10分でわかる世界史Bの流れ!近世ヨーロッパ(15)〜近世ヨーロッパの文化史〜

ページ内Index

近世ヨーロッパの文化は「科学と理性」

【前回までのあらすじ】(3)ルネサンスの文化史

前回の文化史でルネサンスについて説明した際に、教会から人間・個人へと関心が移り変わってきていると紹介しました。人間ってこういう生き物だよね、とみんなが考えあった時代です。

その後、宗教改革が起こってますます教会中心の価値観は失墜。代わりに、台頭してきたのが「理性」「科学」です。

科学革命が起きた3つの理由

●ルネサンスの文化史の最後に、グーテンベルクの活版印刷を紹介しました。活版印刷によって大量に書物を発行することを可能に!つまりは、15c以降人々の知識が世界中に大量流布されるようになったのです。これまで特定の閉じたコミュニティ・地域でしか広まらなかった知識が、書物によって世界中に爆発的に普及していきました。知識が普及すれば、自然と知が整理されて科学が発展するものです。

宗教改革によってカトリック教会の一強支配が終わり、歪曲した神中心の考え方は打倒されました。代わりに人々は、理性的な考え方を求めるようになります。

●さらに、主権国家が領土を巡って起こした数々の戦争は科学を発展させます。

こういった土台を元に17cに起きたのが、科学革命なのです。

17c・18cの科学革命の数々

ガリレオ・ガリレイ 望遠鏡の改良 1564-1642

early_modern_europe_culture_9

ガリレオ・ガリレイは、望遠鏡なるものがオランダで発明されたと知ると、すぐに自分でも作りました。しかも倍率がより高いものです。この望遠鏡で、木星の衛星を3つ発見したり、金星が月のように満ち欠けをしたり、太陽の黒点を発見したりしました。

こういった天体観測の結果から、地球など惑星は恒星である太陽の周りを回る「地動説」を唱えました。

が、ローマ教皇庁に異端とされて軟禁状態となってしまいました。(ちなみに晩年には、天体観測のやりすぎで失明してます。)

ニュートン 「万有引力の法則」1642-1727

ニュートンは万有引力の法則、つまり「全ての物体はお互いに引かれ合う」ことを発見しました。

りんごの逸話が有名ですが、ニュートンは地球の重力について発見したのではありません。地球に重力があって人やモノが地球に引かれ合うように、天体でも同じことが起きているのではないか?と提唱したのです。詳しくはwikipediaのこちらのページを参照下さい。

ハーヴェー 血液循環説 1578-1657

early_modern_europe_culture_8

血液は体の中を循環している。そんな当たり前の事実を、人類が知ったのは17cでした。

ハーヴェー以前は、血液は体中を巡って消費され、新たな血液が肝臓で生成されると考えられていたのです。驚きですね。

ボイル ボイルの法則 1626-91

ボイルの法則とは、気体の体積は圧力の大きさに反比例するということです。

飛行機に乗った際に、ポテチの袋が膨らむアレです。ポテチの袋の中に閉じ込められた気体は、高いところ(気圧が低い)に行くことで体積が膨張します。だから膨らむのです。

リンネ 動植物分類法 1707-78

リンネは動植物の分類を体系化したことで有名です。(つまりは整理したということ)

我々はホモ・サピエンス種ですが、その上位概念として哺乳網であり、サル目であり、ヒト科です。

こういった分類方法を整理したのがリンネなのです。

ラヴォワジェ 質量保存の法則 1743-94

ラヴォワジェは、燃焼について理論化して質量保存の法則を打ち立てました。

質量保存の法則とは、大きな木材でも燃やすとサラサラとした炭になって質量が変化したように一見思えるが、実は目に見えない二酸化炭素が発生していて、燃やす前と後では物質の全体的な質量は全く変わらないという法則です。

