10分でわかる世界史Bの流れ!近代ヨーロッパ(3)〜ナポレオンの栄枯盛衰〜

ナポレオンのヨーロッパ大陸支配

【前回までのあらすじ】(2)フランス革命

フランス革命という激動の時代の中で、一際輝く戦績を見せたナポレオン

彼は1796年にイタリア遠征の指揮官に抜擢され、オーストリア軍を見事撃破し、1798年にはエジプト遠征の司令官に指名されました。

1799年の第二回対仏大同盟という軍事同盟が成立し、危機的状況だったフランスをナポレオンは自らの手で救おうとブリュメール18日のクーデターを起こし、統領政府を樹立しました。

人の名前がタイトルに入ったのは宗教改革を除けばHistraceではこれが初めてですね。それほどナポレオンの名はヨーロッパ中に轟いたということです。前回のあらすじではフランスのこと散々ディスったのから一転しましたね。

ナポレオンの栄枯盛衰 1. 第一統領から皇帝へ

統領政府の中の1番の権力を持つ第一統領から、皇帝となるナポレオンについて見ていきます。

1801年 ローマ教皇と和解 宗教協約(コンコルダート)

フランス革命の中で、教会の財産の没収・十分の一税の廃止・カトリック教を否定するような理性崇拝運動などが行われました。これ以降フランス政府と、ローマ教会の関係は断絶していましたが、ナポレオンの働きかけで宗教協約(コンコルダート)が結ばれ関係修復が行われました。

1802年 イギリスとの和解 アミアンの和約

かつてエジプト遠征で直接イギリスと対立していたナポレオンですが、1802年にはアミアンの和約でイギリスと講和条約を結びます。しかしすぐに両国の関係は悪化し、和約は破棄されます。

1804年3月 ナポレオン法典の公布

フランス革命は、市民による自由(近代社会)を求めた活動でした。

そのフランス革命で産まれた「法の下の平等」「私有財産の不可侵」などといった原則をまとめた法典です。

1804年5月 国民投票により、ナポレオンが皇帝に即位

ダヴィッド作「ナポレオンの戴冠式」>

1804年に国民の支持を受けて、ナポレオンは皇帝へと即位します。カール大帝以来、ヨーロッパの皇帝はローマ教皇から王冠を被せられるのが一般的でしたが、ナポレオンは自ら冠を被り、王妃に自ら冠を授けました。

ここから国民公会以来続いていた共和政(第一共和政)はここで終了し、フランス帝国(フランス第一帝政)が始まります。

ナポレオンの栄枯盛衰 2. ナポレオン皇帝の活躍

1805年 第三回対仏大同盟の結成

ナポレオンが皇帝に即位したことで再度イギリスのピット首相がフランスを警戒し、和約を破棄して第三回対仏大同盟が結成されます。ここから、フランスVSヨーロッパ諸国の戦争が激化していきます。

1805年10月 トラファルガーの海戦

フランスはイギリスのネルソン提督率いる海軍に、トラファルガーの海戦で負けてしまいます。

ネルソンはトラファルガーの海戦で戦死してしまいますが、ナポレオンの侵略からイギリス本土を守った英雄として知られています。

1805年12月 アウステルリッツの戦い

続くアウステルリッツの戦いでは、フランスVSロシア・オーストリア連合軍が戦いました。

この戦いはフランス軍得意の陸上戦であったため、見事勝利し支配領域を広げます。これによって第三回対仏大同盟は崩壊します。

1806-13年 ライン同盟の結成

1806年、神聖ローマ帝国の西南の16領邦が離脱してライン同盟を結成します。

これはナポレオンの勝ち馬に乗ろうとした同盟で、ナポレオン軍に軍隊を提供する代わりに領土提供を受けようとします。残念ながらナポレオンの失脚に伴い1813年に崩壊します。

またライン同盟の結成で16の領邦が離脱した神聖ローマ帝国は、皇帝が帝位を退いたことで消滅します。この時からハプスブルク家は神聖ローマ皇帝の地位を失い、オーストリア皇帝の地位のみ持つこととなります。(以降、「オーストリア帝国」と呼ぶ)

