10分でわかる世界史Bの流れ!中世ヨーロッパ(10)〜中世ヨーロッパの文化史〜

中世ヨーロッパの文化史

やっと終わったぜ、中世ヨーロッパ!これから大航海時代に入るよ〜。ここから世界史はどんどん面白くなる!

その前に、中世ヨーロッパの文化史をさっさと片付けちゃいましょう。

12世紀ルネサンス

世界史では3種類のルネサンスが登場します。今回は、カロリング・ルネサンスと12世紀ルネサンスについて解説していきます。

ルネサンスの意味は、フランス語で「再生」です。
カロリング・ルネサンスでは、古代ローマ文化の土台であるラテン語の「再生」。
12世紀ルネサンスでは、ギリシャ哲学研究が「再生」されたと言えます。

カロリング・ルネサンス

まずはカロリング・ルネサンス
フランク王国のカール大帝が、イギリスから神学者アルクィンを招いて行わせました。

それまでフランク王国の人々は、昔のラテン語を読むことができませんでした。これでは古代ローマの素晴らしい知識・文学を学ぶことができないではないか!と危機感を持ったカール大帝が、宮廷の役人たちや修道士たちに正しいラテン語を学ばせようとしたのです。

正しいラテン語への学習が進むことで、かつての古代ローマ文化をもう一度「再生」させる土台ができたのがカロリング・ルネサンスなのです。

ラテン語の豆知識
古代ローマ帝国で使われていたラテン語ですが、帝国の衰退とともにラテン語も世俗化していきフランス語・スペイン語・イタリア語が生まれました。いわゆるラテン系の言葉ですね。
ラテン語の再興隆を目論んだのがカール大帝で、カロリング・ルネサンス以降、ラテン語は学術用語として主に使われるようになります。特に12世紀ルネサンスで大学が現れたのが大きかったですね。

スコラ学の興隆と普遍論争

次にスコラ学について解説させて下さい。12世紀ルネサンスに繋がる大切な話です。
スコラ学とは、11世紀に始まり、キリスト教の大切さを理論化・体系化しようとしたものです。

スコラ学についての中心的な話題は普遍についてでした。
そこで行われた論争こそ、普遍論争です。

神や普遍といった概念は、何よりも先立って現実に存在するのだ!と主張したのが、実在論アンセルムスが代表的な人物です。
対して、神・普遍といったものは存在せず、個別につけられた名前に過ぎないのだ!と主張したのが唯名論アベラールが代表的です。

そして普遍論争は、次の12世紀ルネサンスで本格化します。

普遍論争は深入りすると哲学の深みに陥ります。それもまた面白いですが、無理だと思ったらただ暗記するだけでも構わないかと。
普遍論争って要は、ギリシャのプラトンとアリストテレスの論争の続きなんです。
プラトンは、イデア論にて普遍とは最高レベルの概念だと説きました。
が、アリストテレスはそんなのはただの言葉だ。一つ一つの物事を個別に見ていく方が何よりも大事だと説きました。この論争をうん千年後に大規模にやったのが普遍論争なのです。

12世紀ルネサンス

次に12世紀ルネサンスについてです。
十字軍派遣によって、西洋文化とイスラーム文化が交じり合ったことは以前説明しました。
ですがビザンツ帝国・イスラームを通じて、ギリシャ文化も取り入れたことが12世紀ルネサンスなのです。

イスラームではビザンツ帝国やムセイオンを通じて、ギリシャ文化がもたらされておりました。そのギリシャ文化が、十字軍派遣を通してイスラーム文化圏から西欧文化圏へと逆輸入されたことが12世紀ルネサンスです。

ギリシャ文化は、アレクサンドロス大王がアレクサンドリア市のムセイオンという大規模研究所で研究を進めさせました。後にアレクサンドリアはイスラーム勢力に取り込まれますが、ギリシャ文化の研究はイスラーム文化にも引き継がれていたのです

イスラム文化・ギリシャ文化に刺激されて西欧世界では、多数のギリシャ語文献がラテン語へと翻訳されました。その中心地は、イベリア半島のトレドやシチリア島のパレルモです。

さらにギリシャ文化・イスラム文化に刺激されて、「学ぶ」ことへの気運が高まり中世ヨーロッパで初めて大学が生まれます

最古の大学はイタリアのサレルノ大学で医学を中心に講義が行われました。他にも法学のボローニャ大学、神学のパリ大学が有名です。

さて12世紀ルネサンスでは、先の普遍論争を終結する神学者がそのパリ大学から現れます。トマス・アクィナスです。彼は「神学大全」という著書の中で、実在論をなんとか?証明してみせたのです。

