10分でわかる世界史Bの流れ!近世ヨーロッパ(8)〜イギリス・フランスの絶対王政〜

イギリス・フランスの絶対王政

【前回までのあらすじ】(7)スペイン・オランダの繁栄

前回は大航海時代に上手く乗ったスペイン、そのスペインから独立しようと戦争したオランダについて解説しました。
今回はそのオランダ独立戦争を支持したイギリスと、宗教改革に対応するフランスの両国の絶対王政の確立へのプロセスについて見ていきましょう。

絶対王政3 イギリスの海洋国家への道

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テュダー朝での絶対王政の始まり

以前イギリスの通史で説明したとおり、バラ戦争後の1485年にイギリスではテュダー朝が始まりました。

この時代、イギリスは強大な王権で絶対王政を確立します

テュダー朝の代表的な人物は、2代目国王ヘンリ8世でしょう。カルヴァン派の記事で説明したとおり、ヘンリ8世は離婚を理由にカトリック世界から離脱してイギリス国教会を作りました。

イギリス国教会のTopは首長法によりイギリス国王と認められました。宗教の力で国家をまとめ、それを統治する国王。これこそがイギリスの絶対王政です。

ジェントリの台頭

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またこの頃のイギリスではジェントリと呼ばれる新興市民階級が現れます。彼らは貴族など特別な身分ではないにも関わらず資産を築いた新しい勢力です。医師や法律家、地主・商人などが主でした。

ジェントリは地域社会(地方)の代表的な存在となり、イギリス議会でも多数派を占めるようになり始めます。この議会制度がイギリスの絶対王政を支えたとも言われています。「イギリス議会の始まり」はこちらの記事で復習してください。

このジェントリたちが、後に「ジェントルマン」として社会的に幅をきかせるようになります。

イギリス毛織物業の発展

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土地を持っているジェントリたちは、その土地を何に使っていたのでしょうか?

それまでは農民に土地を貸し出して耕作をさせて働かずして農作物を得ていた地主層ですが、もはや農業は儲かる時代ではありません。
大航海時代による海外市場の広がりにより、毛織物業が儲かる時代になったのです。

それならば!とジェントリたちは、自分の土地から農民(小作人)を追い出して、農地を柵で囲い羊牧場を作り上げます

この16cの農地囲い込みのことを第一次エンクロージャーといいます。

トマス・モアがこの小作人が追い出されて、代わりに羊が養われる様子を「羊が人を食べている」と批判しましたよね。

エリザベス1世の即位とイギリス絶対王政の確立

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絶対王政・ジェントリの台頭・イギリス毛織物業の発展・宗教改革という流れの中で、1558年にエリザベス1世が即位します。エリザベス1世は様々なことを成し遂げます。

1.統一法によるイギリス国教会の確立

まずイギリス国教会の確立です。

メアリ1世が突然カトリック回帰を行ってかなり混乱していたイギリスでしたが、エリザベス1世が統一法でイギリス国教会の制度を整備しました。

これにより父ヘンリ8世が首長法で始めたイギリス国教会は、娘エリザベス1世の統一法で確立されます。

2.オランダ独立戦争を支援しスペインと対立

次に先ほど説明したとおりオランダ独立戦争を支援してスペインと対立しました。理由は簡単でイギリス経済のためです。(宗教的にも旧教と新教で対立してますね)

イギリスでは毛織物業が発展しており、羊毛をネーデルラントに輸出していました。ネーデルラントは中継貿易で栄えた地ですから、イギリスから仕入れた羊毛をさらに他の地域へ輸出していたのでしょう。

つまりネーデルラントを支援することが、イギリスの発展にも繋がる状況だったのです。

そしてエリザベス1世の時代、スペインの無敵艦隊をアルマダの海戦で見事破ります。こうして海洋貿易の覇権は、スペインからオランダ・イギリスへと移っていくのです。

イギリスはオランダ同様、1600年にイギリス東インド会社を作りアジア貿易に乗り出します。

この後、イギリスとオランダは貿易圏をめぐって争うことになりますが。。。

3.救貧法による貧困層への社会保障

またエリザベス1世は、社会保障政策も行いました。
先ほど説明したとおり、ジェントリたちが第一次エンクロージャーを行ったことで農民たちは職を失い、仕事を求めて都市へと流れこんできました。

が当然仕事はなく、農民たちの貧困がイギリスの社会問題となっていました。

そこでエリザベス1世は救貧法を定め、貧困層の労働支援・金銭支援を行いました。

絶対王政4 フランスの宗教内乱と王権強化

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フランスの以前の解説はカペー朝の王様たちを紹介した後、ヴァロア朝に移り百年戦争が始まったところで終わっていました。

1453年に百年戦争をフランスの勝利で終え、フランスの領地内でイギリスの領土のほとんどは一掃されました。

戦争に勝利したフランスは、ここから王へと権力を強めていきます。ヴァロア朝→ブルボン朝とわたって、宗教内乱を乗り越えて王権を強めていくフランスを見ていきましょう。

フランソワ1世(王位1515〜47年)

