アメリカ合衆国が大国になるまでの道
今回は、アメリカをmake greatにした歴史を語っていきたいと思います。1783年にアメリカは、イギリスの植民地から脱し、独立国となりました。
この間までは土地も荒れ果てた植民地でしかなかったアメリカですが、19世紀になると国力を大幅に伸ばすことに成功いたします。その歴史を振り返っていきましょう。
アメリカ領土拡大の歴史
アメリカ独立直後の領土状況
まず、アメリカ独立直後の大陸の領土状況についておさらいしておきましょう。
18世紀のイギリスとフランスの大戦争の結果、1763年のパリ条約によってカナダとミシシッピ川以東のルイジアナはイギリス領に、ミシシッピ川以西のルイジアナはスペイン領になりました。
この時点でフランスは、アメリカ大陸の領土を全て失ったのですが、1800年にミシシッピ川以西のルイジアナを実は返還してもらっています。
またフロリダについても1763年という同時期にスペインからイギリス領になりましたが、1783年に再度スペインに返還しています。
1803年 フランス領ルイジアナを買収
フランスはスペインから返還してもらったミシシッピ川以西のルイジアナを、そのままアメリカに売却しました。
1803年のフランスといえばナポレオンが皇帝になる直前です。この後ナポレオンはイギリスとの戦争を行います。戦争にはお金がかかりますから、少しでも戦費をまかなうためにルイジアナを売却しました。
1812-14年 米英戦争
第二次アメリカ独立戦争とも呼ばれる米英戦争は、アメリカの勝利に終わります。
この戦争では、特に領土は動いていません。この戦争は、イギリスが海上封鎖を行ってフランス-アメリカ間のビジネスを邪魔されたことで、アメリカ側の反発が高まったことに起因します。
この戦争中はイギリスとの貿易は一切行われなかったため、逆にアメリカの自国産業は大きく成長しました。元親との関係をスッパリ切ったことで、自立した感じですね。アメリカの経済自立によって、1860年代の産業革命に繋がっていきます。
1819年 スペインからフロリダを買収
スペインから、フロリダを500万ドルで買収しました。南部は温かい気候ゆえに、綿花栽培が盛んに行われており、フロリダもまた綿花栽培地としての需要が叫ばれていたためです。
1823年 モンロー教書の表明
<ピエロのような大男がアメリカ。小人のラテンアメリカ諸国を柵の向こう側のヨーロッパから守っている>
モンロー教書とは、第5代アメリカ大統領モンローによって表明された外交方針です。内容としては、ヨーロッパ大陸とアメリカ大陸の相互不干渉を打ち出しました。「孤立主義」「モンロー主義」とも呼ばれます。
このモンロー教書の背景には、「ラテンアメリカ諸国の独立」があります。18世紀後半のアメリカやフランスの独立・革命の炎は、少し送れてラテンアメリカ諸国にも燃え移りました。
古く大航海時代よりスペイン・ポルトガルに支配されてきた、ラテンアメリカ諸国ですが、1804年にハイチにて黒人革命が成功して独立したことを皮切りに、パラグアイ、アルゼンチン、チリ、ペルー、メキシコ、ブラジルなど様々な国が独立に成功しました。
当然ヨーロッパ諸国は、ラテンアメリカを再び侵攻して独立を抑えようという動きをしましたが、アメリカのモンロー大統領はこれを牽制して、モンロー宣言を打ち出したということです。
1829−37年 第七代アメリカ大統領ジャクソンの民主主義
これまで大統領は東部出身のいわゆるエリート層が大統領に選ばれてきましたが、ジャクソンは西部の普通の家柄出身です。
ジャクソン大統領の政治方針は、「庶民の味方」です。東部のエリート資本家たちではなく、一般市民に目を向けた政治を行ったため大変な人気があったそうです。
特に白人男子普通選挙を整備したため、この時代はジャクソン民主主義と呼ばれています。
この時期に現在のアメリカ2大政党の元となる、民主党とホイッグ党(自由党の前身)が組織されました。ジャクソンは民主党出身です。そしてジャクソンに反発した人々が組織したのがホイッグ党です。
1830年 インディアン強制移住法の制定(ジャクソン大統領)
庶民の味方であったジャクソン大統領ですが、現地民のインディアンたちには非常に厳しい態度で当たりました。合法的にインディアンたちを強制移住させることができる法律が定められたことで、多くのインディアンたちは西方へと追いやられました。
1840年代 マニフェスト・デスティニー(明白な天命)の考え方の普及
<女神に導かれるように、西部開拓を進める人々>
インディアンを合法的に追いやって良いという法律ができたこともあり、1840年代のアメリカの人々は更なる土地を求めて、西へ西へと西部開拓を進めていくことは当然の権利であるという風潮が生まれます。
なぜ当然なのか?それは、領土拡大が神から与えられた使命だからです。・・・意味わかりませんね?まぁ、都合のいい自己正当化ですよね。
1845-48年 テキサス、オレゴン、カリフォルニア、ニューメキシコの獲得
1845年、メキシコから独立したテキサスをアメリカに併合しました。
これを発端に1846年に米墨戦争(アメリカ=メキシコ戦争)が起こり、メキシコ戦力を圧倒します。結果として、1848年にカリフォルニア・ニューメキシコはアメリカに併合されました。
1848年にカリフォルニアがアメリカに併合されると、非常に大きな金鉱が発見されます。多くの人々が金を採ろうと集まるゴールドラッシュが起きて経済が大きく発展しました。