トマス・アクィナスは、実在論側の人間で、アリストテレス的な自然現象の考え方と神の存在証明を結びつけました。
具体的には、「運動には必ず動かし手」がいる。そして、太陽や月が地球を中心に廻っているのは、天の彼方に「神」がいるからだ、と証明したのです。笑っちゃうくらいこじつけですが、でも中世の人々にとっては神がいるのか、いないのかは重要だったということです。
参考:世界史の窓

中世ヨーロッパの美術

ロマネスク様式

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これまでビザンツ様式が一般的だったヨーロッパでしたが11c12cになると、ロマネスク様式が普及していきました。特徴は、厚い壁と小さな窓、そして円形アーチ状です。
ピサの大聖堂が代表的です。(あのピサの斜塔の側にあるやつです)

画像を見てもらうとわかりますが、石が分厚すぎて窓が小さく、どこか寂しい感情を持つ方が多いかと思います。しかし、次のゴシック様式ではまた印象がガラリと変わると思います!

ゴシック様式

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13c14cに発達したゴシック様式では、尖頭アーチ・薄い壁・広い窓にステンドグラス!が特徴的です。

パリのノートルダム大聖堂に、ドイツのケルン大聖堂が有名です。
とりあえず、刺々しくてステンドグラスがあれば基本ゴシック様式ですw

中世ヨーロッパの文学

12c頃、騎士道物語が多数発達します。
騎士道に準じる、英雄たちの戦いや恋愛を吟遊詩人たちが語り歩いたことで広まりました。

ドイツのニーベルンゲンの歌、フランスのローランの歌、イギリスのアーサー王物語が有名です。

中世ヨーロッパの修道院の歴史

教会と修道院については以前も少し詳しく解説しました。少し重複しますが、もう1度説明しましょう。以前の教会と修道院の解説はこちら

キリスト教社会にとって、教会とは、民衆の生活を正しい方向へと導いてくれる聖職者がいる場所でした。

聖職者とは、世俗との関わりを絶ちつつ一般人の霊的な生活を支援、つまり天国へと行けるように民衆の生活を指導する存在です。

一方、修道院もありますよね。修道院では、修道士たちが宗教的な共同生活を行う場所でした。
聖職者のように世俗と関わることは一切ありません。

モンテ=カシノ修道院

そんな修道院(キリスト教の)は、529年ベネディクトゥスがイタリアの山奥にモンテ=カシノを建設したことが始まりでした。「祈り、働け」をモットーに、厳しい生活を行っていました。

クリュニー修道院

そんなキリスト教に準じた生活をしていることに目をつけたのが、神聖ローマ皇帝でした。なんとか修道士の力で聖職者の腐敗を立ち直らせることができないかと目論んだのです。

そこで、クリュニー修道院に白羽の矢がたち、グレゴリウス7世が教皇として神聖ローマ皇帝と叙任権闘争を起こしたのは以前説明したとおりです。

さて、聖職者の腐敗を防ぐためにクリュニー修道院が改革を行ってきたのですが、クリュニー修道院も権力が確立されお金が入ってくるようになると、今度は修道院が腐敗していると批判が広まります。

シトー派修道院

そこで出てきたのがシトー派修道院です。シトー派修道院はクリュニー修道院に代わって、修道院運動を行いました。シトー派修道院は、ベネディクト派の厳格な戒律を守る姿勢を踏襲したことが特徴です。
さらに、ドイツの東方植民にも関わりました。大開墾時代が始まりました。

scandanavian_forest
ヨーロッパは大開梱時代まで、鬱蒼と茂る森の世界でした。ヨーロッパの人にとって森は神秘的で少し怖い場所でもあったため、開墾することを渋っていたのかもしれません。
かつて地中海地域に住んでいたローマ人がゲルマン人のことに恐怖感・畏怖感を抱いたのは、彼らが森に住んでいたからとも言われています。

托鉢修道会

そんなシトー派修道院も衰退し、13cに現れたのが托鉢(たくはつ)修道会です

托鉢とは、上記の画像のように都市・農村を練り歩き、人からの寄付で生活することです。
托鉢修道院では、私有財産を保有しないことで本来のキリスト教義に沿った厳しい生活を送ることにしました。

フランチェスコ修道会が始めに托鉢修道会を始めました。
同じく托鉢修道会として、スペインのドミニコ修道院が異端者狩りを主導したことで悪い意味で有名です。