10分でわかる世界史Bの流れ!近現代ヨーロッパ(5)〜大戦中のロシア〜

大戦中の激動のロシア

【前回までのあらすじ】(2)第一次世界大戦(4)第二次世界大戦

これまで第一次世界大戦と第二次世界大戦後の流れを4回に分けて解説してきました。その中でもかなり大きな変化が起きた国といえばロシア(ソ連)、ドイツ、アメリカです。

その中でもロシアについて今回の記事は焦点を当てていきます。

第一次世界大戦中のロシア革命によって、ロマノフ朝ロシア帝国が崩壊して、世界初の共産主義国家であるソ連ができ、第二次世界大戦では勝戦国として戦争を終えます。

ソ連は第一次世界大戦〜第二次世界大戦の間に何をしたのか?詳しく見ていきます。

社会主義と共産主義の違いとは

社会主義とは、資本主義の矛盾を解消するために、労働者にとって経済的に平等な社会の実現を政府が目指す思想のことです。私有財産を認めず、国家による計画経済によって、富の再分配を行い平等な社会を目指します。

一方で共産主義とは、社会主義の理想形なのです。どのような計画で経済を回していくか国家/政府が決めなくとも、人々の平等が保たれている社会。理想郷です。厳密には歴史上、共産主義の社会システムが達成できた国家はないです。

が、理想を目指して共産主義を標榜した国家が、ソ連以降たくさん出てくることになります。それらを”共産主義国“と呼びます。

第一次世界大戦前のロシア帝国

1861年のアレクサンドル2世による農奴解放令で公式には農奴という身分はロシアから消えましたが、それまでの習慣というのはなかなか消えません。地主に虐げられる農民たちの不満は、ロシア社会に漂ったままでした。

さらに1890年代にロシアでも産業革命が起きて、資本家と労働者が生まれて、両者の格差が広がることで、労働者の社会への不満もまた高まります。

そんなロシア社会の民衆の不満が高まる一方で、ロマノフ王宮では豪華な暮らしぶり。貴族制も認められていて、農民や労働者のロマノフ王朝への不満は20世紀に入ると最高潮に達します。

それが爆発したのが1905年の血の日曜日事件です。

当時のロシア帝国は西欧諸国同様に、帝国主義に従って領土拡大を目指し、満州・朝鮮半島の獲得を目指します。そこで対立したのが日本。1904年の日露戦争の始まりです。

しかし農民や労働者は、自分たちの生活待遇を改善することなく、ロマノフ王朝が戦争を行うことが許せませんでした。首都ペテルブルクにて多くの民衆は皇帝に食糧不足の解消を求めたのに対して、警備隊がこれに発泡。これが血の日曜日事件です。約1000人が亡くなり、王朝への不信感が一気に高まります。

ロシア全国でデモが起こりましたが、1905年の段階では革命は起こらず。ニコライ二世が「十月宣言」にて、国会(ドゥーマ)を開設して、国会に法律を制定する立法権を認めることを宣言します。

この十月宣言によって革命勢力は落ち着きますが、そこにつけ込んでニコライ二世は再び専制政治を強めます。国会メンバーは貴族や地主に占められ、民衆が望む政治は行われずに、再び不満が高まることになります。

ロシアでの社会主義革命

ロシア政府は国民の不満をそらすために、パン=スラブ主義を掲げてバルカン半島への南下政策を行います。この南下政策によってパン=ゲルマン主義とぶつかり、第一次世界大戦を引き起こします。

ロシアは第一次世界大戦を協商国側で参加しましたが、長期化する戦争にロシアでは食糧・物資不足に陥りました。ロシアは他欧米諸国に比べて近代化が遅れており総力戦に耐えられませんでした。

ロシア国民たちは食糧を求めてデモ・ストライキを実行。これに兵士たちまで加わり、革命を指導するソヴィエトという機関が組織されます。

1917年にはロシア中で民衆蜂起が起こり、これを受けてニコライ二世が退位。ロマノフ王朝のツァーリズムは消滅しました。ロシア帝国は終わりを迎えます。これが二月革命です。

王朝が打倒され、国会(ドゥーマ)の議員たちは、臨時政府を樹立します。構成員は変わらず貴族や地主などのブルジョワ層で、戦争継続を標榜します。

一方でソヴィエトには労働者・農民・兵士などが集結し、反戦勢力となります。

そんな不安定な二重権力構造の中、1917年4月にレーニンが「四月テーゼ」という革命指針を示します。「全ての権力をソヴィエトへ」をスローガンとして、ソヴィエト勢力を指導していきます。

レーニンらロシア社会民主労働党のボリシェヴィキという勢力は武装蜂起して、十月革命にて臨時政府を打倒し、権力を掌握します。ソヴィエト政権の樹立を宣言し、世界初の社会主義国を誕生させます。

レーニンはソヴィエト政権樹立に伴い、「平和に関する布告」(第一次世界大戦の即時停止など)や「土地に関する布告」(地主による土地の占有を禁止して、農民に均等に分配)を行いました。

レーニン体制下のソ連

<ソ連の国旗は共産主義を示す”赤”に、労働者のシンボルである”ハンマー”と、農民のシンボルである”鎌”を組み合わせたもの。労働者と農民が作った国であることが表されている>

1918年、レーニンは「平和に関する布告」に基づいて第一次世界大戦の停戦のためにドイツと単独講和であるブレスト=リトフスク条約を結びます。ソヴィエト政権にとってはポーランドなどの東欧地域を失う不利な条約でした。