ちなみにラヴォワジェはフランスの貴族で、フランス革命の動乱の中処刑されてしまいます。

ジェンナー 種痘法 1749-1823

early_modern_europe_culture_7

人々に猛威を奮っていた天然痘。体中にぶつぶつができて皮膚が盛り上がる病気でしたが、ジェンナーの種痘法という予防接種の確立によって根絶しました。

ジェンナーは、牛痘に罹った人は天然痘を発症しないという説に注目してワクチンを開発したのです。ジェンナーは免疫学の基礎を開きました。

理性的・科学的な考え方の登場

17c・18cの主な科学技術について説明しましたが、こういった科学を発展させたのは哲学上の「考え方」でもあるのです。

科学は、科学者が生み出します。そして科学者は、いくつかの「考え方」に則って実験をして、科学を産み出すのです。この「考え方」を理論化したのが哲学者なのです。

科学とは何か?と聞かれて答えは様々ですが、僕は1つの「法則」を見つけ出すことだと思います。法則とは、自然界に存在するルールのことです。その法則を見つけ出すための、「考え方」をこれからご紹介します

フランシス・ベーコン

early_modern_europe_culture_4

イギリスの哲学者のフランシス・ベーコンは、自然を観察して、様々な事例をあぶり出して、法則や真実を見つけ出そうとする帰納法を提唱しました。

「人は必ず死ぬ」・・・これは真実である!と断定できるのは、帰納法的な考え方が皆さんの頭の中で行われているからです。

子どもの頃、「死」を実感したのはきっと身近な人が亡くなった時ではないでしょうか?ひいおじいさんは死んだ。ひいおばあさんも死んだ。昨年には父も亡くなった。母も病気に伏している。こうした経験の積み重ねで幼い子はふと気づきます。なるほど、人は死ぬのだ、と。
このように様々な事例を経験して、「人は必ず死ぬ」という真実・法則にたどり着くのが帰納法です。

帰納法は、事例を沢山挙げればあげるほど真実に近づくので、長い時間=経験を積めばより良い。なので「経験論」と呼ばれます。

デカルト「方法序説」

early_modern_europe_culture_5

フランスの哲学者、デカルトの著書「方法序説」では演繹法という、帰納法と並ぶ、法則・真実を見つけ出す考え方を提唱しました。

演繹法とは、1つの法則・真実を元に、新しい法則・真実を導き出す考え方です。

「人が死ぬ」というのは、当たり前の法則・真実だという前提をまず置きます。さらに「私も人間である」という当たり前の法則があれば、この2つの法則を組み合わせて「私も必ず死ぬ」という新しい法則が生まれます。この考え方の展開が、演繹法です。

デカルトの有名な言葉「我思う故に我あり」は、演繹法にたどり着いた最初の命題です。
デカルトは懐疑論者でした。方法的懐疑とも呼ばれます。つまりは、目の前にするあらゆることを疑ったのです。(ガリレイの地動説がローマ教皇庁に異端と判断されたことが衝撃だったと言われています。)

目の前のことを疑って、疑って、疑って、本当の真理は何であるか考える旅に出て、最終的にデカルトは気づきます。こんなにもあらゆることを疑って考え続けている私という存在は、確実に存在しているのだと。

「考えるものは存在する」+「私は考えている」=「私は存在する」

私は考えている、だから私は存在する。(前提条件は、考えるものは存在しているという当たり前の事実)
これが我思う故に我ありです。

他にも哲学者として、パスカル・スピノザ・ライプニッツがいますが長くなるので割愛します。

カント ドイツ観念論

ベーコンとデカルト。この2人の哲学者が生み出した、帰納法と演繹法という2つの考え方は、2つの流れを生み出します。
イギリス生まれのフランシス・ベーコンの帰納法は、イギリス経験論
フランス生まれのデカルトの演繹法は、大陸合理論