(また、1846年にイギリスとの交渉でオレゴンもアメリカに併合されています)
アメリカ最大の内戦 -南北戦争-
マニフェスト・デスティニーの元、西部開拓を進めてきたアメリカですが、併合する州が増えるに連れて、北部側と南部側での対立が明確化してくるようになりました。
対立の大きな要因は、「主要産業が異なるゆえの考え方の違い」です。
アメリカ北部の主要産業 -商工業-
アメリカ北部の主要産業は、商工業です。特に、米英戦争後は工業化が進み、ヨーロッパ諸国に輸出しても恥ずかしくないレベルの工業品が作られるように成りました。
商工業で生きていく上で、他国からの工業品に高い関税をかけて自国の産業を守ることが非常に重要なので、保護貿易を求めます。また工業には主に機械が使われ、あまり奴隷を必要としないこともあり、奴隷制維持にはそこまで積極的ではありませんでした。
アメリカ南部の主要産業 -綿花栽培-
一方のアメリカ南部の主要産業は、その暖かい気候を活かした綿花栽培です。特に1793年にホイットニーの綿繰り機が発明されると、南部での綿花栽培はより一層進みました。
以前三角貿易の解説の際にも触れましたが、綿花栽培には黒人奴隷が不可欠です。白人たちは、誰も暑い地域で肉体労働をしたがりませんからね。ゆえに、黒人奴隷制度の維持には非常に積極的でした。また、綿花はヨーロッパ地域に輸出していたので、変に輸出制限をされたくないので自由貿易を求めました。
(ちなみに、白人の入植者が、黒人奴隷を管理して、綿花などの単一作物を作らせ続けることを、プランテーションと呼びます。)
このように同じアメリカ合衆国でも主要産業が北と南で異なるために、貿易と奴隷制のあり方について激しく対立しました。
1861年 共和党リンカーン大統領の就任
南北対立が明確になる中、リンカーン大統領が就任します。リンカーンはホイッグ党の後進、共和党出身です。共和党はアメリカ北部寄りの政党で、奴隷制反対派です。一方の民主党は、南寄りの政党で、奴隷制維持派です。
このように政党もすっかり南北で対立関係が明確になってしまっていたわけです。
1861-65年 南北戦争
北と南の対立は、結局戦争を引き起こしました。南部11州は、アメリカ合衆国を離脱して、アメリカ連合国を作り独立。北部に対して、戦争を仕掛けました。
当初は南部側が優勢だったものの、リンカーン大統領がホームステッド法を成立させたことで戦局は一変します。ホームステッド法とは、アメリカ人なら誰でも公有地を貸してあげるよ。んで、5年間その土地を耕してくれたら、その土地あげる。という法律です。
西部開拓を進めて国土が有り余っていた当時ならではの制度ですね。これに喜んだのは、西部の農民たちです。彼らが北部側、共和党側についたことで、戦局は北部寄りになりました。
1863年 リンカーンの奴隷解放宣言
もともとリンカーンは奴隷制度廃止寄りの人ではありませんでした。奴隷拡大はよくないけど、リンカーンも個人的には奴隷を使役していましたから、廃止まで制度を確立する予定はありませんでした。
しかし南部側の抵抗が思ったよりも激しかったため、奴隷たちを味方につける、国際世論を味方につけて戦争に勝利するという、極めて戦略的な理由により、奴隷解放宣言を行いました。
その後、同年7月の最大の戦いであるゲティスバーグの戦いに北軍が勝利し、戦況は決定的になり1865年に北軍の勝利で幕を閉じます。この戦いの直後に、リンカーンは「人民の人民による人民のための政治」という有名フレーズのスピーチを行いました。
南北戦争後のアメリカ
1865年 奴隷制度の廃止
リンカーン大統領が宣言した通り、南北戦争直後アメリカは、憲法修正第十三条にて奴隷制度を禁止しました。
しかし、それまでの一般白人市民の黒人に対する差別意識がすぐに消えることはなく、黒人と白人の乗るバスを分けたりと差別は当たり前のように行われてきました。それは現在までも根強く禍根を残しています。
特にKKK(クー=クラックス=クラン)のような、狂信的な黒人差別組織も現れたりしました。
1860年代 アメリカ産業革命
南北戦争後、とりあえずはアメリカ連合国の統一が強化され、経済も発展しました。
特に工業化を進めていた北部が戦争に勝利したこともあり、工業国を目指して経済活動を行い、1860年代には産業革命が起こります。労働力には奴隷の代わりに、積極的に移民を用いてきました。東欧、南欧からの移民や、中華系の移民を受け入れ、安価な労働力として使い発展していったのです。まさに、アメリカが移民の国と呼ばれるわけですね。
1869年には、東西を結ぶアメリカ大陸横断鉄道が開設されて、ヒト・モノの移動速度は大幅に上がり、経済もますます発展し、アメリカ各地で大都市が出現しました。
1867年 ロシアからアラスカ買収
アメリカは、ロシアからアラスカを買収しさらに領土を広げました。
当時のロシア皇帝は、アレクサンドル2世です。ロシアは1853年のクリミア戦争に敗れて、財政難であったため、アラスカを720万ドルでアメリカに売却しました。
当初アラスカ買収は、「巨大な冷凍庫」を買っただけだ!とアメリカ国民に批難されましたが、後に金鉱が見つかると評価は一転しました。また、冷戦時代にアラスカがロシアの領土だった場合・・・を考えると少し怖いです。やはり、領土は正義ですね。
おまけ 1854年 ペリー来航&日米和親条約
南北戦争の直前、日本にペリーが来航したのは1854年のことです。その際に、日米和親条約を交わし、日本は開国することに成りました。横の時代でつながるのも、世界史の面白いところです。