10分でわかる世界史Bの流れ!近代ヨーロッパ(4)〜産業革命〜

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工業社会の幕開け -産業革命-

【前回までのあらすじ】(なし)

今回は産業革命についてお話します。これまでの「近世」では、大航海時代・絶対王政の2つが主軸に歴史が展開していきましたよね。ヨーロッパ各国が重商主義政策をとって、海外貿易に力を入れていました。

その海外貿易で最も儲かっていた国は16世紀にはスペイン・ポルトガル、17世紀にはオランダ、そして18世紀のイギリスです。そんなイギリスで18世紀の後半に起きた産業革命について詳しく見ていきましょう。

産業革命とは?

まず産業革命の基本について簡単に説明します。

産業革命とは「革命」と名の付く通り、短い期間での大幅な変化が起きたということです。
どんな変化かというと、「急激な技術革新によってこれまでの農業基盤の社会から工業化が進み、資本主義経済体制が確立したこと」です。産業革命は18世紀後半のイギリスで最初に始まりました。

要はこれまで家族でのんびり畑を耕していた社会から、みんなが工場や鉱山で働く社会に変化して、それに伴って、ヨーロッパが資本主義経済体制へ移行したよ、ということです。

これから順序立てて、産業革命はどのような過程を経てイギリスで起きたのかについて説明します。

イギリスの綿工業と技術革新

イギリスのアジア進出」で触れたように、イギリスはインド経営に力を入れていました。貿易の中心であるイギリス東インド会社は17世紀以降インドの良質な綿花をイギリスへと輸入しました。

インドの綿花で作られる綿織物は、肌触り・吸湿性が最高で洗濯も簡単、しかも安かったのでイギリスでの衣服文化を変えて大流行しました。

ちなみにこれまでのイギリスの衣類は毛織物で作られていました。「イギリス毛織物業の発展」で触れたように羊の毛から作られる毛織物は、イギリスの主力人気商品でした。そんな毛織物業界にいる人達にとって、綿織物の流行によって儲からなくなっておもしろくありません。毛織物業界は綿織物アンチ運動を起こして、1700年に綿織物の輸入禁止まで法律で定められました。

民衆はこの法律にがっかりしたことでしょう。でも民衆の綿織物を着たい!という欲望はなくなりません。綿織物を輸入できないなら、綿織物をイギリスで作ればいいじゃない!ということで、国内での綿工業が栄えることになります

イギリスの綿工業はマンチェスターを中心に発達しました。

イギリスで作られた綿織物は飛ぶように売れました。あまりに需要が多すぎて、いよいよ生産が追いつかなっていったのです。そこで産まれたのが効率的に綿織物を製造する、機械です。これまで手作業で全て作っていましたが、機械の導入は生産効率を大幅に挙げました。

綿織物製造の基礎知識

これ以降の説明は、綿織物がどうやってできるのかを知っておくとわかりやすいです。

綿花とは上の画像のように、植物から作られます。綿花といっても花ではなく、ただの白い繊維です。この綿花は植物の種をとりまくように、張り付いているのです。この綿花を使って、綿織物は作られます。要は布生地ですね。

綿織物の製造過程は、
1. 綿花のインドでの収穫→2. 綿花をイギリスへ輸送→3. 綿花を細い綿糸にする(紡績)→4. 綿糸を織る、です。

この製造過程をより効率的にしたのが、これからご説明する機械たちなのです。

1733年 ジョン=ケイ 飛び杼を発明

イギリスのジョン=ケイ飛び杼を発明したことによって、綿織物を製造する速度は2倍になりました。イギリスの綿織物需要が、人の手よりも効率的な生産方法である機械を産んだのです。

飛び杼は、4. 綿糸を織る ことを効率化した機械です。

飛び杼に関する説明は、以下の動画がわかりやすいです。動画は英語ですので解説します。
まず最初に男性が持っているのは、従来の手作業による綿織物の織り方です。ちまちまと縦糸の間に横糸を通さなければならないので、手作業はかなりめんどくさそうです。

43秒以降では、飛び杼による綿織物の織り方が紹介されています。足元を踏むだけで横糸を一気に通すことができるので、作業速度は倍に、しかも人間の手の幅以上の生地を織ることができるようになりました。