国内では、普通選挙が行われたものの、レーニン率いるボリシェヴィキは第一党になることができず第二党に収まってしまいます。これにレーニンは危機感を感じ、武力によって議会政治を終わらせて、ボリシェヴィキ独裁体制を作り上げます。これ以降、ボリシェヴィキは”共産党“と称されます。

この動きに対して反革命政権が各地にできロシアは内戦状態になります。社会主義革命の拡大を恐れる連合国側もこの反革命勢力を支持して、軍も送り込み、対ソ干渉戦争が起きます。

ソヴィエト政府は、赤軍を組織して攻勢に出て、1920年頃には反革命勢力を鎮圧しました。

例えば日本軍のシベリア出兵も、対ソ干渉戦争の一環です。

対ソ干渉戦争中のソヴィエト政権は、内戦と対外勢力に対抗するために、「戦時共産主義」を掲げました。一種の経済政策で、農民から穀物を強制徴収してたり、私企業を禁止したりしました。

対ソ干渉戦争を何とかはねのけたソヴィエトでしたが、戦時共産主義は農業・工業の混乱を招きました。これが共産党に対する不信感を抱かせ、各地で反乱が起き始めます。

レーニンはここで大きく路線変更を行う必要性を感じて、戦時共産主義から新経済政策(ネップ)を打ち出します。

ネップは、共産党一党独裁は変わらないものの、一部私企業を認めたり、市場経済を導入させたりとソヴィエト経済の復興に貢献しました。

1922年には、ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が正式に成立します。(ロシア、ベラルーシ、ウクライナ、ザカフカースの連合社会主義国です)

レーニンは、ロマノフ王朝を倒し、世界初の社会主義革命を成功させソ連を建国しましたが、社会主義革命はロシアだけで完結してはダメだと考えていました。

他の資本主義国でも労働者たちによる革命が必要だと考え、1919年に世界革命を目指すコミンテルンという組織を作ります。

しかしハンガリーやドイツでの革命は長続きせず、大きな影響力を持つことができないままコミンテルンは第二次世界大戦中に解散させられます。

スターリン体制下のソ連

さてここまでソ連を引っ張ってきたレーニンですが、1924年に脳梗塞で死去。共産党主導権をめぐってスターリンとトロツキーが争います。

二人が争ったのは社会主義のあり方でした。トロツキーはレーニン同様に、資本主義国を次々と革命によって社会主義国にしていくべきだという世界革命論を主張しました。

一方のスターリンは、直近ハンガリーやドイツでの革命が失敗したことを受けて、ソ連1国だけで社会主義を完成させることが可能だと主張しました。

スターリンはトロツキー勢力を共産党から排除し、1929年にはスターリン政権を成立させます。

レーニンは、スターリンについて乱暴な性格・指導者として向いていないことを見抜いていました。そのことを遺書に残していましたが、結局スターリンが共産党指導者の後継者となり、その後恐ろしい独裁体制を敷くことになります。

スターリンは、ネップを否定して、より社会主義らしい経済政策を実行します。市場経済を否定して、計画経済と農村集団化、重工業の推進を行います。それが第一次五カ年計画です。

集団化した農場をコルホーズと呼びます。また国民の見本となる国営農場をソフホーズと呼びます。

スターリンは自身の政策に反対するものを全て粛清と称して、投獄・処刑しました。またスターリン個人への崇拝も強要し、ますます独裁体制を強めていきます。

特にスターリン体制を神格化したのは、世界恐慌で資本主義国がもだえ苦しむ最中、社会主義国家運営を行っていたことでしょう。

資本主義国で、資本家たちの株が紙くずになっていくなか、社会主義のソ連では全く世界恐慌の影響を受けずに発展を続けていきました。他国からの資金援助を受けずに、ソ連内部のお金だけで経済を回していたからこそできたことです。

1930年代、ドイツ・イタリア・日本などでファシズムが台頭してくると、ソ連は明確に反ファシズムの体制を取るようになります。1936年のスペイン内戦で、共産党が含まれるスペイン人民戦線側を支援していたことがいい例です。

しかし一方でスターリンは、イギリス・フランスらと仲良くすることにも抵抗がありました。英・仏のミュンヘン会談などでの宥和政策は明確に、ドイツを防波堤にして共産主義による革命を西ヨーロッパへ流れさせない目的が見えていました。

そこで1938年に独ソ不可侵条約を結び、反ファシズムを掲げながらもドイツと軍事同盟を結ぶことにします。ソ連はポーランドにドイツ軍とともに侵攻して分割統治。他にもバルト三国を併合します。

一時的なドイツとの休戦状態を楽しむもつかの間、ヒトラー側も反共産主義を長年掲げてきているため、両者の軍事同盟は長く続きません。

ドイツはイギリスとの戦い、バトル・オブ・ブリテンに敗れて西側戦線を諦めて、バルカン半島へと方向転換。ソ連もバルカン半島への侵攻を望んでいたため、スターリンはヒトラーとの戦いを決意。戦力を西側へと集中させるためにも、東側の日本とは日ソ中立条約を結んでおきます。

1941年についに独ソ戦が始まります。敵(ドイツ)の敵であるイギリス・フランスと手を組んで、ソ連は連合国側として第二次世界大戦を戦うようになります。スターリングラードの戦いでドイツ軍を撤退させてからは、ソ連軍側の優勢となります。

ソ連は第二次世界大戦で、連合国側として参戦して大戦を勝利へと導いた勝戦国としての地位を手に入れます。

ソ連は第二次世界大戦で最も死者が多かった国で約2000万人が亡くなりました。ソ連軍が自国市民の命に対して、非常に軽い扱いをしたのが一因といわれています。