10分でわかる世界史Bの流れ!近代ヨーロッパ(5)〜ウィーン体制の崩壊〜

ナポレオン戦争の後処理 -ウィーン体制-

【前回までのあらすじ】(3)ナポレオンの栄枯盛衰

ナポレオンは1799年のブリュメール18日のクーデター以来フランスのtopに君臨し続け、西ヨーロッパのほとんどを征服してみせました。しかし1813-14年のライプツィヒの戦い(諸国民戦争)で敗北して、皇帝を退位します。

ナポレオン戦争が荒らしたヨーロッパの秩序を整えようと列強は、ウィーン会議を開きます。ウィーン会議で決められたことは、フランス革命がもたらした自由主義・ナショナリズム(国民主義)を否定したものでした。

自由主義とナショナリズムとは?

この記事以降で頻発することになるであろう「自由主義」と「ナショナリズム」について定義を明確にしておきたいと思います。

まず自由主義とは、「個人の自由を最も尊いものとし、絶対王政などの国家から強く縛られることを嫌う考え方・思想のこと」です。具体的に自由主義者たちは、自由な経済活動・貴族制などの特権階級の廃止、政府の行動を縛る憲法の制定、議会の設置、平等な選挙などを求めます。

続いてナショナリズム。これは定義が非常に難しいですが、国民・民族で形成される国民国家を求める運動のことです。このナショナリズム運動が理由で、ドイツやイタリアは統一され1つの国民国家を形成していきます。

ウィーン体制による国際秩序の確立

1814-15年に開かれたウィーン会議では、ヨーロッパ各国が集まってフランス革命・ナポレオン戦争が起きる前の時代の状態を維持することが決まります。

1814-15年 ウィーン会議

1814-15年にヨーロッパ各国の代表がオーストリアのウィーンに集結しました。目的はフランス革命・ナポレオン戦争後の後処理です。

この会議に出席したフランスの代表タレーランは、フランス国土が他国に分割されることを恐れて正統主義を提唱します。(敗戦国ですから、フランス分割の可能性もあったわけです)

正統主義とは、フランス革命以前の王朝による支配こそが正しい状態であり、自由主義に基づく革命を否定するということです。

この正統主義を基に会議を進めようと決まりますが、各国が腹の下で画策しているのは領土の拡張。費用をかけて戦争をしたのですから、見返りがないと国家運営は務まりませんからね。

各国が領土拡張を目論みて会議が進まない一方で、豪華な舞踏会がたびたび開かれたため、ウィーン会議は「会議は踊る、されど進まず」と風刺されることになります。

ただ1815年にナポレオンがエルバ島を脱出して戦争を企んでいるという知らせを受けてからは、列強はウィーン会議を急いでまとめます。

ウィーン会議の決定事項

1.ロシア皇帝がポーランド王に

ナポレオンが建てたワルシャワ大公国の後処理として、ポーランド王国を成立させます。その王には、ポーランド人・・・ではなくロシア皇帝が就任することになります。

2.イギリスが旧オランダ領であったセイロン島(スリランカ)・ケープ植民地を獲得

イギリスがインド洋のセイロン島と、南アフリカにあるケープ植民地を獲得します。今後イギリスが世界展開を目論んでいることを示唆しています。

3.オランダ立憲王国の復活と、ベルギーの併合

フランス革命中にオランダ全土はフランスに支配されていましたが、ウィーン会議によってオランダ王国が復活します。そして南ネーデルラント地域であったベルギーが、オランダ王国に併合されます。

かつてネーデルラント北部7州と南部10州は分離しましたが、それが初めて併合された形です。

4.ドイツ連邦の成立

ナポレオンがライン同盟を成立させたことで神聖ローマ帝国は消滅しました。そのライン同盟もナポレオンの失脚とともに消滅。

後釜として成立したのがドイツ連邦です。35の君主国と4の自由都市から形成されており、決してドイツとして1つにまとまっていたわけではないので、統一運動が激化します。

5.スイスを永世中立国として承認

三十年戦争後のウエストファリア条約で独立国として承認されたスイスでしたが、スイス内部での対立が頻発して1国家としてまとまることができずにナポレオンに征服されてしまいました。

そこで、スイス代表はウィーン会議で「スイスを永世中立国にすることがヨーロッパの安定に繋がるのだ」と主張しました。

永世中立国とは、他国と武力同盟を結ぶことはしないし他国の戦争にも参加しないという独立・中立が保証された国だということです。

スイスは永世中立国になることで国として1つにまとまるようになります。

1815年〜 ウィーン体制の確立

正統主義以外で、ウィーン会議で決められたことは勢力均衡の原則です。国同士の勢力が拮抗していれば、平和を維持することができるだろうという考え方のことです。(上5つに代表されるような領土の調整によって、ヨーロッパの勢力は均衡化され、国際秩序は維持される!と決まったのです)

