10分でわかる世界史Bの流れ!近代ヨーロッパ(11)〜ドイツ統一とビスマルク〜

ドイツ帝国とビスマルク

Histraceのタイトルに人物名が入るのはこれで3回目ですね。ナポレオン、ナポレオン3世、ビスマルク。ビスマルクは、それほどドイツに、そして世界に大きな影響を与えた人物だからなのです。今回の記事では、そこを明らかにしていきましょう。

これまでのドイツの振り返り

これまでのドイツといえば、要はバラバラでしたの一言につきます。

1616-46年の三十年戦争で、神聖ローマ帝国は事実上死に絶え、300以上の領邦に分かれてバラバラになりました。

10分でわかる世界史Bの流れ!近世ヨーロッパ(9)〜三十年戦争の影響〜

2016.07.15

1806年、ナポレオンの勝ち馬に乗ろうとライン同盟を成立した16の領邦が神聖ローマ帝国から抜けたことにより、本当に神聖ローマ帝国は消滅します。

10分でわかる世界史Bの流れ!近代ヨーロッパ(3)〜ナポレオンの栄枯盛衰〜

2017.01.12

1814-15年、ナポレオン戦争の戦後処理であるウィーン議定書にて、35の領邦、4つの自由都市から形成されるドイツ連邦が成立します。とはいえ、35と4の国がそれぞれ別々の方向を向いているので、まだまだバラバラで主権国家として統一している状態ではありませんでした。

ウィーン体制の下に成立したドイツ連邦ですが、この時期のヨーロッパでは特にフランスを中心に、自由主義・ナショナリズムの流れが止まりません。

その煽りを受け、1848年3月のベルリンでは3月革命が起きます。これに呼応して、5月にはドイツ統一の方法を議論するフランクフルト国民議会が開かれます。でも、結局ゴタついて統一には至りませんでしたよね。

10分でわかる世界史Bの流れ!近代ヨーロッパ(5)〜ウィーン体制の崩壊〜

2017.01.29

19世紀前半はごたついていたドイツですが、1834年に、ドイツ圏の経済を活性化させるためにプロイセン王国を中心にドイツ関税同盟が結成されました。まだ統一ドイツはできていませんでしたが、経済面の方では先に結束ができていたのですね。

1840年には、ドイツでも産業革命が起き、鉄道が敷設されたりなど、経済は大きく発展していました。そんな最中のドイツを盛り上げるのが、ビスマルクです。

強権ビスマルクによる、ドイツの統一

ビスマルクという人

19世紀前半までごたついていたドイツが急に19世紀後半に統一したのは、1人の強力な権力者の力があったからです。その名も、ビスマルク。本当に、色々な媒体から食べ物まで、その名が冠されているので、聞いたことが無い人は珍しいかと思います。

ビスマルクは、プロイセン王国の生まれのユンカー(地主貴族)で、プロイセンの政治家として頭角を現しました。

1861年にヴィルヘルム1世がプロイセン国王に即位すると、ビスマルクは首相に任命されました。

首相とは、要は行政の長のことですね。日本で言うとこの内閣総理大臣です。この時のプロイセンは王国なので、ヴィルヘルム1世という王様の下には、行政を取り仕切る長、首相が必要とされたのです。

ビスマルクの鉄血政策とは

ビスマルクが推し進めた鉄血政策はあまりにも有名ですね。

1862年、首相任命からまもないビスマルクは演説にて、ドイツ統一問題について次のように主張しました。
「ドイツ統一問題の解決には、フランクフルト国民議会のような演説や多数決によってではなく、鉄と血によってなされるのです」と。(わかりやすいよう補足してます)

