10分でわかる世界史Bの流れ!中国史(7)〜モンゴル帝国の興隆〜

歴史上2番目に広大な領土! モンゴル帝国の興隆

【前回までのあらすじ】(6) 宋と北方民族

五代十国時代以降、中国では北は北方民族(遼や金)、南は漢民族のが支配するという均衡状態が続いていました。しかし13世紀になると、モンゴル高原からモンゴル民族が怒涛の勢いで攻めてくることになります。

1206〜27年 チンギス・ハンの即位

モンゴル高原とは、標高1000m前後の高原地帯です。そこではトルコ系のウイグル、トルコ系キルギス、モンゴル系の契丹人が栄えていました。

契丹人の国、遼が1125年に金と宋の挟撃によって滅びると、モンゴルの諸民族たちを統合する力を持った民族が現れます。テムジンという人物が、特に勢力を伸ばして、1206年にクリルタイ(各モンゴル部族長たちの重要な会議のこと)にて、チンギス・ハンと名を変えてモンゴル帝国を建国しました。

ハンとは、遊牧民族たちの間では”君主”を意味する位のことです。

チンギス・ハンはモンゴル内部をまとめあげると、南、西、南西方向に次々と遠征して少しずつ領土を広げて行きました。13世紀の中央アジア地域の強国、トルコ系イスラム教国のホラズム=シャー朝や、西夏を征服したことを頭に入れておいてください。

1229〜41年 オゴタイ・ハンの即位

チンギス・ハンに代わり、即位したのがオゴタイ・ハンです。

1234年には華北地域のを滅ぼして、中国地域へと進出します。

首都をモンゴル高原のカラコルムに定めて、この首都を中心に騎馬民族らしく駅伝制(ジャムチ)を整備しました。駅伝制とは、主要道路沿いに宿泊施設などを整備することで、商人たちの経済活動をサポートしました。

駅伝制は、アケメネス朝ペルシャのダレイオス1世の時にも出てきます。

1241年 バトゥによる西進

オゴタイ・ハンの時代には、バトゥ率いるモンゴル軍が西欧地域に向けて、西進をしました。

1240年には、ロシア地域のキエフ公国を征服します。

バトゥ軍はさらに西へと快進撃を続け、現在のポーランド地域まで遠征し、ワールシュタットの戦いにてドイツ・ポーランド連合のキリスト教軍を撃破します。重装歩兵で構成されたキリスト教軍に対して、バトゥの軍は騎馬兵。圧倒的な機動力で、キリスト教軍を惨殺しました。

ワールシュタットの意味は「死体の山」。モンゴル人たちの圧倒的な強さに、キリスト教軍は震え上がったと言います。

バトゥ軍がさらに西進してヨーロッパ世界へと侵略しようとしたところで、オゴタイ・ハン死去の訃報が届きます。ヨーロッパ世界にとっては天命でした。バトゥ軍は、一時撤退を余儀なくされます。しかし後継者のハンを巡って意見が合わず、バトゥはキエフ公国を滅ぼした後の南ロシア地域に、キプチャク=ハン国を建国してここに留まり本国と距離を置きました。

1258年 フラグによるバグダードの陥落

4代目モンケ・ハンの時代に、フラグは西アジア地域へと遠征を命じられ、1258年にはなんとバグダードを陥落させ、500年も続いたイスラム王朝のアッバース朝を滅ぼします

そのままエジプト遠征を行おうとしたところを、モンケ・ハンの訃報が届き、カラコルムへの帰還を命じられます。しかしバトゥと同様、帰還中に大きな後継者争い(ハイドゥの乱)が起きていることを聞いて、イラン地域に留まり、イル=ハン国を統治することにしました。

南ロシア地域のキプチャク=ハン国、西アジア地域のイル=ハン国、中央アジア地域のチャガタイ=ハン国などの広大な領土がモンゴル帝国の地方政権として、モンゴル人によって支配されました。

こうして作り上げられたモンゴル帝国は世界史上、2番目に広大な領土を支配した国家です。(1番は20世紀の大英帝国)

1271年 フビライ・ハンによる元の建国

<現在の北京。最初に都に定めたのは元です。以降、明の初期以外は北京が首都のまま>

ハイドゥの乱という後継者争いを乗り越え、フビライ・ハンが5代目モンゴル皇帝に即位します。

フビライ・ハンは1267年に、都をカラコルムから大都(現在の北京)へと遷都し南下します。目的は南宋への侵攻を本格化するためでした。
1271年には国名を中国に合わせて、げんと定め、1276年には南宋も滅ぼして中国を統一支配しました。