ウィーン会議を終えた1815年以降の19世紀前半のヨーロッパの国際体制をウィーン体制と呼びます。

正統主義・勢力均衡の原則の2つを下にウィーン体制は成立し、自由主義・ナショナリズムを抑えつけてフランス革命以前のヨーロッパ世界に戻そうとしたため、国際的反動体制と呼ばれています。

反動とは、あるべき流れを逆らって反対の動きをするという意味です。ウィーン体制は自由主義の流れに逆らったので反動的です。

ウィーン体制維持のための同盟結成

ウィーン体制が成立して以降、ヨーロッパ各国はウィーン体制の維持のための同盟を次々と組み始めます。

1815年の9月、ロシアのアレクサンドル1世の提唱によって、神聖同盟が結成されます。イギリス・ローマ教皇・オスマン帝国以外のヨーロッパ国全てがウィーン体制維持のために参加しました。

1815年のイギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンの間で成立した同盟が、四国同盟です。この四国同盟は1818年にフランスの加入が認められ、五国同盟が結成されます。当時のヨーロッパの大国が見事に同盟を組んだ形となりますね。

フランスから始まるウィーン体制の動揺

ヨーロッパ各地で広まる自由主義・ナショナリズム運動

ウィーン体制が成立しても、ヨーロッパの一般市民たちは自由主義・ナショナリズムを求めました。

ドイツでは自由と統一を求めて、学生組合であるブルシェンシャフトが結成されます。
他にもスペインでは立憲革命、イタリアでは秘密結社カルボナリの蜂起、ロシアではウィーン体制を象徴する存在であったアレクサンドル1世の死によってニコライ1世が即位する際にデカブリストの乱などが起きますが、ことごとく鎮圧されます。

やはりウィーン体制の世界を変えるような革命は再度フランスで起こるのです。

フランスのシャルル10世に対する不満

ナポレオンの失脚以降、ブルボン朝が復活して王政復古を行ったフランス。復活して最初の王はルイ18世が就きますが国民からの人気はありませんでした。

続いてシャルル10世が王位につきます。シャルル10世は貴族・聖職者を重視するようなフランス革命前の身分制を彷彿させる政治を行ったためさらに人気がありませんでした。まさにウィーン体制にのっとった政治ですね。国民の不満をそらすためアルジェリア出兵を行ったりしますが、そんなことで自由主義の火は収まりません。

フランスの1830年のアルジェリア出兵は、1880年代に起きるアフリカ分割の先駆けとみなすこともできます。

1830年 七月革命とルイ=フィリップの即位

<ドラクロワが七月革命をテーマに描いた「民衆を導く自由の女神」>

シャルル10世によるブルボン朝を打倒するために、パリに市民が終結して七月革命が起こります。これに対してシャルル10世はイギリスへ亡命し、ブルボン朝は倒されました。

代わりにフランスでは新政府として七月王政が誕生します。フランス国民は共和政を望んだでしょうが、かつてのフランス第一共和政の恐怖政治をブルジョワジーは恐れて立憲君主制を成立させ、国王にルイ=フィリップを即位させます。

さらに七月王政での議会は、保有している財産が一定以上でないと選挙権が得られない制限選挙でした。(実質、上層ブルジョワジーのみ政治に参加できる仕組みです)七月王政の議会を支配した上層ブルジョワジーは、自分たちに優位な政策ばかり行い、フランス国民の不満を高まらせます。

なんとフランス全人口の0.6%の高額納税者しか選挙権がありませんでした。

七月革命のヨーロッパ各国への影響

フランスで起きた七月革命はヨーロッパ各国に自由主義・ナショナリズムの波を広げます。

1830年 ベルギーの独立

1830年に七月革命の影響を受けた南ネーデルラントの市民が蜂起し、オランダから独立します。ベルギー立憲王国の独立です。ウィーン会議で決められた併合が早くも覆った結果となります。

1830-31年 ポーランド・ドイツ・イタリアで蜂起

七月革命の影響で、ポーランド・ドイツ・イタリアでも蜂起が起きますがこちらはそれぞれ鎮圧されてしまいます。

フランスから始まるウィーン体制の崩壊

1830年の七月革命によってウィーン体制は動揺し、1848年の二月革命によってウィーン体制は崩壊します。

1848年 二月革命

七月王政では極端な制限選挙によって議会を上層ブルジョワジーが支配していたため、フランス国民の間では選挙法改正運動が頻発します。

この選挙法改正の運動をフランス政府が力で抑えつけようとしたことに学生などが蜂起して、二月革命が起きます。二月革命によって七月王政のルイ=フィリップは亡命し、新しく共和政の臨時政府が誕生します。フランス第二共和政の成立ということで、国民公会以来の共和政ですね。

