10分でわかる世界史Bの流れ!近現代ヨーロッパ(4)〜第二次世界大戦〜

第二次世界大戦はなぜ起きたか

【前回までのあらすじ】(3)ファシズムの高まり

第一次世界大戦後の多額の賠償金・世界恐慌による経済不安・ブロック経済による植民地を持たざる国としての不満。これらによって、ドイツで生まれたナチ党ヒトラーの独裁体制。

ドイツ国民の期待を背負って領土拡大を狙うヒトラーと、第一次世界大戦のような大戦禍を恐れて宥和政策を取るイギリス・フランス。

英仏の弱気な姿勢につけ上がるヒトラーでしたが、1939年9月のポーランド侵攻に対して、英仏もついにドイツに宣戦布告します。

第二次世界大戦はなぜ起きたか?
  1. 第一次世界大戦後に課せられた多額の賠償金、海外植民地を全て奪われて「持たざる国」に、世界恐慌後の経済不安がナチ党・ヒトラーを生み出す
  2. ドイツ経済復興のためにナチ党は第一党となり、実際ドイツ経済を復興させる。領土拡大も積極的に行った。
  3. イギリス・フランスは第一次世界大戦への反省と、ドイツ後方の共産主義国ソ連が台頭するのを恐れて宥和主義を取ったため、ヒトラーが更に領土拡大を狙う
  4. これに日本・イタリアらがドイツと同盟を組んで、第2次世界大戦が始まる

第二次世界大戦の推移

1939-40年 ヨーロッパ戦線

1939年 9月ドイツのポーランド侵攻から始まる第二次世界大戦。

第二次世界大戦当初のドイツ軍の勢力は圧倒的でした。機動力を活かした戦車部隊が一点突破して大打撃を与える電撃戦を用いて、ポーランド、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、さらに1940年の6月にはフランスとわずか10ヶ月の間に次々ヨーロッパ各国を制圧していきます。

ソ連もドイツ同様にフィンランド、バルト三国を併合。イタリアも、ドイツ優勢の状況を見て1940年の6月に参戦します。

イギリス・フランス連合軍はドイツ軍に追い詰められ33万の兵士がフランスのダンケルクという都市からヨーロッパ大陸からの脱出を図ります。

イギリスではドイツ侵攻を止められなかったネヴィル・チェンバレンに代わって、チャーチルが首相になります。

英仏連合軍を追い出してヨーロッパのほとんどを支配したドイツ。残るはイギリス本土のみです。本土制圧の前に制空権を握ろうと、航空戦を開始します。バトル・オブ・ブリテンです。

ドイツ軍の空襲に対して、イギリス側は最新鋭のレーダーで敵航空隊の位置を正確に捕捉して、空襲を耐え抜きイギリス本土上陸を防ぎました。

イギリス上陸を諦めたドイツ軍は、北アフリカで苦戦するイタリアの支援、さらにはバルカン半島に戦線を広げてギリシャ、ユーゴスラビアを占領します。

しかしドイツのバルカン半島侵攻を嫌気したのはソ連でした。ソ連にとってバルカン半島への南下政策は伝統的な目標であったため、ドイツとの戦いの準備を始めます。1941年4月、ソ連軍を西のドイツ側へと集中させるためにも東側の日本と日ソ中立条約を結びます。

1941年 独ソ戦の開始

1941年6月、バルカン半島への進出によってソ連との関係が悪化したことを悟り、ヒトラーは独ソ不可侵条約を無視して、ソ連へと侵攻を始めます。独ソ戦の開始です。

奇襲を食らったソ連軍はドイツ侵攻を阻むことができず、12月にはモスクワまで侵攻されます。

しかしソ連軍はうまく後退戦を行い、ドイツは最前線のモスクワまで兵力・物資を送ることができず、モスクワの冬の寒さに苦戦に陥ります。

1812年のナポレオンのモスクワ遠征を彷彿させる、1941年のドイツ軍のソ連侵攻。ヒトラーが反共産主義、殲滅戦にこだわったのが失敗でした。

独ソ戦が始まったことにより、ドイツが共通の敵となったイギリスとソ連は、すぐに同盟を結びます。

独ソ戦が始まった1941年、第2次世界大戦においても孤立主義を維持していたアメリカがついに介入します。イギリスを支援してドイツ軍の進撃を止めるために、武器貸与法を定めてで同盟国へ軍需品・武器を支をすることを決めます。独ソ戦開始後は、ソ連側も支援しています。