右から左へものすごい勢いで飛んでいるのが、飛び杼なのです。

1764年 ハーグリーヴス ジェニー紡績機を発明

ジョン=ケイの飛び杼によって、4番の工程の作業効率は大幅に上がりましたが、今度は綿糸が足りなくなってしまったのです。

3. 綿花を細い糸にする「紡績」 という作業を効率化したのが、イギリス出身のハーグリーヴスジェニー紡績機です。

従来の紡績の過程は以下の動画のように手作業で行われていましたが、これまた地道で大変な作業です。綿花から繊維を引っ張り出して、棒に巻き付かせなければなりません。

そこでジェニー紡績機が作られました。一度に6本以上の糸を紡ぐことができるので、多軸紡績機とも呼ばれます。(実物を見たい方はこちらの動画が参考になりますよ)

1769年 アークライト 水力紡績機

続いても3番の工程の効率化です。ハーグリーヴスのジェニー紡績機は一度に多数の糸を紡ぐことができるものの、あくまで人の手で歯車を回さなければなりませんでした。

ですがイギリス人アークライトが発明した水力紡績機は、人の手で回すのではなく水車による水力で回すことを可能にしたのです。(こちらの動画で実物の様子が見れます)

1779年 クロンプトン ミュール紡績機

続いても3番の紡績の工程が効率化されます。クロンプトンが作ったミュール紡績機では、上2つの紡績機よりも細くて丈夫な糸を紡ぐことを可能にしました。

1785年 カートライト 力織機

ミュール紡績機の登場で、人力では考えられないほどの速さで糸を紡ぐことができるようになりました。すると今度は糸が余りすぎて 4. 綿糸を織る の工程が追いつかなくなってきました。

そこでカートライトが発明したのが、力織機です。こちらは織物としての機械の動力として、初めて蒸気機関を導入しました。こうして織機も自動化への道を進んでいくことになりました。

1793年 ホイットニー 綿繰り機

場所は変わってアメリカでは、ホイットニー綿繰り機を発明しました。綿繰り機とは、綿花を収穫する際に中の種を除去してくれる機械。これによって、1. 収穫 のプロセスが効率化されました。

アメリカの南部では綿花の生産が活発に行われていたため、必然の発明だったのでしょう。

綿工業の機械化に伴う、技術革新の広がり

綿工業が機械化していく中で、自然と他の分野でも技術革新が広がりを見せ始めます。

綿工業で使われる機械が売れることで機械業が発達します。
機械業で使われる鉄が売れることで、鉄鋼業が発達します。
さらに蒸気機関が普及する中で、石炭業が発達します。

このように1つの技術革新が広がりを見せたことも産業革命の特徴の1つです。

蒸気機関の発明

綿工業が発達するにつれて、効率化はさらに進みます。2. 輸送 の工程です。綿花を輸入する・綿織物を輸出するにあたり、より早く・安く輸送することが求められるようになりました。

そこで登場したのが蒸気機関です。

1712年 ニューコメン 蒸気機関の発明

蒸気機関を発明したのはイギリスのニューコメン。1712年に炭鉱の地下水の組み上げの動力として使われていましたが、不良が多くあまり実用的ではありませんでした。

18世紀後半 ワット 蒸気機関の改良

そこで18世紀後半にイギリスのワット蒸気機関の大幅な改良に成功し、いよいよ蒸気機関が動力として使われるようになりました。

蒸気機関の交通機関への応用

ワットによって蒸気機関が実用化されたことで、蒸気機関は交通機関である蒸気機関車・蒸気船へと応用されました。蒸気の力で、機械を動かすのです!

こういった蒸気機関車・蒸気船の発明は「交通革命」と呼ばれ、世界各国の物理的な距離を縮めてみせました。

1814年 イギリスでの蒸気機関車の発明

1814年にイギリスのスティーブンソン蒸気機関車を発明し、1825年にはストックトン・ダーリントン間での鉄道網を実用化させました。ストックトンは炭鉱山がある町で、ダーリントンは少し大きめの都市でした。(つまり石炭輸送のための鉄道ですね)

ここから一気に鉄道インフラが整います。1830年にはリヴァプール・マンチェスター鉄道が開通し、世界最初の旅客用鉄道が始まりました。

1807年 アメリカでの蒸気船の発明

一方、アメリカでも蒸気機関を用いた交通機関が産まれます。蒸気船です。1807年にアメリカのフルトンが蒸気船を発明し、ハドソン川での航行を成功させます。

そして早くも1819年には蒸気船は大西洋を27日と11時間で横断してみせました。こうして海上での輸送速度は大幅に向上します。

1853年にペリーの黒船が日本に来航し、開国を要求したという歴史も、それ以前にアメリカで蒸気船が開発されていたからこそですよね。

なぜイギリスで産業革命が起きたのか? -理由-

数ある国の中でなぜ18世紀後半に産業革命が起きたのか?その理由を求めれば数え切れませんが、いくつか主要な要因を、「資本」「市場」「労働力」などを基本に挙げておきます。(まぁ、多分試験には出ないと思います。諸説ありなので)