1806年 大陸封鎖令

敵国イギリスの経済に打撃を与えるために発令された大陸封鎖令。これはヨーロッパ大陸諸国に島国であるイギリスとの商業・通信・イギリスへの寄港を禁止した勅令です。

ナポレオンはフランスを中心に回るヨーロッパ産業を画策しましたが、当時のヨーロッパはイギリスを中心に産業が回っていました。産業革命発祥の地ですから最も発展した工業製品を持つイギリスがいないと、ヨーロッパの産業は回りません。

この大陸封鎖令はヨーロッパ諸国に大きく不満を残します。

1807年 ティルジット条約

イエナの戦いでロシア・プロイセン連合軍を破ったナポレオンは、ティルジット条約を結びポーランド地方にワルシャワ大公国を建てます。

1795年にポーランドはロシア・プロイセン・オーストリアに分割されましたが、その領土をナポレオンが奪い取り、ワルシャワ大公国を建てた形です。

またプロイセンは領土を奪われ、ロシアは大陸封鎖令に従うことを約束します。

ナポレオンの栄枯盛衰 3. ナポレオン皇帝の失脚

1807年 プロイセンの国内改革

イエナの戦いでナポレオンに敗れたプロイセン王国は、ティルジット条約の締結で領土を半分以上奪われてしまいます。

この屈辱的な条約に対し、プロイセンでは2度とフランスのような大国に負けないように自らも大国になろうとします。そこでまず目指したのが国内の近代化という改革です。

プロイセン王国の2人の首相シュタインハルデンベルク主導で改革が実行され、農奴解放令などの「上からの近代化」が行われました。

1808年 スペイン反乱

ゴヤの作品「1808年5月3日」。スペイン市民がフランス軍に殺される場面>

1808年にスペイン王国を征服したナポレオンですが、その侵略戦争のあり方についに民衆からの反乱を受けます。その代表格がスペイン反乱です。

無理やりスペイン国王に自分の兄弟を即位させたナポレオンに対するスペイン民衆の反感は強く、ゲリラ戦を展開してフランス軍を苦しめました。

1812年 ロシア遠征の失敗

ティルジット条約で、ロシアは大陸封鎖令を守ることを約束したのですが、実質無視してイギリスに穀物を輸出していました。

これに対してナポレオンはロシアを征服を強行し、遠征を行います。これがナポレオン崩壊の始まりでした。

ナポレオン陸軍は機動力が際立っており、5月にフランスを出発して9月にはロシア帝国の首都モスクワに入城します。ここまで大規模な戦いはなし。あっさりモスクワを制圧したフランス軍ですが、ロシアは次第に冬になります。

極寒のロシアで兵たちが耐えられるはずもなく退却。その最中で隠れていたロシア軍の追い打ちを受け、ロシア遠征は失敗に終わります。

有名なロシアの冬将軍がナポレオン軍を破ったお話です。

1813年 ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)

広大なヨーロッパ大陸を支配したナポレオンですが、征服地の人々の不満は最高潮に高まっていました。

そこにロシア遠征の失敗の知らせが舞い込み、ヨーロッパ諸国はナポレオンからの解放戦争を行います。それがライプツィヒの戦い(諸国民戦争)です。

ナポレオンはこの戦いに破れ、パリへと逃げ帰ります。そのナポレオンを追って連合軍はパリを占領します。

1814年 ナポレオンの退位とブルボン朝の復活

首都パリを占領されたナポレオンは、フランス皇帝を退位してエルバ島に流されます。ここでナポレオンの代わりに、王政復古が行われます。

かつてフランス革命の中で処刑されたルイ16世の弟、ルイ18世が王位についてブルボン朝が復活します。このあとナポレオンが100日間だけ皇帝につきますが、実質的にはここで第一帝政が終わり、王政復古となります。

1815年 ナポレオンの復活(百日天下)とワーテルローの戦いの大敗

<セントヘレナ島でのナポレオンの最期>

しかしルイ18世がまた人望がなく、ナポレオン時代を懐古する人々が増え始めます。このことを耳にしたナポレオンは、エルバ島を抜け出してフランス本土に戻り、軍を掌握してパリへと進軍します。そして再び皇帝に復位したのです。

この知らせを聞いたイギリス・プロイセンは再度ナポレオンと戦うために連合軍を組みます。

ワーテルローの戦いでナポレオンはまた大敗してしまい皇帝を退位し、二度と脱出できないようにセントヘレナ島に流されます。

このナポレオンの皇帝復位から退位までの期間が約100日間だったため、百日天下と言われています。