10分でわかる世界史Bの流れ!近代ヨーロッパ(10)〜イタリア統一への道〜

中世以降、分裂状態が続いたイタリアが遂に統一!

これまでイタリアとドイツといえば、小さな国家が無数に存在する分裂状態にありましたよね。そんな両国も遂に、統一され、1つの国民国家としてまとまろうとしていました。

今回は、イタリアの統一への道のりを辿っていきましょう。

フランク王国以降のイタリアの歴史

これまでの中世イタリアの歴史

イタリア統一への道のりを辿る前に、9cのフランク王国の分裂から19cまでのイタリアの統一までの歴史を振り返っておきましょう。

843年のヴェルダン条約・870年のメルセン条約によってフランク王国は分裂し、中部フランク王国の地域が、後にイタリアとなっていきます。

北イタリアの商業都市では十字軍の影響で東西交流が盛んとなり11c頃から東方貿易が行われるようになりました。この東方貿易によって、イタリアのミラノ・フィレンツェ・ヴェネツィアといった都市は大きく成長し都市国家へと成長しました。

その一方でイタリアは10〜13cの間、神聖ローマ帝国から「イタリア政策」によって度々侵攻を受けていました。そのため北イタリア都市は神聖ローマ帝国に対抗するために、ロンバルディア同盟を結成しています。

また、11cの聖職叙任権闘争以降、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝間の対立が激しくなり、イタリア内でもゲルフ(教皇党)とギベリン(皇帝党)間で対立が生まれました。(ロンバルディア同盟に参加した都市は反神聖ローマ帝国なのでゲルフと呼ばれました)

このように中世イタリアでは経済が発達する一方で、都市間が対立し合い分裂状態が続いていました。

これまでの近世イタリアの歴史


近世に入ると、14cのイタリアではルネサンスが花開き、経済・文化ともにイタリアはヨーロッパの中心となります。

その一方で分裂状態は相変わらずで、15c末〜16c中頃にかけてフランス・神聖ローマ帝国に狙われてイタリア戦争が起きます。イタリアは主戦場となり、ルネサンスもイタリア戦争によって衰退していきます。

イタリア戦争以降、ヨーロッパでは主権国家の形成が始まりましたがイタリアは統一に出遅れてしまいます。

イタリア王国統一への道のり

<イタリア統一の立役者、マッツィーニ・カヴール・ガリバルディ>

1796年のナポレオンのイタリア遠征によって、一時ナポレオン支配が行われたものの1815年に決められたウィーン体制ではイタリアはほぼオーストリアの支配下に置かれることとなりました。

ウィーン体制時代のイタリアでは、ナショナリズムの高まりによってオーストリアから独立しようという運動が高まります。最初の独立運動を起こしたイタリアの秘密結社カルボナリは蜂起するもオーストリア軍に鎮圧されてしまいます。1848年にも「諸国民の春」と呼ばれている、民族運動がイタリアでも起きたものの、鎮圧されています。

1831年〜 マッツィーニが「青年イタリア」を組織

次に革命の旗振り役となったのが、1831年に生まれた政治結社「青年イタリア」のマッツィーニです。共和主義者であるマッツィーニはガリバルディと協力し、1849年にローマ共和国を樹立しますがフランスの介入によって崩壊します。

1859年 サルデーニャ王国のイタリア統一戦争

一方で、イタリア統一への主役となったのがサルデーニャ王国です。1720年に成立したサルデーニャ王国は、徐々に勢力を広げて力をつけていました。特に1852年にカヴールが首相に就任してからは、外交戦略を巧みに展開しました。

1859年にはフランス・サルデーニャ王国の連合軍でオーストリア軍に臨んだイタリア統一戦争では、開戦後、連勝を重ねましたがナポレオン3世の裏切りによって、ロンバルディアと中部イタリアの獲得に留まりました。

1860年 ガリバルディによる南イタリアの占領

イタリア統一の道がまた頓挫するかに思われましたが、ここで共和主義者のガリバルディが登場します。ガリバルディは途中までイタリア統一戦争に参加していましたが、途中で戦争を離反。1860年に独自の義勇軍である赤シャツ隊を率いて両シチリア王国を制圧しました。(当時、両シチリア王国はイタリア南部のほとんどを支配していたので、ガリバルディがイタリア南部を制圧したことになります。)

そしてガリバルディは当時のサルデーニャ国王であったヴィットーリオ・エマヌエーレ2世との会談によって、占領した南イタリア地域を全てサルデーニャ王国に献上したため、イタリア統一の道が一気に進みます。

こうして見ると、イタリア統一とはカブール首相のサルデーニャ王国が北イタリアから、共和主義者であるガリバルディが南イタリアから、この両者が会談してガリバルディが折れたためイタリア統一がなされたのですね。

1861年 イタリア王国の成立

<左ガリバルディ、右エマヌエーレ2世。2人の握手によってイタリア統一>

1861年、正式にヴィットーリオ・エマヌエーレ2世を国王とするイタリア王国が樹立します。

1866年には普墺戦争でプロイセン側で貢献し代償として、それまでオーストリア領であったヴェネツィアを併合。

1870年にはフランス軍に支援してもらっていたローマ教皇領が、普仏戦争によってフランス軍が撤退した時を見て、ローマ教皇領を占領。ここで、ほぼ完全なイタリア統一を成し遂げます。

軍事力で無理やり制圧させられたローマ教皇は、イタリア政府と対立を続け、ヴァチカン宮殿に閉じこもります。この対立は1929年のムッソリーニ時代まで続きます。

またオーストリアが依然としてトリエステ・南チロルの領有権を主張し続けたため、完全統一とはいきませんでした。この領土問題は、「未回収のイタリア」として第一次世界大戦まで禍根が続きます。

10分でわかる世界史Bの流れ!近代ヨーロッパ(11)〜ドイツ統一とビスマルク〜

2018.01.02