1. 農業革命によって工業労働者が産まれやすかった「労働力」

農業革命は、18世紀後半に起きた農業の世界での革命で、農業の生産効率が大幅に上昇しました。第二次囲い込み運動という農業経営方式の変化と、ノーフォーク農法という農業技術の変化が引き起こしました。

農業革命によって効率的な農業経営が行われたため、農民の多くが不要になりました。職を失った農民たちが都市に向かって工場労働者になり、産業革命を促進させたのです

第二次囲い込み運動

16世紀の第一次囲い込み運動では地主層が土地を農民に貸し出さずに、羊用の牧羊場にしていました。対して1760-1820年頃の第二次囲い込み運動では、農業資本家が小さな土地をたくさん囲い込んで資本主義的な大規模農場経営を行いました

第一次囲い込み運動では非合法に農民の土地を奪っていましたが、第二次囲い込み運動ではイギリス議会も奨励して合法の下行われ、しかもある程度農業に関わる人がいたので第一次に比べて批判はありませんでした。

ノーフォーク農法

これまでの農業技術と言えば中世時代からの三圃制農業でしたが、これでは1つの土地を休ませなければならないので効率が悪いです。

そこで、農地を4区画(かぶ・大麦・牧草・小麦)に分けて農業を行うノーフォーク農法が行われました。かぶと牧草は別に飼っている家畜の餌に使われるので、農業と牧畜を同時並行で行う混合農業が可能になりました。

2. 広大な海外市場(植民地)の獲得「市場」

(14)ヨーロッパの海外進出」でもお話した通り、イギリスは18世紀までにインド・北アメリカ大陸に広大な植民地を獲得していましたよね。

国内だけでなく国外にも大きな市場を持っていれば、当然綿織物も他の国より抜きん出て売ることができます。

3. 黒人奴隷貿易で資本が蓄積されていた「資本」

広大な海外市場にも関連しますが、イギリスは18世紀までに海上貿易でかなり儲けてきました。特に「黒人奴隷と三角貿易」でも説明した通り、黒人奴隷貿易は儲かります。

イギリスは海上貿易で、資本(商業を始める上で必要なお金ということ)が蓄積されていたため、新しい工場へ投資するお金があったということです。

4. 王権が議会によって制限されていた

1688-89年にイギリスでは名誉革命が起きて王の力はイギリス議会によって大幅に制限されることになりました。つまり他国に比べて国家運営が落ち着いた状態にあったということです。

その結果、市民による自由な経済活動が進んだのです。

5. 石炭・鉄などの資源が豊富だった

機械の素となる鉄や、蒸気機関の燃料となる石炭といった資源がなければ産業革命は成り立ちません。イギリスは幸い資源に恵まれたため、国内で資源をまかなうことができる状況にあったのです。

また1735年にイギリスのダービー親子が発明したコークス製鉄法が鉄の大量生産を可能にして鉄工業が発達したことも要因の1つです。

産業革命の世界各国への波及

産業革命はイギリスを「世界の工場」と言わしめるほどに、イギリスを豊かにしました。最初はイギリスは工業化の技術・機械が他国に流出するのを恐れて、機械輸出を禁止・技術者の渡航を禁止していましたが1825年以降は徐々に緩和されていきます。

そのため1830年代以降は、世界各国で産業革命が波及していきました。各国の産業革命に至る道程と、工業化の進展具合について簡単に説明しておきます。

1830年代 ベルギー・フランスでの産業革命

ベルギーは1830年にフランスの七月革命の影響を受けてオランダから独立します。

ベルギーのフランドル地方は毛織物産業が発達しており、他の商業都市も多数あったためヨーロッパの中でもすぐに産業革命が起きました

フランスは、ナポレオン時代、根からのイギリス嫌いのためイギリス工業製品に高い関税をかけて、自国の産業だけで革命を起こそうとしてました。が、当然そんなことは無理で、1830年の七月革命以降ようやく産業革命が始まります。