要するに鉄血政策とは、プロイセン主導の小ドイツ主義でのドイツ統一について、ごちゃごちゃ言うやつらは話合いじゃなくて、戦争で決着つけようぜってことです。

そしてビスマルクはこれを有言実行します。

1866年 普墺戦争の勝利

1866年には、同じドイツ人国家の宿敵?オーストリア帝国と戦い、短期間で勝利してみせます。これが普墺戦争(ふおうせんそう)です。

この戦争をきっかけに、オーストリアはドイツ統一の主導権を完全に失い、プロイセン王国主導の小ドイツ主義が推し進められていきます。まずは22の領邦と3の自由都市をまとめて、北ドイツ連邦を作ります。

が、”北”とついているように、この時点では南側のドイツ諸国は、プロイセン王国側につかずにフランス側についていましたので完全統一ではありません。(地理的に、南にはフランスがあるので理解できるかと思います)

1870年 普仏戦争の勝利

ドイツ統一のためには、南ドイツをプロイセン王国側につけなければなりません。その邪魔をしているのはフランスなので、ビスマルクはフランスを挑発し戦争を仕掛けます。

19世紀後半のフランスといえば、ナポレオン3世の時代です。彼が戦争好きの対外政策野郎だったのはすでに解説しましたよね。

ナポレオン3世は挑発に乗り、普仏戦争に突入するのですが、ビスマルクの軍事力があまりにも強くて、あっさり捕虜になってしまい負けます。

1871年 ドイツの統一 -ドイツ帝国の誕生-

1871年、南ドイツ地域とも話をつけ、ついにドイツ統一!ドイツ帝国の誕生です。

あえてフランスの象徴ヴェルサイユ宮殿にて、ヴィルヘルム1世の皇帝戴冠式を執り行います

負けた敵国の誕生祭を自国の宮殿で行われたフランス人には、かなりの屈辱です。フランスはこの屈辱を、第一次世界大戦後にやり返します。倍返しです。

普仏戦争の勝利で、ドイツ帝国は多額の賠償金と、アルザス・ロレーヌ地方を獲得します。

アルザス・ロレーヌ地方を巡る問題は、結構受験では頻出なのでまとめておきます。現在のフランス北東部にあるこの地域は、ドイツと接している&土壌が豊か&当時のエネルギー源である石炭の採掘地ということもあり、頻繁に両国に求められ争われた場所です。

古くは三十年戦争の神聖ローマ帝国の敗北により、アルザス地方はフランスに併合されました。ロレーヌ地方も、元は神聖ローマ帝国領でしたが、1766年にフランス領になります。

そして今回!普仏戦争の勝利によって、再びドイツ帝国へと戻ったのです。そして、この後の第一次世界大戦でフランス領になり現在に至ります。

ドイツ帝国とビスマルク外交

ドイツ帝国の成立後も、ヴィルヘルム1世とビスマルク首相のコンビは続きます。

ビスマルクが行った外交政策によって、この時期のヨーロッパが型作られていき、ビスマルク外交と呼ばれました。方針はとにかく、フランスの再起阻止!

ヴェルサイユ宮殿で戴冠式まで行い、フランスの対ドイツ帝国感情は悪化の一途。せっかくドイツ帝国を作ったのに、周辺諸国やフランスに潰されては困るのでビスマルクは外交を慎重に行いました。

1873年 三帝同盟

ドイツ帝国の外交方針はフランスに倍返しされないこと。

そのために他の周辺諸国、特に背後を意識するのは大陸外交の鉄則です。もちろん、ロシアとオーストリアのことです。この3国で、三帝同盟を結びます。それぞれの国に皇帝がいるので、三 帝 同盟です。

が、残念ながらロシアとオーストリアは仲が悪くなってしまうのです。合コンに誘った男2人が、仲悪いという最悪の自体を思い浮かべて下さい。ビスマルクとしてはたまったものではないですね。

1877-78年 露土戦争とベルリン会議

ロシアはオスマン帝国の弱体化にともない、パン=スラブ主義を掲げて東ヨーロッパ地域に乗り出そうとしました。その結果、露土戦争を起こして勝利します。

しかしオーストリアもまた、東ヨーロッパ地域に進出しようとパン=ゲルマン主義を掲げました。(ドイツ統一の主導権もプロイセンに奪われてしまったので、東に目を向けたのです。あと、すぐそばにロシアが迫っているのは脅威だったのでしょう。)

