視するようになったことが挙げられます。
特に1870-90年代のヨーロッパは大不況の時代でしたから、さらなる富を求めて植民地を拡大しようとしたのは自然な流れなのかもしれません。
アフリカの植民地化
ヨーロッパ諸国による、アフリカの植民地化は、古くはポルトガルが領有したアンゴラ、モザンビーク、1814年のウィーン会議によるイギリスのケープ植民地化、1830年のフランスによるアルジェリアの植民地化などがありますが、侵略が激化したのは1880年代です。
ベルギーのコンゴ地域の支配を巡って、ヨーロッパ諸国でアフリカ分割のありかたについて、1884-85年にビスマルクが開いたベルリン会議で議論が行われました。
結論としては、最初にその地域を専有した国がその地域の領有権を持つ先占権が認められました。つまりは早いものがちでアフリカを支配できるってことです。
イギリスによるアフリカ分割
イギリスはかねてよりエジプトへの実質支配を進めてきており、1875年にはアフリカからインド洋へと繰り出すための起点となるスエズ運河の経営権を買収していました。そして80年代に、エジプトを事実上の保護国化します。
そこから南下して1899年には、マフディー軍の抵抗を鎮圧してスーダンを征服。
さらにアフリカ最南端のケープ植民地から、セシル・ローズが北上して1899年に南アフリカ戦争を起こします。相手はブール人という南アフリカ地域に植民して国家を立てたオランダ系の人々のことです。
この戦争は当初の想定以上に長期化して、1902年になんとかブール人に勝利します。
北はエジプト、南はケープタウンからアフリカを縦断するように縦方向に支配を進めていったのがイギリスです。
フランスによるアフリカ分割
一方のフランスは1881年にチュニジアを保護国化して、西アフリカ地域を抑えます。
さらにアフリカを横断して、東アフリカ地域のスーダンを支配しようとしますが、1898年に縦断政策を進めていたイギリスと衝突します。縦と横からアフリカ支配の動きが進めば、いずれ両国が衝突するのは当然ですよね。これをファショダ事件といいます。
フランスは、イギリスとの対立が深まるのを恐れて、スーダン地域はイギリスに譲歩します。これ以降、英仏の関係は急接近し、1904年には英仏協商が結ばれます。
過去数百年間にわたって対立してきたイギリスとフランスが手を組んだ歴史的瞬間です。以降、英仏はドイツと対立するようになり第一次世界大戦へと突入します。
その他の国によるアフリカ分割
アフリカ分割を成功させたのは、イギリスとフランスの2国のみで、他の国々は一部のアフリカ地域を支配して終わりました。
🇩🇪ドイツ:カメルーン、アンゴラ、一部東アフリカ
🇮🇹イタリア:ソマリランド、リビア、他 (エチオピア侵略するも失敗。エチオピアは、1936年にイタリアに5年間だけ支配されるもすぐに独立。アフリカ唯一の独立国を維持した国)
太平洋地域の植民地化
太平洋地域は大航海時代以降にスペイン(フィリピン)、ポルトガル、オランダ(インドネシア諸島)がを植民地化していったことから始まります。
18世紀以降はイギリスが進出し、19世紀にはフランス・アメリカ・ドイツが進出しました。
🇬🇧イギリス:オーストラリア、ニュージーランド、他
🇫🇷フランス:東インドシナ(現ベトナム、ラオス)
🇩🇪ドイツ:諸島多数
🇳🇱オランダ:インドネシア諸島
🇺🇸アメリカ:フィリピン(1898年の米西戦争後スペインから獲得)、ハワイ、グアム
ヨーロッパ諸国の2極化
第一次世界大戦前の19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパは2つの勢力に二極化します。
もう一方は、ドイツを中心とする、オーストリア・イタリアの三国同盟側です。
この流れを理解するには、ビスマルク体制まで遡る必要があります。
ビスマルク体制でのドイツは、フランスを孤立化させようと様々な同盟/条約を各国と結んでいましたね。
ビスマルク体制をおさらいすると、三帝同盟(ドイツ・オーストリア・ロシア)をせっかく結んだのに、オーストリアとロシアが仲悪くなっちゃって露土戦争で対立しちゃった★
どちらとも仲良くしたいビスマルクは、なんとか対立を仲裁しようとベルリン会議を開いたけど、ロシアの南下政策を阻んでしまったので亀裂は修復できず、三帝同盟は解消!