ただフランス政府は保護貿易で他国との競争にさらされていなかったため、フランスの工業化の速度は緩やかでした。

1840年代 ドイツの産業革命

1834年ドイツ連邦内の各国がドイツ関税同盟を結び、加盟国同士の関税が廃止されたことで国内市場が発達しました。

それに伴い1840年代にラインラントを中心に工業化が進みました。

1860年代 アメリカの産業革命

1776年にイギリスからの独立宣言を行ったアメリカでしたが、独立後、経済は依然としてイギリス依存でした。

しかし1812-14年の米英戦争でイギリスとの貿易が中断されたため、国内産業が嫌でも発達しました。1830年代にはアメリカ北部で工業化も進みましたが、綿花栽培が基本の南部との対立が深刻化して南北戦争が起きたため工業化は落ち着きました。

そして1865年の南北戦争の終結以降は、アメリカでも北部主導で工業化が進みます。

1890年代 ロシア・日本の産業革命

ロシアでは、1861年にアレクサンドル2世が農奴解放令を出したことで、上からの近代化が始まりました。産業革命も上が主導して行われました。

1890年代には産業革命によって工業化が進みましたが、日露戦争敗北・革命運動などで資本主義社会はあまり育たず、社会主義社会へと突き進むことになります。

日本では1868年以降、明治政府の主導で急速な近代化が行われました。特に1894年の日清戦争勝利による多額な賠償金の獲得が産業革命を花開かせました。

ただこちらも国内市場が十分に成長していなかったため、海外市場を求めて帝国主義へと突き進むことになります。

資本主義経済体制の確立と社会問題

冒頭で、産業革命とは「急激な技術革新によってこれまでの農業基盤の社会から工業化が進み、資本主義経済が確立したこと」と述べました。

急激な技術革新、工業化はこれまで説明してきたので、結論である資本主義経済体制の確立について最後に説明します。

資本主義経済体制とは?

このブログで「資本主義」の定義を明確にするのは今回が初めてですね。

資本主義とはアダム・スミス以降の古典派経済学が体系化してきたもので、「生産手段を持った個人・企業が、資本を投下・労働者を雇用して、商品を生産→利潤を追究のサイクルを回す経済体制」のことです。

現代の日本も資本主義体制ですから、感覚的に言ってることはわかると思います。日本では当たり前のように企業がたくさんあって、資本(お金)を工場や労働者に使って商品・サービスを作って儲けて、儲けたお金でさらに新たな商品を作り儲けようとします。

これがまかり通るのが資本主義体制での社会です。

産業革命による資本主義体制の確立

産業革命によって工業化が進められたことで(機械制工場)、資本主義を行うことができる土壌が出来上がりました。そこに現れたのが産業資本家です。資本とはお金、つまり産業資本家とは工場を経営することができる・しようとするお金持ちのことです。

産業資本家は富で富を生むサイクルを回すことで、資本主義体制の社会を型作ってきました。

ラッダイト運動(機械うちこわし運動)

産業革命は、世の中を大きく変えたため社会問題も発生しました。その1つがラッダイト運動です。

これまで手作業で製品を作っていたヨーロッパの職人たちは、機械に職をどんどん奪われていきます。(作業効率が段違いですからね)職を奪われてやり場のない怒りに襲われた職人たちは、機械・工場を破壊しようとします。

先程紹介した発明家、ハーグリーブスたちは自分たちの工場が襲撃されています。

産業革命による労働者階級の形成

ラッダイト運動は産業革命の中で生じたの一過性の社会問題で、次第に人々は機械を受け入れていきます。(モノに当っても仕方ないですよね)代わりにに生じた社会問題が、労働者の搾取についてです。

産業革命が資本主義社会を生み出したことで、連動して労働者が産まれます。ここでの労働者とは「産業資本家の下で働く、雇用された人たち」のことです。これまで人々は家族で協力し合って農業でお金を得ていたのに、産業革命以降は家族それぞれ工場や炭鉱などでの賃金でお金を得るように変化したのです。

労働者の中には男以外にも、女性・子どもも含まれます。当時の女性・子どもの地位は低いですから、低賃金で働かされていました。

労働者たちはあんまり働きたくないけど、賃金はいっぱい貰いたいという欲求が生じます。対する資本家は、利潤追求のために低賃金で労働者を働かせ、できれば長い時間働いてほしいという欲求が生じます。

労働者と資本家では立場的に資本家の方が上です。弱い立場にさらされている労働者たちは、過酷な労働条件の下で資本家に搾り取られていってしまいます。そこで資本家に対抗するために労働者たちは、自然と団結して労働組合を組織します。

この労働者と資本家の対立構造は、産業革命以降初めて現れ、労働問題が生まれるようになります。