1941年 太平洋戦争の開始

日本が第2次世界大戦に関わるのは1941年12月からです。

1937年から中国との全面戦争(日中戦争)を行っていた日本ですが、戦争は当初の見込みに反して長引き泥沼化していました。

戦況打開のために資源を求めて南方へと進出して、フランス領インドシナに侵略します。これに反感を示したのはアメリカでした。日本への石油輸出の全面禁止を行います。一方日本は1940年に三国防共協定を、日独伊三国同盟へと発展させて、明確にアメリカとの対立姿勢を示していきます。

日本とアメリカの間で対立が深まる中、何度も交渉が行われていますが、結局お互いが妥協できずに終わります。当時の日本では貴族出身の近衛文麿このえふみまろが首相でしたが、アメリカとの戦争を嫌がり辞職。次の首相に選ばれたのは陸軍大臣の東条英機とうじょうひでき。アメリカとの開戦に猛る陸軍を抑えられるのは、陸軍出身の東条英機しかいないとの采配で、昭和天皇からもアメリカとの戦争を回避するように念押しされていました。

アメリカとの協調路線を行こうとした東条英機ですが、アメリカ国務長官からの要求がまとめられたハル=ノートを受け入れられず開戦に踏み切ります。

1941年12月ハワイの真珠湾を奇襲して、太平洋戦争が始まります。日本は「大東亜共栄圏の建設」を戦争のキャッチフレーズにして、欧米列強のアジア支配からの解放者の建前でマレー半島・香港・シンガポール・インドネシア・フィリピンといった東南アジアを次々と占領していきます。

しかし1942年の6月ミッドウェー海戦での大敗北、1943年2月にガダルカナル島での敗北したことを転機にアメリカ優勢の戦況となります。1942年後半から、枢軸国では敗戦ムードが漂い始めます。

1943年 スターリングラードの戦い終結

独ソ戦の中で最も激しい戦いとなったスターリングラードの戦い。凄惨な市街戦が繰り広げられ、ドイツ軍は極寒の中、食料・武器を維持することができずにソ連軍に包囲されてしまいます。

ドイツ陸軍は撤退を図りますが、ヒトラーが撤退を許さず膠着状態に。結局1943年1月に陸軍の判断で降伏し、ソ連に敗北を喫します。

スターリングラードの戦いでの敗北、ドイツ軍は各所で後退を余儀なくされます。

1943年 イタリア 無条件降伏

イタリアは軍事力が弱くて戦線を自力では維持できず、ドイツ軍に支援してもらっていました。

緒戦での敗戦の知らせがイタリア国内でのムッソリーニ独裁政権への反発を招きます。1943年7月にイタリアのシチリア島に連合軍が上陸したことを機に、イタリア軍がクーデターを起こします。ムッソリーニは失脚に追い込まれ、新政権は連合軍に無条件降伏します。

1944年 ノルマンディー上陸作戦

1944年6月、後退するドイツ軍に対して、アメリカ中心の連合軍はフランス北西部にてノルマンディー上陸作戦を成功させます。1週間で50万人もの軍が上陸し、ドイツ軍をさらに後退させて8月にはパリを解放します。

1945年5月 ドイツ 無条件降伏

ドイツ軍はソ連領内からも追い出され、1945年2-3月にはドレスデンへの大規模空爆が実施されます。

本国にまで乗り込まれ、敗戦を覚悟したヒトラーは1945年4月に自殺。5月には無条件降伏します。

1945年8月 日本 無条件降伏

日本は1942年以降、太平洋での各戦いで連敗。1945年4月には沖縄に上陸をされ、5月には東京大空襲が行われます。

7月にアメリカ・イギリス・中国(後にソ連)がポツダム宣言にて、日本の無条件降伏を勧告。1945年8月6日広島に9日には長崎に原子爆弾が投下され、両都市は壊滅。

8月14日、日本もついにポツダム宣言を受諾して無条件降伏を行い、8月15日には全国民に玉音放送にて天皇より終戦が告げられました。

ちなみに8月8日は、土壇場でソ連が日ソ中立条約を無視して日本に宣戦布告。8月15日以降もソ連軍による侵攻は続き、日本の択促えとろふ国後くなしり色丹しこたんはごまいの4島を占領され、現在まで続く北方領土問題となっています。また武装解除してソ連軍に投降した50万以上の日本人はシベリアへ移送されて強制労働をさせられました。これがシベリア抑留よくりゅうです。

