10分でわかる世界史Bの流れ!近世ヨーロッパ(13)〜ロシアの強国化〜

東ヨーロッパの大国ロシアの歴史を見ていく

【前回までのあらすじ】中世ヨーロッパ(5)東ヨーロッパ世界

以前ロシアについて扱ったのは、かなり前の記事ですね。前回の記事ではプロイセンとオーストリアについて解説しましたが、今回はさらに東のロシアに焦点を当てていきます。

ロシアの始まり イヴァン3世

ロシアはかつて長い間モンゴル人に支配されていました。

1237〜40年にモンゴル帝国のバトゥ率いる遠征軍がやってきて、南ロシアにキプチャク=ハン国を建てました。比較的ゆるい支配であったものの、その支配は1480年まで続きました。

そして見事、キプチャク=ハン国から独立してみせたのがイヴァン3世です。1480年に独立して、モスクワ大公国となります。(ちなみに、「ロシア」という言葉は15c末のこの頃に初めて書物に現れました)

イヴァン3世は自らをツァーリ(皇帝)であると自称をしました。(あくまで自称であり、公式ではありません)

さらにイヴァン3世は、農民が勝手に移動することを禁じました。移動の自由の制限を行ったのです。つまりは、農奴制が強化されたといえます。

1533〜84年 イヴァン4世

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時は流れて、16世紀のモスクワ大公国。イヴァン3世の孫である、イヴァン4世が即位します。イヴァン4世は、ツァーリとして戴冠式を行い、正式にロシア皇帝になりました。

イヴァン4世は、これまで政治の実権を握ってきた貴族の力を抑えて、中央集権的な政治を作り上げます。その手腕を恐れられて、「雷帝」という称号すらつけられました。

イヴァン4世は、領土拡張の面でも成功しています。当時、ロシアでは農奴制が行われており、それに反発したロシア辺境の農民たちはコサックという独立戦士団を作り上げていました。

そのコサックの首長、イェルマークが征服したシベリア地域をロシアのものに組み込んでしまいました。こうしてロシアのアジア進出が進んでいきます。

1613年〜ロマノフ朝の開始

イヴァン4世の死後、多少内乱があったものの、ミハエル=ロマノフが皇帝に選ばれたことでロマノフ朝が始まります。

しかし、新しい支配者であっても専制支配と農奴制は全く変わることはありませんでした。

1670年には、厳しい農奴制から逃れた農民たち(コサック)が武装集団を組織して反乱を起こします。この農民反乱のことをステンカ・ラージンの反乱と呼びます。(この反乱の時のコサックのTopが、ステンカ・ラージンという人でした。)

農奴制が産んだ反乱でしたが、ロシア帝国に鎮圧されます。

1682〜1725年 ピョートル1世

ピョートル1世とロシア西洋化

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ステンカ・ラージンの反乱が鎮圧された後、ロシアの有名な皇帝の1人であるピョートル1世が即位します。

ピョートル1世は、みずから西欧諸国の視察に出向いて西洋化の改革を実行した皇帝です。ロシアは当時の西ヨーロッパ諸国に大きく遅れをとっており、近代化が必要だったのです。

ピョートル1世の西洋化を促したエピソードとして、貴族のあご髭を切らせたというのは有名です。ロシアの伝統的な風習である、あご髭を無くさせてまで西洋化を促進させたかったのですね。(さらに髭に課税をして、国民にまで髭を伸ばさせないようにしました)

ピョートル1世と領土拡大

ピョートル1世は軍事力を拡張して、領土の拡大にもつとめました。

まずは西側。バルト海という北欧の海を支配していたスウェーデン(カール12世)と対立して、北方戦争を起こします。当初はスウェーデンにおされ気味でしたが、その後勝利し、バルト海の覇者となります。

また東側では、イヴァン4世が手に入れたシベリア進出を押し進めました。たくさんの冒険家・商人が東方へと進出する中で、この動きを警戒したのが中国の清朝です。

お互いの領土はどこまでなのかをはっきりさせるため中国・ロシア間で多少の戦闘行為が行われた後、ネルチンスク条約という国境協定が結ばれます。

さらに南方では、オスマン帝国から領土を一部奪い、今後ロシアの伝統行事?となりうる南下政策の基礎を固めました。ロシアの南下政策は、永遠のテーマかもしれません。(ロシアは寒いですから、北の凍った海から船を出すことができません。ロシアにとって国外に進出して商業・戦争を行うには、凍らない港=”不凍港”の獲得が非常に重要だったのです)