1848年 四月普通選挙

臨時政府では、二月革命で活躍した社会主義者のルイ=ブランが入閣しました。

だが同年四月に憲法制定会議のために行われた男子普通選挙ではルイ=ブラン率いる社会主義派は惨敗し、穏健共和派が過半数を占めました。

1848年 六月蜂起

社会主義派の選挙での惨敗に対して、社会主義派を支援していた労働者たちは暴動を起こします。これが六月蜂起ですが、政府によって鎮圧されます。

1851年 ルイ=ナポレオンのクーデター

四月選挙で集められた会議で新たな憲法が制定され、臨時政府では大統領を敷くことが決定します。この大統領に当選したのが、ナポレオンの甥、ルイ=ナポレオンです。

ルイ=ナポレオンは、おじさんに当たるナポレオンの名声を利用して見事大統領に当選。1851年にはクーデターを起こして臨時政府の議会を解散させ、1852年には国民投票が行われ圧倒的支持のもと皇帝に即位します。

第二共和政は終わり、ルイ=ナポレオン(ナポレオン3世)によるフランス第二帝政の始まりです。

二月革命のヨーロッパ各国への影響

<1848年革命をテーマにした風刺画>

七月革命ではベルギーの独立、ドイツ・イタリア・ポーランドでの蜂起といった影響を与えましたが、二月革命はオーストリア・ドイツに革命を起こします。これをそれぞれ三月革命と呼びます。(1848年の3月に起きたからですね)

他にも二月革命は、ボヘミア・ハンガリー・イタリアでナショナリズムを高揚させ、民族運動を起こします。(諸国民の春)

こういった1848年に立て続けに起きた革命・民族運動のことを、1848年革命と総称します。1848年革命によって自由主義・ナショナリズムを抑圧しきれなくなったウィーン体制は崩壊します

1848年 三月革命 in ウィーン

フランスの二月革命に影響を受けたオーストリアの都市ウィーンの市民は、三月革命を起こしウィーン体制・反動体制の象徴でもあるメッテルニヒを追放します。

1848年 三月革命 in ベルリン

<ドイツ統一のために国旗を掲げている>

ドイツ連邦の最大領邦であるプロイセン。その首都ベルリンでも二月革命に影響を受けた市民が三月革命を起こします。

三月革命によってドイツの統一の動きが高まり、各連邦の自由主義者が集まりフランクフルト国民議会を開きます。

フランクフルト国民議会での最大の争点は、「広大なオーストリア帝国のドイツ人居住地域を、これから作ろうとしている”統一ドイツ”に含めるかどうか」でした。

つまり議会は大ドイツ主義小ドイツ主義の2つで分裂します。大ドイツ主義とは、オーストリアに住むドイツ人も含めてドイツを統一すること。小ドイツ主義とは、オーストリアに住むドイツ人を含 め ず にドイツを統一することです。

最初の議会の中では、ドイツ人で構成される統一ドイツが良いに決まってるじゃん!と大ドイツ主義が優勢でした。が、オーストリアがそれでは困ります。オーストリア帝国は多民族国家で、ドイツ人以外の人々も抱え込んでいました。もし、大ドイツ主義が採用されれば、オーストリア帝国は分裂してしまいます。これを嫌がったオーストリアがゴネて、結局小ドイツ主義が採択されました。

そこでドイツ系の国で最も力を持っていた、プロイセン国王を新たな統一ドイツの皇帝にしようとしますが、プロイセン国王はこれを拒否したためフランクフルト国民議会は空中分解してしまいます。

まぁ、色々とごたついてしまったので統一が遅れたのです。

1848年 ボヘミア・ハンガリー・イタリアでの民族運動(諸国民の春)

二月革命の影響でヨーロッパ各地でナショナリズムが高揚し、民族運動が起こり独立気運が高まります。ボヘミア・ハンガリー・イタリアのそれぞれで民族運動が起こりますが、全て鎮圧されます。

ハンガリーではコシュートが独立の旗を振りましたが、オーストリア・ロシアによって鎮圧されてしまいます。

こういった1848年の民族運動の総称を諸国民の春と呼びます。

10分でわかる世界史Bの流れ!近代ヨーロッパ(6)〜19cイギリスの自由主義政策〜

2017.02.04