10分でわかる世界史Bの流れ!近世ヨーロッパ(12)〜オーストリアとプロイセン〜

プロイセンとオーストリアについて詳しく解説していきます

【前回までのあらすじ】(9)三十年戦争の影響

1648年のウェストファリア条約によって、ドイツの諸侯たちに完全な主権が認められたことで神聖ローマ帝国の分裂状態が決定的なものになりました。まさに神聖ローマ帝国の死亡証明書です。

完全に有名無実化した神聖ローマ帝国の中で、2つの大きな諸侯が成長していきます。

プロイセンとオーストリアと神聖ローマ帝国の違い

本文に入る前に、多くの人が混同しがちのプロイセン・オーストリア・神聖ローマ帝国の違いについて明確にしておきたいと思います。

神聖ローマ帝国では基本的に皇帝の力が弱くて、地方の諸侯の力が強かったため大小300以上の領邦を抱えることになりました。(領邦とは小さな国のようなものです)

その神聖ローマ帝国の抱える領邦のうち、大きな2つがプロイセンとオーストリアです。

オーストリアの歴史

神聖ローマ皇帝でもあり、スペイン王でもあったカール5世(カルロス1世)の時代がハプスブルク家の全盛期でした。しかしあまりにも広大な地域を1人で支配することは難しく、ハプスブルク家は2つに分かれます。

その片方が、フェルディナンド1世が継いだオーストリア=ハプスブルク家です。かつてはハプスブルク家も神聖ローマ帝国内で権力と広大な領地を有していたものの、三十年戦争後は統治権を失い、領土も大幅に縮小してしまいました。

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<ウェストファリア条約後のオーストリア=ハプスブルク家の領地>

1683年 第二次ウィーン包囲

そんなオーストリアですが、実は三十年戦争後、再び大国化していきます。

カール5世の時以来にオスマン帝国が攻めてきますが(第二次ウィーン包囲)、見事に撃退。
1699年のカルロヴィッツ条約で、オスマン帝国からハンガリーを奪い領土を広げます

1701〜14年 スペイン継承戦争

スペインの王位継承権を巡って、オーストリアはフランス・スペインと対立します。

結果はオーストリア側の勝利で、フランスとラシュタット条約を結び南ネーデルラント(ベルギー)・ミラノ・ナポリ王国などを手に入れてさらに領土を広げます。

プロイセンの歴史

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プロイセンという言葉は今回が初めて出てきたかと思います。三十年戦争以降、北ドイツで勢力を伸ばしたのがプロイセンなのです。

12〜14cの東方植民によってエルベ川以東がドイツ人の居住地となり、1525年に建国されたのがプロイセン公国です。プロイセン公国は、代々ホーエンツォレルン家が支配しています。

そしてスペイン継承戦争では、オーストリアを支援したことでドイツNo.2の大国となり、王国へと昇格します。(以降プロイセン王国)

1713〜40年 フリードリッヒ・ヴィルヘルム1世

東方植民以降、グーツヘルシャフトという古代の封建社会のような農業システムで成長してきたプロイセンでは、大土地所有者であり貴族であるユンカーが国を支えていきます。

そんなプロイセン王国の軍事・行政・財政の基盤を整えたのが、フリードリッヒ・ヴィルヘルム1世です。

オーストリアとプロイセン王国の対立

スペイン継承戦争では手を取り合い共に戦ったオーストリアとプロイセン王国ですが、同じ神聖ローマ帝国内で仲良くできるわけもなく次第に対立していきます。

オーストリア継承戦争(1740〜48年)

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オーストリア=ハプスブルク家の家督を女性であるマリア=テレジア(在位1740〜80年)が継承することに、プロイセン王国のフリードリッヒ2世(在位1740〜86年)は反対します。

そこでオーストリア継承戦争(1740〜48年)が起き、プロイセン王国の勝利に終わり、オーストリアからシュレジェンを奪いました。

七年戦争(1756〜63年)

シュレジェンは肥沃な土地・豊富な資源を有したため、オーストリアのマリア=テレジアは何としてもこの地を取り返そうとしました。

そこで長らくハプスブルク家と対立してきた、フランスのブルボン家と手を組んだのです。イタリア戦争(1494~1559年)以来、ハプスブルク家とフランスは対立状態が続いていたのですが遂に同盟を結んだため外交革命と呼ばれています。

そこまでして挑んだ七年戦争でしたが、結果はプロイセン王国側の勝利に終わります。

七年戦争以降のプロイセン王国

戦争に勝利したフリードリッヒ2世は、国力の増強につとめました。

ヴォルテールの啓蒙思想に影響を受けて、フリードリッヒ2世は君主自らの主導で近代化を進めようとしました。(上からの近代化=啓蒙専制主義

しかし、大土地所有者であるユンカーを官僚などの中心に据え置き、農奴の立場はあまり良くなりませんでした。

七年戦争後のオーストリア

マリア=テレジアの子、ヨーゼフ2世はオーストリアにて啓蒙専制君主として上からの近代化を行いました。

ヨーゼフ2世はなんと農奴解放令など、近代国家らしい政策を進めようとしたのですが、貴族などの特権階級からの反発をうけて挫折してしまいました。

啓蒙専制君主とは?
これまで王権神授説に基づいて行われてきた、絶対王政。君主(王)は、神によって与えられた権利をもとに、時に無茶苦茶な政治をしてきました。
一方の啓蒙専制主義では、君主(王)は高い理性と知恵を持っているため、国民の行って欲しい政治を行ってくれるのだ!という考え方の下で、君主の権力が振るわれます。

が、どちらも絶対王政的であるといって構わず、実質的な差はあまりありませんでした。

10分でわかる世界史Bの流れ!近世ヨーロッパ(12)〜オーストリアとプロイセン〜

2016.11.13