おかげでロシアとオーストリアはバッチバチです。露土戦争に勝ったからと、サン・ステファノ条約にもとづいてロシアはブルガリアを貰おうとしますが、これにオーストリアは猛反発します。

友達と友達が喧嘩しはじめたので、ドイツ帝国ビスマルクは仲裁に入ります。それがベルリン会議です。とにかく両国が揉めるのは困るので、ビスマルクは公正なる仲介人を自称し、新たにベルリン条約を結ばせます。

喧嘩の原因、ブルガリアはとりあえずオスマン帝国内に置いておきます。オーストリアには、ボスニア・ヘルツェゴビナの自治権を与えて、とりあえず体裁だけは整えました。

が、ロシアの南下政策はドイツによって阻まれてしまいました。これによってロシアとドイツの亀裂は決定的になり、三帝同盟は崩壊します。

1882年 三国同盟

もうロシアとはダメだということで、新たに三国同盟をオーストリア・イタリアと結びます。この三国関係は、第一次世界大戦まで続きます。(でも実は、ロシアも怖いので、ちゃんと秘密同盟を結んでるんですけどね。外交に二枚舌はつきものです)

このように、フランスを徹底的に孤立させ、ドイツ帝国の安全を守ろうとしたのがビスマルク外交です。

1890年 ヴィルヘルム2世とビスマルク

自分を首相に任命してくれたヴィルヘルム1世は涙のお別れとなり、次に即位したのはわずか29歳の皇帝ヴィルヘルム2世。

彼はすっかりおじさんのビスマルクと考え方が合わず、互いに衝突し、最終的にはビスマルクが辞表を出して終わります。これにて、ビスマルクの時代は終了し、第一次世界大戦目前の世界へと入っていきます。

飴と鞭のビスマルク内政

ビスマルクは外交だけでなく内政も有名ですね。アメとムチ政策です。

ビスマルクのムチ政策1. 文化闘争

1つ目のビスマルクのムチは、南西ドイツ、つまりフランス寄りの地域のカトリック勢力の弾圧です。19世紀後半とはいえ、カトリック教会の政治への介入は未だに強くあり、ビスマルクはこれを嫌い、カトリック弾圧に乗り出しました。

これを文化闘争と呼びます。ちなみにプロイセンはプロテスタント中心に構成されている国家です。

プロテスタントとカトリックの対立関係は、ルターの時代まで遡ってみてください。

ビスマルクのムチ政策2. 社会主義者鎮圧法の制定

19世紀は、社会主義者たちが台頭してきた時代です。産業革命が、資本家と労働者を生み出し、両者の対立が生まれるのは必然です。

ドイツも1840年代に産業革命が起こり、社会主義者が台頭していました。

ビスマルクの出身はユンカー(地元貴族)ですので、どちらかと言うと資本家寄りの立場にあります。ドイツ帝国もユンカーたちを支持基盤に支えていました。

そんなユンカーたちにとって、労働者の解放を目指す社会主義者たちは脅威です。ゆえに、ビスマルクは社会主義者たちの台頭を阻止する社会主義者鎮圧法を制定しました。

ビスマルクのアメ -社会政策-

社会主義勢力の弾圧に乗り出したビスマルクですが、ドイツ帝国の経済を支える労働者たちを一方的に抑えつけては国が崩壊するので、労働者にアメもきちんと渡しました。

ビスマルクは、社会主義者を弾圧する一方で、なぜ社会主義者たちが生まれるのか?を考え、それは労働者たちの「貧困」にあると考えました。お金に困っているから、労働者たちが資本家に反発するのだという考え方です。

でも直接国家が国を個人にあげるのではなく、本当に困っている人の医療費を助けました。

一番大きいのは、医療保険制度を整備した点ですね。日本にも、世界的に評価が高い国民皆保険制度を敷いていますが、ビスマルクの整備した制度はその走りです。