両者は互いに対立し合いましたが、ドイツの哲学者カントによって統一されます。イギリス経験論と大陸合理論が統一されて、カントによってドイツ観念論が生まれました。

自然法思想

自然法思想とは、要は自然状態において当然認められていることをよく考えて法律やルールを作ろう!という考え方のことです。まさに理性的な思考法ですね。

グロティウス「戦争と平和の法」「海洋自由論」  1583-1645

グロティウスは三十年戦争の悲惨さを受けて、戦争時のルールを明確にすべきだとして「戦争と平和の法」にて、国際法を体系化しました。これは革命的で、各主権国家を越えて全ての人類に適応されるべきルール(つまり自然法)を打ち出したのです。

またオランダ全盛期の時代に生まれたオランダ人であるため、「海洋自由論」にて海に国境はないのだから航海するのは自由であるという原則を唱えます。

ホッブズ 「リヴァイアサン」1588-1679

ホッブズは、著書「リヴァイアサン」の中で人間は放っておくと(=自然状態では)闘争状態に陥ると表現しました。
人は誰しも生き延びたくて、それぞれが自然権(人間が自然状態で持つ権利。生きることもまた権利)を主張し合えば必ず戦いが始まってしまうということです。

この状態を「万人の万人に対する闘争」と呼びます。この状態にならないようにするためには、各個人が強大な力を持った国家と契約して自然権を国家に委譲しなければならないと説きました。

個人が「契約」し合うことで国家が形成されたという社会契約説は新しい考え方でしたが、結局絶対王政のような強い権力は必要であると擁護することになっています

ロック「市民政府二論」1632-1704

イギリスの哲学者であるロックは、名誉革命後、この革命を正当化するため「市民政府二論」を記しました。

ホッブズは自然権を契約にもとづいて国家に委譲するとしました。ロックも大まかにはこの社会契約説に同意していますが、国家にまるまる自然権を委譲するのではなく、自然権の一部を委託しているのだと主張しました。

そして国民は国家を信じて自然権を委託しているのだから、その国家が暴走して自然権が侵害された場合、抵抗権をもつことができる!としました。

国民が国家に対して抵抗する権利、つまり名誉革命を正当化するものですね。

ココらへんのホッブズやロックの社会思想は抽象的でわかりにくい部分もあると思います。もう少しわかりやすく説明して欲しいという方は、こちらのサイトが参考になると思います。平易な言葉で自然権や国家との契約について書いてあります。

啓蒙思想

啓蒙思想というのは、理性を最も重視する考え方です。従来の無知な慣習や制度を、理性によって消していこうということです。オーストリアやプロイセンの君主の啓蒙思想主義も、啓蒙思想の影響を受けています。

ちなみにこれから説明する人たちは全て18世紀に活躍した人たちです。なので18世紀は啓蒙の時代とも言われています。(なので啓蒙思想主義の君主たちも18世紀後半の人間です)

モンテスキュー「法の精神」 1689-1755

フランスの啓蒙思想家のモンテスキューは、著書「法の精神」にて三権分立を説きました。

三権分立とは、国家権力を「司法」「立法」「行政」の3つの機関に分けることで、国家権力が1ヶ所に集中し暴走することを避けることができる制度です。

絶対王政の時代には、王様が自由に人を裁き、自分勝手の法を立て、勝手に王宮を建てさせたりしていましたが、モンテスキューはこれを批判しています。

現代の日本でも、司法の役割は裁判所・立法の役割は国会・行政の役割は内閣が請け負っていますよね。

ヴォルテール「哲学書簡」1694-1778

ヴォルテールもフランスの啓蒙思想家です。著書はそこまで有名ではないものの、プロイセンのフリードリヒ2世・オーストリアのエカチェリーナ2世と親交が深く、啓蒙思想主義の君主に大きく影響を与えました。

