10分でわかる世界史Bの流れ!中世ヨーロッパ(2)~ノルマン人の侵攻〜

北方民族、ノルマン人のヨーロッパ侵攻

【前回までのあらすじ】(1)ゲルマン人のヨーロッパ侵攻

ローマ帝国の分裂後、多くのゲルマン人が西ヨーロッパへと流入しました。その中でも特に力をつけたフランク王国。
しかし、そんなフランク王国を揺るがすほどの力を持った蛮族が新たに西ヨーロッパに流入しようとしていました。

前回は、ゲルマン人の大移動について解説しましたが、今回はノルマン人のヨーロッパ侵攻について語っていきたいと思います!

★ノルマン人とは:スカンディナビア半島(ノルウェー、スウェーデン、フィンランドがある場所)やバルト海沿岸を現住地とした北方のゲルマン民族

実はノルマン人も、ゲルマン民族なんです!言ってしまえば、これもまたゲルマン人大移動のような気がしますが。

ノルマン人たちは、別名ヴァイキングとも呼ばれました。彼らは8c後半頃からヨーロッパ各地に船で出向いては、食糧などを略奪・強奪をして帰っていくという海賊行為を行っていました

彼らの船は非常に特徴的ですよね。この船をみたヨーロッパ沿岸のゲルマン人たちは震え上がったことでしょう。ノルマン人が来たぞ!と。

さて、そんなノルマン人のヨーロッパ各地への侵攻の様子を見ていきたいと思います。

フランス:フランス王の家臣、ノルマンディー公国

9c後半、フランク王国分裂という混乱に乗じてノルマン人が北方から侵入してきました。あまりにも暴れまわるので、フランス王はノルマン人首長、ロロノルマンディー公国を与え、勢いをそこで封じ込めようとしました。

今でもフランスの北西部の地域は、ノルマンディー地方と呼ばれています。

ちなみにココで言うノルマンディー公国とは、フランス王国に仕える家臣という形態です
(国の規模でいえば帝国>王国>公国なので、ノルマンディー公国はフランス王国に仕える形なのです)

が、当然そこで勢いが止まるノルマン人ではありません・・・彼らは、次の狙いをイギリスに定めます

イギリス:ノルマン朝成立までの過程

前回の記事で、イギリスではローマ人が撤退した後、5cからゲルマン民族のアングロサクソン人が侵入したことを説明しました。

その繁栄は依然として続いており、9c後半のアルフレッド大王時代に全盛期を迎えました。

ゆえに、ノルマン人が攻めてこようとモノともしません。
アングロサクソン人たちはデンマーク地方から来るノルマン人のことをデーン人と呼びましたが、アルフレッド大王はデーン人を見事に撃退してみせます。

しかしその後の1016年にデンマーク王のカヌートに征服されてしまい、デーン朝が開かれます。
が、その支配は一代限り。すぐにアングロサクソン朝が復活します。

しかししかし、その復活もすぐに終わりを迎えます。先ほどのフランスに閉じ込められたノルマンディー公国からノルマンディー公ウィリアムが攻めてきます

彼は1066年にイングランドを征服してノルマン朝を樹立し、ウィリアム1世と名乗りました。ノルマンディー公国がイギリスを征服したことをノルマン・コンクエストと呼びます。

ロシア:ノルマン人のスラブ人同化

さて場所はロシアへと移動します。ロシアといっても広いですが、西ロシア、ヨーロッパに近い方を想像してください。

この地域は、6c頃からスラブ人が住み着いていました。が、彼らもまたノルマン人の襲撃を受けます。スラブ人たちは、ノルマン人のことをルーシと呼びました。

そのルーシの中の一人、リューリクが862年にノヴゴロド国を建国します。以降彼の子孫が1598年までロシアを支配します。

ロシアの起源はなんとノルマン人たちにあったのです。ゆえにロシアという語源もノルマン人を表すルーシです!(ちなみにルーシたちは文化的にはスラブ人に同化していきます)

その後、ノヴゴロド国の一族が南下して882年にキエフ公国を建国します。このキエフ公国は息が長く12cにモンゴル人に滅ぼされるまで続きます

イタリア:ノルマン系民族が、両シチリア王国を建国

ノルマン人の勢いは、なんと地中海地域まで届きました。

ルッジェーロ2世が南イタリア地域に両シチリア王国を建国します。この王国もまた息がながく、1860年にイタリア統一がなされるまで続きました。

10分でわかる世界史Bの流れ!中世ヨーロッパ(3)〜封建制度と荘園制〜

2016.06.06