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イギリスの立憲君主政への道のり
【前回までのあらすじ】(5)カルヴァンの宗教改革(8)イギリス・フランスの絶対王政
彼女は徳川家康と同時期の人物なのですが、1603年に亡くなりました。処女王と呼ばれた通り、子どもがおらず跡継ぎがいなかったため1603年にテュダー朝は断絶し、スチュアート朝が始まります。
1603〜25年 ジェームズ1世
1603年、スチュアート朝を継いだのがスコットランドの王、ジェームズ1世です。
彼は王権神授説を唱えて、専制政治を行いました。つまり「王である俺様の力は神からもらった神聖なものであるがゆえに、人間である貴様ら何者にも縛られないのだ!」という考え方です。
王権神授説に基づいて、ジェームズ1世は議会を無視した政治を行って新たに税金を国民に課しました。おかげで、国民からの不満は高まる一方でした。
さらに、ジェームズ1世はイギリス国教会の信仰を国民に強制しました。これに反発したのがピューリタンです。
(ピューリタンとは、イギリスのカルヴァン派のこと)
ピューリタンの多くが、ジェントリ・ヨーマン・商工業者でした。つまりはお金持ちですね。彼らは議会側を支持していたので、王との対立がますます深まりました。宗教弾圧や課税、議会の無視など着々と革命の種が育っているのがわかると思います。
一部の反発したピューリタンたちは、1620年にジェームズ1世からの迫害から逃れようとメイフラワー号という船に乗って北アメリカへ移住しました。彼らのことをピルグリム・ファーザーズと呼びます。
1625〜49年 チャールズ1世
続くチャールズ1世も、王権神授説の考え方を継承していました。またまた議会を無視して課税&課税。(というのも三十年戦争でイギリスもお金使いすぎちゃったんですね)
これに対してイギリス議会は猛反発。1628年に権利の請願を提出して、議会の承認なくして課税をしないように「お願い」をしました。ですが、国王チャールズ1世はこの請願を無視して議会を解散しました。1640年まで議会は閉鎖され、本格的にチャールズ1世による専制政治が始まります。
ピューリタン革命の発端
当然専制政治が長く続くはずもなく、革命が起こります。
始まりはスコットランドでの内乱でした。イギリス国教会の信仰を強制しようとして内乱が起き、チャールズ1世はお金が足りずにこの内乱を抑えることが出来ませんでした。
負けっぱなしでは済ませたくない!ということで、新たな戦費調達を図ろうと12年ぶりに議会を開きますが、当然お互い仲が悪いので話し合いにはなりません。お互いの対立は決定的になり、王・議会、それぞれが軍を組織して内乱を起こします。
これが1642年のピューリタン革命です。
王を支持する貴族たちのことを王党派、議会側を支持するピューリタンたちのことを議会派と呼びます。
議会派の中でも2つの派閥があり、1つは王との対立を明確化したい独立派、もう1つは王と協働で政治・宗教を動かしたい長老派です。
当初は長老派が大多数で王に対しても妥協的に革命を収束させようとしていました。しかし、それを許さなかったのが独立派のクロムウェルです。クロムウェルは熱心なピューリタンで、王のことを決して許しはしませんでした。
さらにクロムウェルの組織した鉄騎隊は圧倒的な軍事力で、王党派の軍を制圧していきました。強い軍事力のおかげで、少数派であった独立派はどんどん力をつけていきました。
最終的に1645年のネーズビーの戦いで勝利し、1649年に独立派はチャールズ1世を処刑しました。
イギリス共和政とクロムウェルの政治
チャールズ1世が処刑され、イギリスに王はいなくなった。つまり王政が終わり、共和政が始まったということです。
ピューリタン革命で圧倒的な活躍を見せたクロムウェルが、政治権力を握ります。
まずは議会から長老派を追放して、独立派で固めます。その後熱心なピューリタンであったクロムウェルは、カトリック教徒が多く、王党派の拠点となっていたアイルランドを征服します(1649年)。
続いて反革命運動が行われていたスコットランドも征服します(1650年)。
続く1651年には航海法を定めます。当時のイギリス海洋貿易のライバルであるオランダを潰すために、イギリス及びその植民地にオランダ船が停留できなくしました。