ルソー「社会契約論」1712-78

ホッブズ・ロックに続いて社会契約説について論じたフランスの思想家ルソー

ルソーは「社会契約論」にて、人々の全ての意志=一般意志にもとづいて生み出された共同体(政府)が、人々の自然権を守るべきということを主張しました。

国民の意志を重視する、人民主権の考え方が、民主主義へと発展しフランス革命にも大きく影響を与えました

ディドロ1713-84,  ダランベール1717-83「百科全書」

early_modern_europe_culture_3

フランスのディドロダランベールは、「百科全書」を編纂しました。

啓蒙思想とは理性を持つことを推奨しました。だからこそ理性の元となる知識がつまった本が必要とされ、そこで百科事典である「百科全書」が生まれたのです。

科学・哲学・思想・宗教など幅広い知識が、百科全書には載せられました。

経済学

理性・知識の時代だからこそ、お金の流れも理性で支配できると経済学が生まれます。

経済学については、16~18世紀にヨーロッパ各国で重商主義が行われました。自国の産物を輸出して、資本を蓄えよう!という考え方ですね。対して、18世紀には重農主義という農業を重視しようという考え方が生まれます。

ケネー「経済表」1694-1774

フランスの経済学者ケネーの著書「経済表」では、農業こそが富の源泉であるという重農主義を展開しました。

ケネーは個人の農業の生産量を最大化するには、国家にとやかく規制されない自由放任主義が重要とし、「なすに任せよ(レッセ・フェール)」を説きました。この自由放任主義は、個人の自由な経済活動を求める思想へと変化していき、アダム・スミスへと引き継がれ資本主義の基礎を形成していくことになります。

アダム・スミス「国富論」1723-90

shutterstock_221085262

イギリスの経済学者アダム・スミスは、著書「国富論」にて商人や農民・工業人などの個人の自由な経済活動を認める自由放任主義が、富を蓄積するのに最も有効であると主張しました。

国家が規制をかけないと経済が破綻するというこれまでの考え方は、「神の見えざる手」という市場による価格の自動調整機能によって覆されることになりました。

アダム・スミスから資本主義を体系化していく、古典派経済学が始まります。

神の見えざる手とは、市場において需要と供給のバランスによって勝手に価格は決まっていくという考え方です。

例えば、周囲のガソリンスタンドが1リットル100円で売っているにも関わらず、新規のガソリンスタンドが1リットル120円でボロ儲けできるでしょうか?当然できません。なのでこの新規のガソリンスタンドはそのまま倒産するか、価格を100円前後まで下げる必要があります。

これを強いたのは、市場です。市場とは、何かを求める需要者、何かを与える供給者の間でモノが売買されてる場所のことを言います。この例では、正に需要者である周囲のドライバーが、供給者であるガソリンスタンドに自然と価格を下げさせたのです。

この勝手に市場で価格が決まることこそ神の見えざる手で、だからこそアダム・スミスは国家による経済介入は必要なく、自由放任主義を説きました

宮廷文化

これまで理性についてばかり説明してきましたが、それでも17・18世紀は絶対王政の時代であることに変わりはありません。絢爛豪華な宮廷で、美術・建築・音楽など華やかな文化も育っていました。

バロック美術

バロック美術とは、17世紀に主に栄えた美術・建築様式です。豪華・絢爛で、躍動的な美術様式は、権力の集まった宮廷文化を特徴づける美術様式ですね。

ヴェルサイユ宮殿

chateau-de-versailles-spectacles-cc_milet_0084
バロック美術の代表的な建物は、フランスのヴェルサイユ宮殿が代表的です。

ルイ14世の絶対的な権力を持って、フランスの美術の全てをヴェルサイユ宮殿に注ぎ込みまれました。当時の贅沢品である鏡を部屋中にふんだんに使った鏡の間などは、豪華さの象徴とも言えるでしょう。

ルーベンス, ファン=ダイク(フランドル派)