軍事から慣習まで幅広い面で改革を行ってロシアの基礎を作ったピョートル1世でしたが、ロシアの最も遅れた制度である農奴制にはノータッチでした。農民の生活はまだ改善されませんね。

ピョートル1世とペテルブルクへの遷都(1712年)

<世界史の窓より>

ピョートル1世は、1712年にペテルブルク(現サンクトペテルブルク)へと遷都しました。

北方戦争にてスウェーデンに勝利し、バルト海を支配しましたよね。バルト海の向かいであるペテルブルクを首都とすることが、貿易上都合が良かったのです。

ちなみに、ここはトルコのイスタンブールと同様、地名がコロコロ変わった都市です。
1914年にペトログラード(WW1の敵国ドイツ風の名前を嫌ったため)、1924年にレニングラード(レーニンを偲んで)、1991年にサンクトペテルブルク(ソ連崩壊のため)へと変化していきました。

1762〜96年 エカチェリーナ2世

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エカチェリーナ2世と領土拡大

ピョートル1世の後、何度か皇帝が入れ替わった後、エカチェリーナ2世が即位します。彼女はロシアの女性皇帝です。

西側では、ポーランドの分割に乗り出しました。ポーランド王国の弱体化によって、ロシアのエカチェリーナ2世がポーランドを保護領化しようとしたのですが、そこにプロイセンのフリードリッヒ2世・オーストリアのヨーゼフ2世が話しに割って入り、第1回ポーランド分割が行われます。(同じ時代だからですけど皆、啓蒙専制君主です)

続いて東側。さらにシベリア進出を進め、ついに東の果てオホーツク海に辿り着きます。(ロシアは本当に広いですね)
1792年にはラクスマンを日本に派遣しますが、江戸幕府によって交渉拒否されます。

南側では、クリミア半島をオスマン帝国から奪います。

エカチェリーナ2世と啓蒙専制君主

エカチェリーナ2世は、代表的な啓蒙専制君主です。

様々な改革を起こそうとして上からの近代化を目指しますが、プガチョフの農民反乱が起きた後は反動化して、逆に農奴制を強めてしまいました。農奴解放は遠のくばかりです。

ポーランドの歴史

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最後に、ポーランドの歴史について少し触れておきます。

ポーランドでは、16世紀にヤゲウォ朝が断絶してからは衰退の一途をたどります。国内の貴族たちは互いに対立しあって、国がまとまらずに、ロシア・プロイセン・オーストリアなど隣国の干渉をまねきます。

これが1772年の第1回ポーランド分割です。3国に、ポーランドは分割支配されました。

続く1793年、再びポーランドが近代化してまとまろうとしたところを、第2回ポーランド分割が行われます。プロイセンとロシアによって、2国分割支配が行われたのです。

1794年には、コシューシコ率いる義勇軍がポーランド分割に対して立ち上がりますが、ロシア軍によって鎮圧されます。

そして1795年に第3回ポーランド分割がロシア・プロイセン・オーストリアによって行われて、ポーランド国家は以降100年間、消滅してしまいました。

10分でわかる世界史Bの流れ!近世ヨーロッパ(14)〜ヨーロッパの海外進出〜

2016.12.03

9 件のコメント

    • ご指摘ありがとうございます!たしかに、冷静に考えるとおかしいですね。「皇帝の座に即位した」が正しそうですね

  • いつも参考にさせていただいております。
    烏滸がましいようですが、ピョートル1世のペテルブルクに遷都した事は重要では?

    • 恐らく、ペテルブルク→ペトログラード→レニングラード→サンクトペテルブルクの流れに沿って問題が出ることを想定してということですよね。
      確かに入れておいたほうが良さそうなので、書き足します!ありがとうございます。
      (ちなみに教科書では、下に小さく書いてあるレベルです)

  • 今回このおかげで友達に教えたり、勧めたりできたし、なにより内容理解がすぐできて感謝していますTT
    また、期末テストでも活用させていただきます。本当にありがとうございますTT

  • 「ロマノフ朝の開始」の一文目のところですが、ミハエル=ロマノフではなく、ミハイル=ロマノフではないでしょうか。

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