ロシアの代わりに、イタリアを呼んで、1882年にドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟を結びます。もちろんロシアも怖いので再保障条約という秘密条約も結ぶ徹底ぶりです♪
そんなビスマルクの慎重な外交政策をぶっ壊したのが、ドイツの新皇帝ヴィルヘルム2世。ビスマルクを辞職に追い込んで、世界政策・帝国主義を全面に押し出して、1890年ロシアとの再保障条約も破棄しました。
これでロシアはドイツとの対立が決定的となって、フランスに近づきます。これが1894年の露仏同盟です。これまでビスマルク外交で仲間外れにされてきたフランスは、これで再び国際社会で存在感を示します。
イギリスは長い間どの国とも同盟を結ばない、「光栄ある孤立」を維持し続けていましたが、東アジア地域でロシア勢力が台頭するのを阻むために1902年に日本と同盟を結んで、ロシアを日本に牽制させるようにします。(その後1904年に日露戦争が起きて、見事勝利をサポート)
光栄ある孤立を捨てたイギリスは、台頭するドイツを抑えるために1904年に英仏協商を結びます。歴史的に長らく対立してきたイギリスとフランスが手を組むなんて!という歴史的な瞬間です。
日露戦争に敗北して、東アジア地域への進出を諦めたロシアは、再びバルカン半島への南下政策を進めます。これを阻もうとするドイツ・オーストリアとの衝突します。
そこでロシアは1907年にイギリスと英露協商を結んで、イギリスを仲間にします。
こうして複雑な各国の思惑が絡み合いながらも、20世紀初頭に、イギリスを中心とする、フランス・ロシアの三国協商側、ドイツを中心とする、オーストリア・イタリアの三国同盟側の対立構造が成立しました。
3C政策 vs 3B政策
イギリスとドイツの両国が明確に対立していたのが、植民地支配戦略です。
イギリスは3C政策と呼ばれる、南アフリカのケープタウン、エジプトのカイロ、インドのカルカッタのトライアングル地域を抑える政策を取りました。
一方のドイツは3B政策と呼ばれる、ドイツのベルリン、オスマン帝国のイスタンブル、バグダードの東西にまたがる地域を抑えようとしました。
ドイツはオスマン帝国から、イスタンブールからバグダードまでを結ぶバグダード鉄道施設権を得て建設をはじめました。この鉄道ができるとドイツの東インド地域への進出が容易となってしまうため、イギリスの3C政策と大きく対立しました。
またこのバグダード鉄道はバルカン半島も通過するため、ロシアの南下政策とも対立します。ここからも三国協商側と三国同盟側が対立する要素が含まれていますね。
このイギリス中心の三国協商 vs ドイツ中心の三国同盟の対立のまま、第一次世界大戦に突入することになります。
バルカン半島の危機
ヨーロッパ諸国での対立関係が明確化していく中で、第一次世界大戦の引き金を直接引いたのがバルカン半島です。
かつての巨大帝国であったオスマン帝国が弱体化したことで、支配下にあったバルカン半島の各民族のナショナリズムが高揚して独立運動が激化。それを抑えてバルカン半島地域を支配したいヨーロッパ諸国の思惑が絡むのが東方問題でした。
特にロシアは自分たちと同じスラブ人がバルカン半島に多いことを理由にパン=スラブ主義を掲げて、南下政策を激しく行いました。
ロシアは露土戦争でバルカン半島進出を成功させたと思いましたが、1878年のベルリン会議で南下政策は阻まれてしまいます。
ロシアは南下政策を一度は諦めて東アジア進出しますが日本に阻まれて失敗、三国協商でイギリス・フランスを味方につけたことを背景に、20世紀初頭にバルカン半島への南下政策を再び進めます。
ロシアの南下政策と対立したのが、三国同盟側のオーストリアです。オーストリアは、かつての12-14世紀に東方植民でゲルマン人もバルカン半島諸国へと広がったことを口実に、バルカン諸島地域もドイツ・オーストリアに併合しようと進出していきました。
決定打となったことが、1908年のオーストリアのボスニア・ヘルツェゴビナの併合です。これをきっかけにバルカン半島では2度の戦争が起こり、オーストリアとロシアの対立は深まります。
バルカン半島に危機的な状況が生まれた20世紀初頭、バルカン半島はスラブ人vsゲルマン人の対立が明確化して「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれました。火薬庫ができたら、あとは爆発するだけです。
1914年6月28日の第一次世界大戦の引き金である、サラエボ事件へと繋がります。