続いて絵画です。フランドル派とは、現ベルギーのフランドル地方で発達した美術流派です。ルネサンスの文化史でも出てきた通り14cから始まりました。

17世紀の有名なフランドル派は、ルーベンスファン=ダイクの2人。

エル=グレコ, ベラスケス(スペイン派)

lasmeninas

<ラス・メニーナス>

フランドル派の他にもこの時代には、スペインの画家が台頭しました。17cの有名なスペインの画家はエル=グレコベラスケスの2人。

特にベラスケスは、スペインの宮廷画家として活躍しました。上の画像の「ラス・メニーナス」はスペインの宮廷の人々を写真のように写実的に描いている。

フェルメール 1632-75

g759

<真珠の耳飾りの少女>

他にも写実的な画家としてオランダのフェルメールが挙げられる。特に上の画像の「真珠の耳飾りの少女」は写真で撮った女の子のようです。瞳や唇に、光がうっすら当たっているのが写真で撮っているかのように見えるポイントです。

コルネイユ・ラシーヌ・モリエール(フランス宮廷劇作家)

続いて宮廷演劇を紹介します。フランスでは、宮廷での劇が盛り上がりました。

コルネイユラシーヌは悲劇作家、モリエールは喜劇作家です。

ロココ美術

ロココ美術とは、18世紀のフランスを中心に発展した美術・建築様式のことです。バロック美術の豪華さに比べて、ロココ美術は繊細・華蓮な感じです。

サンスーシ宮殿

755764531_25b4b73ac1_b

ロココ様式の建築物といえば、プロイセンのサンスーシ宮殿です。フリードリヒ2世が建設したこの宮殿は、フランスのヴェルサイユ宮殿に比べて簡素に見えますが、それこそロココ様式なのです。

ワトー「シテール島の巡礼」

ea04bf18f1135a73a096342126c769f2

<シテール島の巡礼>

ロココ美術の代表的な画家はワトーです。雅な宴を描いた画家として知られています。

バロック音楽(16世紀後半〜18世紀)

最後に音楽を紹介。音楽の父であるバッハ、ヘンデルらが有名です。ともにドイツの音楽家で、宮廷音楽家です。

古典派音楽(18世紀半ば〜19世紀初頭)

オーストリアを中心に発展した古典派音楽。その古典派音楽を確立したのがモーツァルトで、様々な名曲を残しました。

他に「交響曲の父」と呼ばれるハイドンもオーストリア出身です。他にもベートーヴェンは、ナポレオンの戦績をたたえた曲「英雄」を残しました。

市民の文化

17世紀・18世紀は絶対王政の時代とはいえ、少しずつ市民が台頭してきた時代でもあります。それは文化においても同じで、市民が形成する文化もまた確かに評価されつつあったのです。

レンブラント「夜景」

760px-the_nightwatch_by_rembrandt

<夜警>

レンブラントの「夜警」は、オランダの市民隊を描いた作品。市民に焦点を当てた、美しい作品。

ミルトン「失楽園」、バンヤン「天路歴程」

17世紀のイギリスで流行ったピューリタン文学の2塔が、ミルトン「失楽園」とバンヤン「天路歴程」です。

イギリスの作家であるミルトンは、ピューリタン革命を支持した革命派でした。40代で失明し、口述筆記にて「失楽園」を完成させました。

ほとんど教育を受けていないというバンヤン。妻がピューリタンであったため、改宗しました。

デフォー「ロビンソン=クルーソー」、スウィフト「ガリヴァー旅行記」

early_modern_europe_culture_1

これぞ市民文学!と言える両作品。辛辣なイギリス風刺が盛り込まれています。

イギリスのコーヒーハウス、フランスのカフェ・サロン

early_modern_europe_culture_2

イギリスの市民層たちが、イスラム文化からもたらされたコーヒーを楽しみながら、政治・経済などについて議論を交わした場がコーヒーハウスです。

他にもフランスではカフェが、同様に市民が政治について議論する場になりフランス革命への足がかりでもありました。他にもフランスでは、サロンと呼ばれる社交場が開かれ、フランス革命の主導者の集まる場としても使われました。