前前回からイタリア戦争についてドイツ側から触れましたが、今回はフランス側から見ていきたいと思います。

ドイツのカール5世とイタリアを巡って争ったのが、フランソワ1世です。1度はドイツ側に捕虜にされる屈辱的な経験をしています。

それを受けてか、フランソワ1世はオスマン帝国のスレイマン1世と連携を結びます。フランスはオスマン帝国と軍事で協力する代わりに、カピチュレーションと呼ばれるオスマン帝国での通商特権を手に入れます。

「敵の敵は味方」ーつまり、敵である神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)を包囲したオスマン帝国は、味方であるということですね。

フランス内での宗教内乱、ユグノー戦争(1562〜98年)

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<絵はサン・バルテルミの虐殺>

フランソワ1世の次の王は、アンリ2世なのですが事故によって亡くなってしまいます。代わりにその妻、カトリーヌ・ド・メディシスが摂政として30年ほど政治の実権を握ります。

16c後半のこの時代は、宗教改革で新教が広がり始めていました。以前解説したようにフランスでもカルヴァン派の新教が広がり、フランスの新教徒たちはユグノーと呼ばれました。

神聖ローマ帝国のシュマルカルデン戦争同様、フランスでも新教を認めない声から宗教戦争が始まりました。フランスの宗教内乱がユグノー戦争です。

カトリーヌ・ド・メディシスが新教の信仰を認める勅令を出したことに反発した旧教の勢力が、新教徒74人を虐殺したことを契機にユグノー戦争は始まりました。

カトリーヌ・ド・メディシスは新教徒との融和策として、娘をフランス新教徒の中心人物と結婚させようとします。が!新教徒側がオランダ独立戦争の支援を要求してきました。この案を飲めば、スペインとの戦争は避けられません。

このことを恐れたカトリーヌ・旧教勢力は、1572年に娘と新教徒の結婚式の参列客を虐殺します。これが4000人の新教徒(ユグノー)が亡くなったサン・バルテルミの虐殺です。

ここから一気に新教徒(ユグノー)弾圧が広まります。

ブルボン朝の成立(1589~1792年)

さて宗教内乱はカトリーヌ・ド・メディシスの死後(1589年)に急展開を迎えます。虐殺を強行したことから国内ではヴァロア朝への反発が強く、次の国王はブルボン家のアンリ4世を選出することが決まります。

アンリ4世は新教徒でしたが、国王即位の条件はカトリック(旧教)への改宗でした。

アンリ4世はこれを受け入れ国王に即位し、ブルボン朝が開かれました。当然フランス内の新教徒(ユグノー)はこれに反発しましたが、1598年に新教の信仰を認めるナントの勅令を出したことでユグノー戦争は終結しました。

ルイ13世による絶対王政の始まり(王位1610〜43年)

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さぁ内乱も収束し、フランスは次のstepである絶対王政へと駒を進めます。

ユグノー戦争を見事収束したアンリ4世は残念ながら暗殺されてしまいました。

次の王はルイ13世です。彼が即位した時はまだ8歳。あまりにも王が若すぎるため母が摂政として、リシュリュー宰相として政治を動かしました。

摂政とは幼い王・帝の代わりに政治の権利を握る役職のことですが、宰相とは君主(王)の政治を補佐する役職のことです。

1614-15年にフランス名物、三部会が開かれましたが身分間の対立が激しくリシュリューが治めて閉会します。(三部会はこの記事で初めて登場し、これ以降貴族が王権を牽制することができる代表的な身分制議会でした)

ここでの活躍を認められ、リシュリューはルイ13世の宰相となります。リシュリューはこれ以降三部会を一切開かせませんでした。貴族の力を抑えることが目的だったのでしょう。(以降フランス革命の勃発したルイ16世の時代まで100年以上三部会は開かれませんでした)

リシュリューは貴族も新教徒も見事に抑えこむ政治を行い、王権の強化(絶対王政)に貢献した優秀な政治家です。

また1630年に三十年戦争(ヨーロッパの大規模宗教戦争)に新教徒側で参画します。フランス内部では新教弾圧政策を行っていたリシュリューでしたが、神聖ローマ帝国のハプスブルク家の優位に立つため宗教戦争を無視して新教徒側に立ったのです。

ルイ14世の絶対王政全盛期(王位1643〜1715年)

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三十年戦争が終結する前にリシュリューもルイ13世も亡くなり、次にルイ14世が今度はわずか5歳で即位しました。

また母が摂政として、リシュリューの正式な後継人マザランが宰相として実権を握りました。

三十年戦争の終結後、多額の戦費の補填のため行われた増税に反発した貴族たちがフランス内で反乱を起こします。フロンドの乱です。このフロンドの乱をマザランは見事に鎮圧します。まだ貴族に王権は脅かさせません。

1661年に宰相マザランが亡くなると、ルイ14世が自ら政治を取ることを宣言します。この時ルイ14世は22歳でした。彼はこれ以降、宰相を置かないことを宣言します。

ルイ14世は「朕は国家である」と言ったといわれてますね。絶対王政を表す代表的な一言だと思います。

イギリス・フランスの今後

イギリスはカルヴァン派を受け入れて新教国家として、
フランスは宗教内乱を乗り越えて旧教国家として、それぞれ過程は違いますが最終的には絶対王政へと辿り着きました。

今回紹介したエリザベス1世、ルイ14世が両国の絶対王政の全盛期です。今後、両国では革命が起きるのですがそれはまた別の記事にて!