以降積極的に遠征を行い、朝鮮半島の高麗を属国に、日本・ベトナム・ビルマなどにも遠征しますがこれらは失敗に終わります。

1271〜1358年 元の制度と文化

モンゴル人による中国地域の支配は、あまり中国文化を受け入れない征服王朝でした。科挙も途中で中断されます。

他にも遼、金、清などが中国地域の征服王朝です。北魏は、孝文帝が漢化政策を行ったので、征服王朝ではないとされています。

大都と江南を直通する大運河の建設

金/南宋時代には対立しあっていたため使われていなかった大運河ですが、元によって中国が統一されたことにより再度穀物などを運ぶ運河が求められました。元の都は大都であり、江南と直通で運河が繋がっていなかったため、運河を改修します。

貨幣制度 交鈔

貨幣制度は、紙幣である交鈔こうしょうが用いられました。

庶民文化の繁栄 ”元曲”

元は基本的に、支配地域の経済/文化には放任傾向であったため、庶民文化が栄えました。特に演劇である元曲が文化として栄えました。作品としては「西廂記せいそうき」や「琵琶記」などが有名です。

チベット仏教の保護/イスラム教の普及/キリスト教の布教開始

宗教としては、フビライ・ハンがチベット仏教を熱心に保護しました。パスパという教主を呼びつけ、宮廷内言語としてパスパ文字を作らせます。

またイル・ハン国やキプチャク・ハン国が次々とイスラム化したため、同じモンゴル帝国である元にもイスラム教がかなり普及していきました。

また後述しますが、多くの西欧諸国から使節が送られたため、キリスト教もこの時期に初めて布教が始まります。特にモンテ・コルヴィノは初のキリスト教布教者です。

郭守敬の授時暦の採用

イスラム教の影響を受けた元では、イスラム天文学を用いて郭守敬かくしゅけいの”授時暦じゅじれき“という非常に正確な暦が使われました。これは後の1582年に制定されるグレゴリウス暦と正確に等しいものでした。(ちなみに現在の西暦もグレゴリウス暦です。)

この授時暦は後に、日本にも取り入れられて江戸時代に貞享暦じゅきょうれきとして用いられます。

西欧諸国からの視察者たち

1241年バトゥによるワールシュタットの戦いに勝利したモンゴル帝国は、ヨーロッパ世界に恐れられます。

強国であるモンゴル帝国の情報を少しでも得るために、ローマ教皇はプラノ・カルピニ、フランスのカペー朝の王であるルイ9世はルブルックをそれぞれ使節としてモンゴル帝国の首都カラコルムに送りました。

ルイ9世の時代は、ちょうどイスラム勢力に対抗するために十字軍を派遣しており、イスラム勢力の背後に陣取るモンゴル帝国と手を組もうという魂胆でした。

プラノ・カルピニ、ルブルックの時代の少し後にイタリア商人のマルコポーロが、元の首都である大都を訪問し、フビライ・ハンに17年間も仕えました。後にマルコポーロの「東方見聞録とうほうけんぶんろく」は、ヨーロッパ世界に東アジアの情報を伝える重要書物となりました。

13世紀末には、イタリア修道士のモンテ・コルヴィノが元の大都に到着し、元の大司教に命じられました。中国初のカトリック布教者です。しかしこの後すぐに元が滅亡するため、キリスト教は思うように普及せず、16世紀の明の時代のイエズス会のマテオ・リッチ以降、本格的な布教活動が始まります。

14世紀 モンゴル帝国の解体

14世紀になると、モンゴル帝国は次第に崩れていきます。

チャガタイ・ハン国は分裂抗争が起こり、イル・ハン国では地方政権が群雄割拠して分裂状態に、キプチャク・ハン国では14世紀から次第に衰退して、15世紀にはイヴァン3世がモスクワ大公国を建国して独立します。

元でも経済不安によって、民衆反乱を引き起こしてしまいます。1351年には仏教の秘密結社である白蓮教徒たちを中心に紅巾こうきんの乱が起きて、その反乱の中で朱元璋しゅげんしょうが台頭します。朱元璋は1368年に南京にて明朝みんちょうを建国して皇帝となり、洪武帝こうぶていと名乗ります。

モンゴル人たちは、首都である大都を退き、モンゴル高原にて北元という国を称して存続しようとしましたが、洪武帝により討伐されて1388年に滅亡します。。