これによって英蘭(イギリス=オランダ)戦争が始まります。(1652〜74年)
結果は終始イギリス優位の戦況で、イギリス側に有利な講和条約が結ばれました。途中、オランダの植民地であるニューアムステルダムを占領してニューヨークへと改称します。
かつてオランダ独立戦争を支援したイギリスが、英蘭戦争でオランダの海洋貿易を潰すというのはなんとも皮肉ですね。
1653年に護国卿に就任したクロムウェルの政治は暴走へと向かいます。護国卿とは要は、イギリスでの最高権力を手にする地位のことを意味します。最高権力者であるクロムウェルは、独裁政治を1658年に死ぬまで続けました。
さて抑圧的な生活を強いられた国民がこの契機を逃すはずもなく、次の王の就任後、王政復古の声が高まりました。
1660〜85年 チャールズ2世
国民の王政復古の声から、処刑されたチャールズ1世の子であるチャールズ2世が即位しました。スチュアート朝の王政の復活です。
チャールズ2世は隠れカトリック教徒でしたので、次第にピューリタンへの弾圧を強化し始めます。
それを見た議会も、王の暴走を黙って見てはいられないので、1673年に審査法を作ります。これは、イギリス国教会の信者以外は官僚職に就けないという法律です。これによってチャールズ2世の手足となる部下を無くそうと考えたのです。(審査法の制定によってピューリタン信仰も下火になります)
さらに1679年に人身保護法を成立させ、王の権力による不当な逮捕と裁判を禁じました。こうして王と議会の対立は再び深まっていきました。
1685〜88年 ジェームズ2世
チャールズ2世の死後、議会は次の王を誰にするかで揉めました。
国王の権威を認めるトーリ党と、議会の権威を重んじるホイッグ党の2つに議会は別れました。
最終的にトーリ党によって、次の王をチャールズ1世の子であり&チャールズ2世の弟であるジェームズ2世にすることが決まりました。
さてジェームズ2世もまた父・兄同様に、絶対主義の下、権力を振るいたい系の王様でした。これを受けて、1688年にトーリ党・ホイッグ党の共同で王を追放することを決定します。
そこで新たな王として議会から招かれたのはオランダのウィリアム3世とその妻メアリ。実は、メアリはジェームズ2世の娘なのです。彼女が議会側についたため、ジェームズ2世は抵抗することを諦めて国外へと亡命します。
これが国民・軍にいっさいの血を流させることなく王の交代をなしとげた名誉革命です。
1689〜1702年 ウィリアム3世&メアリ2世
翌年、1689年に権利の宣言を議会が発表し、ウィリアム3世とメアリ2世をイギリス王として迎え入れます。
この権利の宣言を明文化したのが権利の章典です。権利の章典は議会主導で初めて、国民の生命・財産の保護を定めたもので立憲君主政が確立したと言われる。
立憲君主政とは王(君主)の力が、議会が定めた憲法などの規定によって制限されている政治形態のことです。立憲君主政の確立によって名誉革命以降のイギリス王の力はそこまで強まることはありませんでした。
1702〜14年 アン女王
メアリ2世の死後、メアリ2世の妹であるアンが王位を継承した。
1707年に、イギリスとスコットランドが連合王国として大ブリテン王国として成立した。こうして現在まで、この形態が続いている。
1714〜27年 ジョージ1世
アン女王には18人の子どもがいたのですが、全員不幸な死を遂げたため跡継ぎがいなくなってしまいました。これによってスチュアート朝は断絶します。
次に議会が王として招いたのは、ドイツのハノーヴァー選帝侯でした。ハノーヴァー朝の始まりです。
ハノーヴァー選帝侯は、ジョージ1世として大ブリテン王国の王に即位しました。が、ジョージ1世は英語が話せず、またイギリス政治にも関心がなくドイツに帰ってしまいました。
王が置物になってしまったイギリスでは、国の政治を王ではなく内閣に任せるようになります。これを責任内閣制といいます。初代首相は、ウォルポール首相です。
こうして、イギリス国王のことを「王は君臨すれども統治せず」と揶揄するようになりました。
議会には、多くのお金持ち市民階級が属しています。つまりイギリスは、市民が権力を握ることに世界でも早い段階で成し遂げたのです。他の国よりも早い段階で王権を制御して絶対主義を終わらせたことが、産業革命へと繋がりイギリスの時代へと成長していくことになります。