第二次世界大戦の影響

第二次世界大戦はヨーロッパから北アフリカ・西アジア、さらには東アジア・太平洋諸国・アメリカと世界を股にかけて行われた史上最大の大戦争でした。

死者数は、諸説ありますが約5500万人。世界が戦争の勝利に総力を上げ、特に科学技術は大きく発展しました。レーダー、長距離ミサイル、そして原子爆弾。

またソ連・ドイツでは人種・宗教差別が原因で、大量虐殺(ホロコースト)が起きたことも忘れてはいけません。ユダヤ人だけではなく、身体障害者、同性愛者も殺されました。

第2次世界大戦後、人々は平和への道を歩もうと国際協調を掲げようとする一方で、アメリカ(資本主義国家)とソ連(共産主義国家)の対立構造が深まっていきます。

またアジア・アフリカ諸国での独立運動も第2次世界大戦以降、活発になっていきます。

第二次世界大戦後の体制

世界的に第二次世界大戦が終結したのは、1945年9月2日に日本が降伏文書に調印した時とされています。

第二次世界大戦後の世界の構想については、戦中から既に連合国側で話し合われてきました。主導権を握ったのは、連合国勝利に大きな役割を果たしたアメリカとソ連です。戦後の世界は両国の対立が深まることになります。

1941年8月 大西洋憲章

アメリカが太平洋戦争に参戦するよりも前の1941年、アメリカ大統領フランクリン=ルーズベルトと、イギリス首相チャーチルとの間で、第二次世界大戦後の戦後処理について話し合われました。そこで合意された内容が大西洋憲章で、平和を目指して、国際協調を進めることを基本思想としています。

しかし終戦から4年も前の会談なので、具体案はもちろんまだです。

1943年 カイロ宣言

アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリス首相チャーチル、中国 蒋介石の3者で話し合われたカイロ会談

対日戦後処理について話し合われ、占領している中国の領土を全て返還することなどが決められました。

1945年2月 ヤルタ宣言

1945年にアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリス首相チャーチル、ソ連首相スターリンの3者で話し合われたヤルタ会談

ドイツの米・英・ソ・仏の4カ国で分割管理すること、ソ連の対日参戦などが決められました。

1945年 4-6月 サンフランシスコ会議

日本が終戦を宣言する少し前に連合国50カ国は、サンフランシスコ会議を開いて戦後の国際協力体制について話し合われ、国際連合を発足することが決まります。(いわゆる”国連”と呼ばれているやつです)

現在の国際連合の加盟国は193カ国で、アメリカ・フランス・イギリス・ソ連・中国の5カ国が安全保障常任理事国をつとめています。戦後、国際的な紛争や、人権・平和・環境問題に関する事柄が国際連合での話し合いを元に決められていきました。

国際連合の他にも、UNESCO(国際連合教育科学文化機関)、ILO(国際労働機関)、WHO(世界保健機関)などの国際機関も次々と設立されます。

2001年には国際連合に対してノーベル平和賞が与えられています。第2次世界大戦後の平和の一旦を担ってきたのは間違いないです。

第2次世界大戦後のドイツと日本

第二次世界大戦後のドイツ

戦後ドイツではニュルンベルク国際軍事裁判所が設置され、ナチス=ドイツ指導者たちが裁かれました。

第二次世界大戦後のドイツは、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4カ国分割統治が行われることが決まりました。

またソ連領域内の首都ベルリンの中でも、さらに4カ国分割統治が行われます。当初はドイツが再び主権国家として1つにまとまることが目指されていましたが、米ソ対立が明確になると、ドイツは冷戦の影響を激しく受けることになってしまいます。

第二次世界大戦後の日本

日本でも極東国際軍事裁判所が設置され、東条英機ら7名が死刑判決を受けました。

第二次世界大戦後の日本は、1945-52年まで事実上アメリカによって占領下におかれます。GHQのマッカーサー主導の下、日本軍の解体と日本の民主化を目指しました。

すぐに1946年には日本国憲法が作られ、天皇は象徴・戦争の放棄などが謳われました。

しかし戦後すぐに共産主義国がアジアで台頭し始めると、日本はアジアの反共産主義国の先やりとしてアメリカから利用されるようになります。1950年にはGHQの指示により警察予備隊(朝鮮戦争停戦後の1954年より自衛隊に改称)が設置され、日本の再軍備が始まります。

日本の再軍備については、常に戦争放棄を謳った日本国憲法9条との矛盾が問題として指摘されています。

2015年には集団的自衛権(同盟他国が戦争状態に入ったときに、日本も戦争支援すること)が安倍政権の下で認められました。果たしてこれは憲法違反か否か、は盛んに議論が行われました。